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クリエイター名 |
音夜葵 |
サンプル
メモリーカード
「思い出に浸りだすと、人はダメになる」 それは唐突に口を開いた彼が、何の脈絡もなく告げた言葉。 ふ、と笑みを零し、腰をおろす彼の傍らで本棚を漁っていた青年は、たおやかな仕草で尋ねた。 「いまの貴方が、そういう状況なのですかね?」 「そうかもしれないな」 淡々として味気ない会話。 それが、二言三言交わされて後、二人の間には自然と、沈黙が下りる。 彼をじっと見つめていた青年は、やがて手をかけていた本へと視線を戻すし、そんな青年に、彼は視線の一つも向けやしないし。 二人の間に生じるのは、なんとも淡白な空気だけ。 だが、青年はこの空気が好きだった。 天下を極めた者にだけ入室の許されるこの部屋で、彼と二人きりのときだけに起こる、何の音もない静けさ。 その中にぽつんと佇んでいる自分が、なんだか、時の支配から逃れた者のような気がして。 何もかもが止まったような世界に、住んでいるような気がして。 けれど、そんな世界にちらと恐怖を抱く、人間らしい理性も持ち合わせているから。青年は、無音の世界を崩すべく、問い掛けるのだ。 「貴方の中には、どんな思い出が広がっているのでしょうね?」 かたん。分厚い本が、本棚の奥に押し込まれる。 ややあって、彼はぼんやりと口を開いた。 「お前と、始めて会った頃のことだな」 「あぁ、あの殺伐とした空気」 「それ以上の敵愾心」 「お互いが仇であるかのようで」 「互いに認め合った存在でもあった」 「貴方に追われた日々……思い起こしてみれば、懐かしいものですね」 「奴の存在なくして、俺達がここに落ち着くことはなかっただろうな」 足元に降りていた瞳が、つい、と上を見上げる。 空と見まごう程に高く備えられた天井。 先の見えないそこを覆うように揃えられた、おびただしいまでの蔵書。 ふわりと浮き沈みを繰り返す不思議な乗り物の上で、本の山に囲まれていた彼らは、とても不思議な関係だった。 仲間ではない。友人でもない。 知り合いではあるが、味方ではない。 かといって敵かといえば、そこまで険悪でもなく。 それでも、互いに命を削りあうほどのこともあった。 いまでこそ、こうして二人、穏やかな空気を放ちながら佇むことが出来るわけだが。 ただいえるのは、彼らの間に入り、いまの不思議な関係をとりなした懐かしい姿があったという、遠い遠い事実だけ。 「涼空さん」 不意に、青年が視線を下ろした。 その華奢な胴より大きく見える、一冊の本を抱え込んで。 「思い出というのは色褪せて、脚色され、時を重ねるほどに移り変わるものです」 にこり。傍らの彼に微笑みかけ、青年はふわりと腰をおろした。 「涼空さんが仰るように、そのような幻想に浸りだした人間は、ダメになってしまうかもしれません」 見つめながら語る青年。彼は初めて、そんな青年に視線を向ける。 真っ直ぐに交わった瞳は、紫暗と、紅蓮とに彩られ、丸い硝子球のように互いを映しこんでいた。 沈黙。このまま静けさに浸りたくなる衝動を押し込めながら、青年はまた、語る。 「ですが、誰も振り返ることをしなければ、彼の存在は掻き消えてしまいます」 語りながら、す、と差し出したのは、硬い表紙に覆われた、本。 シリーズものとしては恐ろしい桁の刻まれた、『記録書』だった。 「誰かが記したものを読み解き、事実に思い出を絡ませ、ふとした感傷に浸るのは、悪いことではないと思いますよ」 「七夢……」 紅蓮が、柔らかく細められる。 小首を傾げる七夢を見つめ、涼空は初めて、笑みを浮べた。 「お前と一緒にいることが出来てよかった」 「そうですか?」 「一人では、俺はダメになっていた」 「曖昧な思い出と一緒に、ですか」 くすくす。笑う七夢に、涼空は相槌だけを返して、立ち上がった。 足元から辿るように、その横顔を見つめてから。七夢はぱらり、重い表紙を開いた。 「彼は、何処へ行ってしまったのでしょうね」 「知らん。奴はお前以上に、気まぐれだ」 厚手の紙に記されているのは、ほんの少し、困ったように微笑んだ青年の姿。 それを見つめる紫暗の瞳に、穏やかな色が灯る。 「貴方はいつでも、武と智をとりなして、次の世へと行方をくらましているのですね」 記録と、記憶へ。 囁くような問いかけを贈る。 「ねぇ、真翔さん……」 高く、高く、聳える記録書庫の中。天下を極めた二人は、静かに、思い出を紐解くのであった。
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