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クリエイター名  十六夜かおる
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 僕の目覚めは、いつもゆっくりとした光の洗礼によって始る。
 カーテンをゆっくりと引く僅かな音、そしてその音に合せて徐々に視界を明るく染めてゆく光。
 目を閉ざしていても、その光は確実に僕の意識へと届く。
 朝気持ちよく目覚めるには、光に徐々にならしてゆくのが良い。
 僕の目覚めはそうした細心の気配りと、耳に心地よい言葉で始るのだった。
「おはようございます、御主人様」
「あぁ……おはよう」
 僕はゆっくりと目蓋を開きつつ、返事を返す。ぼやけていた視界がゆっくりと焦点を結びはじめ、やがてにこやかに微笑んで僕を覗き込んでいる女性の顔を捉える。
「ご気分はいかがですか? 悪い夢を見たりはしませんでしたか?」
 彼女は……そう、彼女は僕のメイドだった。それ以外の事はわからないし、別にわかろうとも思わない。そんな事は大した事じゃないんだ。
 重要な事は、つまり彼女が僕の側に必ず控えていてくれるという事実だけだった。
「どうぞ……お目覚めの珈琲です」
 僕の朝は、その豊潤な香りで始ると言っても過言ではない。濃さも温度も僕の好みぴったりに調整されているその珈琲は、まさに彼女が僕のためだけに煎れてくれた物である事を雄弁に語っていた。
「相変らずの腕前だね」
「恐れ入ります」
 僕の言葉に彼女は微笑みを浮かべつつ会釈する。
 思えばそれは毎日繰り替えされる日常の光景だった。その繰り替えしを、僕も彼女も飽きる事なく続けているのだ。
「御主人様、今日も良い天気ですよ。御予定はどうなさいます?」
 空になった珈琲カップを慣れた手つきで片付けつつ彼女は訊ねる。
 思えばそれも決まった日常の言葉だった。彼女と過した時の中で、少なくとも僕は天気の悪い日なんて記憶にない。
「本の続きをお読みになりますか? それともお庭で微睡みつつ日光浴でもなされますか? あるいはお弁当をお作りしますから、ハイキングにお出掛けになるのも宜しいかと存じます」
「うん……それもいいけど」
 彼女の言葉に僕は曖昧に頷いた。なにかすっきりとしない。
「……私、なにかお気に障る事をやってしまったでしょうか?」
 熱のこもらない僕の言葉に、彼女は恐る恐るといった風に訊ねて来た。自分が何を粗相をしてしまい、それで僕が怒っているのではないかと誤解しているらしい。
「あぁ、いや……そんな事じゃないよ」
 その事に思い当たると同時に、慌てて僕は否定の言葉を口にする。
 彼女はいつも僕の為に尽してくれる。その事に感謝こそすれ不満はない。
 だがそれでも僕は、何とも言えぬ違和感が日増しに強くなるのを感じていた。
 そう、彼女は僕のために尽してくれる。
 彼女は常に僕の側に居てくれる。

 だけど、この世界には彼女と僕しか存在しないのだ。

 この世界には知人や友人、そして肉親といった『他人』という存在が完全に欠落している。
 はじめはその事をなかば自然に当然の物として受け入れていたのに、ここ暫くの間にそれは押えようのない焦燥感へと変化しつつあった。
 何故だか理由はわからない。なんの脈絡もなく、唐突に僕は自分の置かれている現実に違和感を覚え始めていたのだ。
 それは、忘れていた大切な何を思い出しそうとするようなもどかしさの持つ焦燥感にも似ていたかもしれない。
「その……実は……何か、よくわからないけど何か大切な事を忘れていたような気がするんだ」
 結局それをうまく言葉にまとめる事ができず、僕は自分でも漠然とした内容を口にする。
「本当は絶対に忘れてはいけなかったなにか……そんな気がする」
「………」
 僕の言葉に彼女は少し寂しげな表情を浮かべ、そして口を開いた。
「それでしたら、御主人様。そろそろお目覚めになる時が来たのだと存じます」
「ん?」
 彼女の返事は唐突で、そして意味が分からなかった。
 お目覚めの時? なんだって、僕は今さっき目覚めたばかりじゃないか?
「思えば御主人様がこちらにおいでになられて相当な時間もたっていますから、頃合いとしてはそろそろ宜しいかもしれません」
 困惑する僕とは別に、なにか一人で納得している様子の彼女。
「目覚めるって、一体それはどんな意味が……!」
 少々声を荒げてしまった僕の唇に、彼女はそっと人差し指を押し当てた。
「御主人様、貴方が望むのならば私は何時までも貴方の側にお仕えします。ですが、今はまだその時ではありませんと存じます」
 そうして僕の口を封じ、彼女は寂しげな表情を浮かべたまま言葉を続ける。
「そろそろ、大切な人達が待っている『現実』へとお目覚めになるべき時です」
「な、なにを……」
 分からない。彼女は一体なにを?
「私は御主人様に一時の安らぎを差し上げる為にここにいます。でも、それは永遠の安らぎを意味するものではありません」
 いや、違う、わからないんじゃない。僕はわかりたくないんだ。
「御主人様。御主人様があの事故で受けたショックは、私にもよくわかります」
 事故……あぁ、そうだった。僕は事故で入院して……そして。
「その……身体が不自由になってしまった事に絶望し、そしてなによりその為に知人の方や友人の方達の期待に応える事が出来なくなった事に絶望した気持ちもわかります」
 そうだ。僕は周囲から期待されて将来も期待されるエースだった。
 でも、あの事故で僕の身体は二度とエースとして期待に応える事はできないダメージを受けてしまい、そして全てに絶望した僕は……。
「御主人様、でもお考えになってください。御主人様は確かにエースとして皆の期待に応えるは出来ません。ですが、良き仲間、良き友人、そして今までの繋がりこそをなによりも大切な絆だと信じていらっしゃる方達がいらっしゃいます。その方達の為にも、そろそろ現実へとお戻りになるべきだと存じます」
「そう、か……」
 僕はゆっくりと頷いた。それは心の奥底で眠っていた恐怖だったから。
 エースとして活躍できなくなった僕は、もしかしたら誰にも必用とされてないんじゃないか?
 その恐怖が、僕をこの彼女のいる楽園に逃避させていたんだ。少なくとも、彼女だけは僕を否定しないから。
「そうだね。キミの言う通りだ」
 そうだ、彼女の言う通りだ。そろそろ僕も現実と向き合わなくてはならない。
 なぜなら、僕は今まで一人で存在していたわけではなく、他の人との関り合いの中で生きて来たのだから。突然、僕一人だけ勝手にその関り合いの中から逃げ出しては駄目だ。
「御理解頂き、恐縮です」
 彼女は再び微笑みの表情を浮かべる。
「ご安心ください。私は御主人様にだけお仕えする者です。ですから、ここで御主人様が再び私を必用としてくれる日が訪れるのをずっとお待ちしております」
「ひょっとしたら、随分待たせるかもしれないよ」
 ちょっと意地悪な僕の言葉に、彼女はにっこりと微笑んだ。
「大丈夫です。その代わり御主人様が為すべき事を果たし、全てを終えてここに戻ってこられましたら――その時には御主人様、私と永遠に共にあって貰いますから」
「うん。約束するよ」
 僕の返事に彼女は満足げに頷き、そして僕の肩に上着をそっと掛けてくれ、いつもと変らぬ会釈を送ってくれた。
「それでは、気をつけて行ってらっしゃいませ」
「うん、行ってくるよ」
 僕は力強く一歩を踏み出す――皆の待つ『現実』へと戻る為に。
 そしていつか、胸を張って彼女の元へと戻る日の為に。
 
 
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