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クリエイター名  明神公平
暗闇

暗闇

 公園の時計はもう五時半を過ぎている。遊具は茜色に染まり地面に長い影を落としている。小さな、隠れ家のようなその場所で揺れているのは一つのブランコばかり。そのブランコには小さな少年が乗っていて、すぐ脇にはさらに幼い少年がうずくまって膝を抱えていた。
「お兄ちゃん」
幼い弟が膝を抱えたまま、泣き出しそうな声を上げた。しかしブランコを揺する少年は返事をしない。
「帰ろうよ」
もうご飯の時間だよ、と弟は暮れ行く太陽を指差した。日が沈むと、あっという間に辺りは暗くなる。街灯も軒先の明かりも灯るけれど、曲がり角の闇は、まだ四歳の弟を恐れさせるには充分だった。実際、弟は夕飯を気にするよりも闇の来るのが恐ろしくてさっきから兄に帰ろう帰ろうと促し続けていたのだ。
 五歳の兄は、ブランコから降りようとはしなかった。ただ一言
「帰りたいなら一人で帰れよ」
普段にない乱暴な口調がただでさえ臆病な弟を泣き顔に変える。たまのわがままに、ときに泣かされるのに、弟はどこに行くにも少年の後をついて回る。今日もやはり、兄に対してなにも言葉を返さず黙って涙目を注ぐだけだった。
 いつもなら、とっくに家の中でテレビを見ている時間だった。それなのに誰もいない公園で、ブランコをこぎ続けているその理由は、少年にもよくわからなかった。ただ、帰りたくなかったのだ。
「おれは帰らない」
少年は最近自分のことをおれ、と言うようになった。それは少年なりの意地みたいなもので、ぼくと言う弟に対してお前とは違うんだと見せつけているようでもあった。
 弟は膝を抱えていた手で地面に絵を描きはじめた。いつもなら今ごろ兄弟で見ているテレビのキャラクターだった。一つ描いたならその横にもう一つ、また一つ。横から見ていると一体なにを描いているのかわからないが、弟にはその違いがわかるらしい。丸の固まりは少年がブランコをこいでいる間延々と増え続けていた。太陽が照らす今日最後の光を背に受けていたから、弟は自分の影を見つめその暗闇の中必死に地面に目をこらし、絵を描き続けていた。
「目が悪くなるぞ」
今度は少年が声をかける番だった。しかし弟は兄の真似をしてなにも言わなかった。やがて自分の周りに絵を描く場所がなくなったのに気づくと、最初に描いた絵を手で消してまた同じ絵を繰り返し描き始めた。描きながら、地面の砂にぽたりぽたりとしずくが落ちた。
 怖い。それに、お腹も空いてる。テレビだって見たい。お父さん。お母さん。弟の心中では幼い言葉でいろいろな思惑が巡っていた。家に帰りたいのに帰れない、そのことが弟の心をひどく悲しませていた。けれどそれでも、健気な弟の心に
「お兄ちゃん大嫌い」
は決して浮かんでこなかった。代わりに喉元へ競りあがってくる自分でもうるさいほどの不安を指先から絵を描くことで吐き出していた。
 だが、もう弟は絵を描けなかった。遊具の影はさらに長くなり、ブランコの揺れる影の長さが日時計のように時の進行を教えていた。さっきまで茜色だった空も次第に紫に侵食され藍へと変わり、夕闇を運んできた。弟の影と周囲の色とは判然としなくなり、指先は絵の描かれていないところを見つけ出せなくなっていた。まだ完全な夜とはいえなかったが、街灯のつかない不安が弟を立ち上がらせる。
「怖いよ、帰ろうよ」
弟はついに本音を叫んだ。
 悲鳴のような懇願を聞いた瞬間、少年の手には強い力がこめられた。きゅっと、音の出るほどに、ブランコの鎖を掴んだ。暗いので見えないのだけれど、弟の頬は恐らく涙で汚れているに違いなかった。だがそれを見つめる少年の顔もやはり暗くてわからないのだった。ただ、暗い中でも声というのはやけに伝わるもので、弟は影法師の兄が口を開き声を出すのを聞いた。
「怖いなら帰れ」
後の言葉は一語一語がやけにはっきり、区切られるように聞こえた。
「おれは、怖くなんか、ない」
影法師は相変わらず、ブランコをこぎ続けていた。
 幼い兄弟二人きりである、喧嘩は日常茶飯事だった。しかしどれも他愛ないものばかりで、弟が泣けばすぐ兄である少年は不機嫌ながらも折れた。それに少年は、不当に弟をいじめることは滅多になかった。自分が親に叱られたとか友達と喧嘩したと言って弟に八つ当たりすることなど殆どなかった。ときどきはおやつを分けてくれたりもした。弟にとっては優しい、大好きな兄なのだ。
 それなのに今日は幼稚園から帰ってきてずっとブランコをこいでいた。弟は一度も乗せてもらえなかった。物事のよくわからない弟にも、延々ブランコに乗り続ける兄が決して楽しくてブランコをこいでいるのではないということはなんとなくわかった。だから黙って他の遊具、すべり台とか鉄棒とかで遊んでいたのだ。そうやって兄に従って、ずっと大人しくしていたのに兄から邪険に怒鳴られ、弟の目から一気に涙がこぼれ落ちた。一度我慢を止めた涙は止まらなかった。
 足元を蹴散らして絵を消すこともせず、弟は公園の出口へ向かって走り出した。出口を飛び出して、そこから横に伸びている道を右に向かう。兄弟の家はここから歩いて五分のマンションの三階にあった。今弟が走っていった道をずっとまっすぐ行って、横断歩道を一つ渡る。それからさらにまっすぐ、コンビニエンスストアが見えてきたら右に折れる。そうすれば帰りつける、入り口に二本の木が並んで立っているのが目印の、クリーム色のマンションだった。入り口はオートロックで、鍵は少年しか持っていなかった。運良く中に入れたとしてもエレベータのボタンは高すぎて弟は届かない。だから、弟は一人では家に帰れないのだ。
 帰れないことはわかっているのに、それなのに少年は走っていく弟を止めなかった。いや、止められなかった。ブランコをこぎ続けていた。正直なところ、弟が
「帰れ」
と言われて本当に帰るとは思わなかった。
 怖くないなんて嘘だった。本当は、少年も暗闇が怖くてたまらなかった。まだ五歳なのだから当然である、最初はただ強がっていただけなのに今では本当に帰ろうと思うことさえ恐ろしくて、たった五分の帰り道が永遠のように遠くて、だからこのままブランコをこぎ続けて母親が迎えに来るのを待つつもりだったのだ。しかし兄という立場上弟にそんな弱音は吐けなかった。本音の代わりに怒鳴った言葉は、少年でさえわかるほどに声が震えていた。今でも、暗闇に向かってブランコをこぎ続ける膝ががくがくしていた。
 少年は強がりばかりで、実際に強いわけではなかった。普段は明るくおどけたりもするけれど友達と怖い話をすればすぐ黙り込んでしまう。今日、それをあまり仲良くない同じ組の少年から言い当てられたので、そのせいで不機嫌だったのだ。
「弱虫、意気地なし」
罵りの言葉に少年は一言も言い返せず、唇を噛んでいた。しかし、それはただなんとなく不機嫌だっただけで、実際はそれを理由にブランコに乗り続けて暗闇と度胸試しをするつもりなど全くなかった。それでも、街灯のつくまでブランコをこいでいたのは結局弟の存在があったからだった。
 本当に心の強いのは、実は弟のほうだった。なにからなにまで兄である少年の真似をしてついて回る弟は結局、なにをするでも兄より早かった。泳ぎを覚えるのも、自転車に乗るのも。弟は気づいていないだろうが、兄は弟のそんな姿を自分の同じ年であった頃と比べ、追い抜かれることを心配しているのだ。そして今日ついに、少年は弟に追い抜かされたと感じていた。少年は決して走り出せないと思った、暗闇に向かっては。弟のように涙の力を借りてさえもきっと、この場に立ち尽くしていただろう。
 鎖を握りしめる手は弱い意志を責める強い意志がこめられていた。せめて怯える弟にもう少し優しくしてやれたなら、と思った。それなのに足は相変わらず空中で風を切り、ブランコは高く揺れていた。楽しくもないのに、今は苦しいだけなのに、ブランコを止められなかった。静かな暗闇が少年を包み込んでいた。少し離れた交差点から聞こえる車の音以外は少年のこぐブランコが立てるキーコ、キーコという錆びた音くらいだった。
 けれどそのとき、二つの音に混じってかすかな泣き声が聞こえた。泣き声交じりの、誰かを呼ぶ声だった。少年はブランコをこぐのを止めて、音に耳をすませた。
「お兄ちゃん」
そう聞こえたように思えた。
「お兄ちゃん」
声は繰り返された。弟の声に違いなかった。弟が、泣きながら少年を呼んでいるのだった。
 こぐのを止めたおかげで揺れの小さくなっていたブランコから少年は飛び降りた。長時間ブランコに乗っていたため平衡感覚がおかしくなっていて、地面に足をついた途端よろけて転んでしまった。そのまま立ち上がる、また数歩よろける。
「お兄ちゃん」
泣き声はまだ続いている。転んだときの膝が痛かったが、もしかしたら血が出ているのかもしれなかったが、少年は出口を目指した。公園の敷地をぐるりと囲むフェンスが途切れているところに茶色い柱を立ててあるだけの出口へついた頃には平衡感覚も元に戻っていたから、少年は右へ向かって走り出した。
 一人で家に帰ろうと公園を飛び出した弟は、暗闇に怯え、横断歩道までも行けず、ほの明るい街灯の下でさっきみたいにうずくまって泣いていた。泣きながら、ただひたすらに少年を呼び続けていた。
「お兄ちゃん」
暗闇の中から走ってきた兄の姿を確認すると弟は立ち上がり、しかし駆け寄ることができず、兄の近づいてくるのを待ってその自分とほとんど変わらない、少し大きな胸にしがみついて半袖のシャツを涙と鼻水で汚した。無我夢中な弟の様子に、兄である少年も少しだけ泣きそうになった。
「帰るぞ」
「うん」
少年が手を出すと弟はすぐさま自分の手を出してつないだ。小さな手はじっとり汗ばんでいた。だが、実は少年の手も同じくらいに汗ばんでいた。街灯の下を歩きながらの帰り道、弟は少年の膝を見て血が出てるよ、と言った。少年はうん、と頷いただけでそのまま並んで歩き続けた。
 その後、家に辿りついた後も兄弟二人、暗闇を恐れ続けた。だから二人で公園へ遊びに行っても、夕暮れになればすぐ帰ってきた。弟にしてみれば相変わらず兄の後ろをついて回っているだけなのだが、少年にしてみれば自分はやっぱり弱虫なのだと肩を落としてしまうのだった。
 だが実際のところ、少年は決して弱虫などではなかった。あの日、泣きじゃくり自分を呼ぶ弟の元へ、暗闇の恐怖と戦いながらも駆けつけることができたのだから、あのとき弟を見捨てていれば間違いなく弱虫だった、少年自身は気づいていないが、本当に本当の部分では、少年は弱虫ではないのだった。恐らく弟もそんな兄だからこそ、ついて回るのだろう。


 
 
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