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クリエイター名  明神公平
片思い

片思い

 黒目の部分に大きく刻まれた三日月。それは彼の、生まれたときからの傷であった。この傷によって目がまったく見えないというわけではなかったが、彼は片方だけの視力が極端に弱かった。そのため、自然片方の目だけに頼ってものを見ているせいか、藪睨みの面構えであった。
 子供時代、球当ての授業があると彼はいつも的にされた。目の弱いほうから球を投げられると、どうしても反応が遅れてしまうからだ。同級生たちも彼の弱点には聡く気づいていたから、残酷にそちらから攻めたのである。
 次第に彼は球技というものを憎むようになっていった。球当てだけではない、野球をしても内角へ投げられると彼は振り遅れたし、そもそも遠近感が取れないので高く上がった球を捕球することすらできなかった。敵味方と向かい合って行う競技は、弱かった。
 そんな彼が中学に上がってから始めたのは、陸上の短距離だった。百米の直線を、ただ一人で駆け抜けるという運動に視力はいらない。下半身のばねと、獣のように敏感な反射神経があればそれでよかった。どちらも生まれつき持ち合わせていた彼は、学年が上がるにつれ成績を伸ばし、大会で記録を残すようにもなっていった。
 彼はひたすらに走った。誰よりも早く。その傷のある瞳に、決して他人の背中を映そうとはしなかった。

 学校での彼は無口で静かな少年だった。休み時間はじっと俯いて、眠るように瞼を閉じている。誰かが話しかけると、小さく答える。が、自分から誰かに声をかけることは稀で、ある意味で冷静に周囲を無視しているようにも見えた。
 熱心に人から好かれようとしない彼の評価は、極端に分かれる。彼を深く知らない後輩からは意外と人気があるのだが同級生の少女の一人、小学校からの付き合いをもつ少女は彼を毛嫌いしていた。あの、傷のある目で睨まれると刃物でもつきたてられたような気分になるらしい。
 しかしそんな彼の眼差しに水をやり、花を咲かせたのは一体誰であろうか。彼の藪睨みをさらにも凶悪に育て上げたのは、彼女たちだ。幼少の頃に受けた残酷な仕打ちというものは、少なからず心に影響を残す。彼女は、球当てのことなどとうに忘れてしまっているだろうけれど、彼の心には根深く刻みつけられていた。
 幼い頃自分が感じていた劣等感を、彼はたまに思い出す。生まれつきの目の傷が、彼は嫌でたまらなかった。鏡を見ることさえ、水に顔を映すことさえ嫌っていた。
 片目をつぶってものを見ると、滲んで見える世界が大嫌いだった。ぼやけ、ゆがんだ世界の中に一つだけくっきりと、三日月が映りこんでいるのだ。常に視界に雲がかかっているような違和感。遠くへ顔をやるとき、彼はいつも傷のあるほうの目を塞いでものを見た。
 陸上を始めてから、目に対する屈折を思う回数は減った。だが、走ることが自分の生き甲斐であるとはどうしても思えなかった。なぜなら彼は中学三年の夏休み、最後の大会で記録を残してはっきり悟ったのである。自分が走っていた理由は、ただ単に煩わしい周囲を振り切りたかっただけだったのだと。走ることは自分にとって、逃げることでしかなかったのだと。

 高校では、陸上はやめようと決めた。だから彼は大会が終わると、他の中学生と同じように塾の夏期講習を申し込んだ。朝の十時から昼の三時まで、そのあと一時間涼しい自習室で学校の宿題を片付けてから帰る。毎日、同じ日々の繰り返しだ。
 最初の三日は、机に向かっていることだけでも辛かった。椅子に座っていると一時間で腰が痛くなってきたし、国語の時間はすぐ眠くなった。なにより、塾では他の中学校の生徒もいたので今更自分の目について異様な顔をされることが、改めて辛かった。せっかく忘れていた古い傷を、鈍い刃でほじくり返されるような気分であった。
 けれどそれらは全て部活の筋肉痛みたいなもので、すぐに慣れてしまった。自分の目が気になるのなら、気にさせておけばいい。どうせ視線を合わせても、傷がついて見えるのは相手のほうなのだから。幼い頃から理不尽な思いを味あわされていると、無関心な相手にはかえって開き直れるようになる。
 自習室で国語の宿題と向き合うのも、いつの間にか面白くなっていたし、元々彼はあまり環境に振り回される性格ではなかった。常に奔流の中で小舟を運ばせてきたようなもので、持っている頼りない棹は流れに逆らうためではなく向かい来る障害を受け流すためだけに使われていた。どのような激しい流れに飛び込んでも、いつの間にか緩やかに渡る術を彼は身につけていた。
 塾では友達も二人できた。休み時間は常に一緒、というほどでもないが宿題を一緒に解いたり、ものを貸し借りしたりする程度の仲ではある。彼は無愛想ではあるが頼みごとを決して断らないという美点があった。他人の意見に逆らわない付和雷同主義とも思えたが、中学生の年頃では己を無闇に主張するような奴よりなにごともやんわりと交わす者のほうが受けはよいのだ。
 彼は少しだが、愛想笑いも覚えるようになった。笑うと目が細くなり、自分の三日月がわかりにくくなることも、塾で知った。

 夏休みも終わりにさしかかった暑い日、彼は塾を終えて帰り道の坂を登っていた。幅の広い道で、左を歩くと直射日光をもろにかぶる羽目になる、だからいつも右端を歩いている。坂の角度は緩やかだが距離は長く、頂上につく頃には全身から汗が噴きだしてくる。
 上のほうから、誰かが早足で坂を下ってきた。帽子を深くかぶっているので年齢はよくわからなかったが、着ているものの雰囲気から察するに若い女性である。若い、といっても彼より十は年上なのだろうけれど。彼女は大きな鞄を肩から下げて、颯爽と彼の脇を通り抜けようとした。彼も、額に汗を浮かべ唇を真一文字に結んだまますれ違おうとした。
 ところが、一旦は背中同士になったはずの彼女が足を止め振り返り、彼を呼び止めた。君、何中学のなんとか君でしょう?それは正しく彼自身の名前だったので、彼は右手で汗を拭いながら軽く頷いてみせた。やっぱり、と彼女は美しい歯を見せて笑った。
 君、この間の大会で記録を作ったでしょう。あのとき私、審判員の一人だったのよ。
 初めの合図を鳴らしたのは自分なのだと、彼女は嬉しそうに語る。初対面の相手に向かってよく喋る彼女を彼は額に手をあてたまま、正確に言えば傷のある瞳を隠したままただ見つめていた。
 五月の大会のときもですか。
 彼女の話が一旦途切れたところで、彼は穏やかに質問した。すると彼女は驚いた声でどうして知っているの、と目を丸くしていた。確かにあのときの大会でも彼は記録を作り、そして彼女は審判員だった。似たような帽子をかぶっていたので、彼にはすぐわかったのだ。
 今からどこか行くの、と聞かれ彼は反射的にいいえ、と首を横に振った。塾から帰るところです、とは言わなかった。家と塾とを往復する以外に道を知らない自分が寂しく思われ、また、塾のことを持ち出すとさらになにか訊ねられそうで喋れなかった。

 とても、言えはしなかった。彼が五月の大会のときから、いやそれよりもっと前、三月のときから彼女を知っていただなんて。競技場で靴紐をきつく結びながら視線を巡らし、競技の合図を送っている美しい彼女の顔を探していただなんて。
 彼女は自分よりもずっと年上で、それに自分の存在も気に留めてはいない。彼は自分にそう言い聞かせて、己の気持ちを胸に収めていた。
 それなのに、今日はなんという日だろうか。偶然に彼女とすれ違い、声をかけられ、名前を呼ばれるだなんて。普段よくやるように、彼は目を伏せて俯いてしまった。普段と違うのは、目を合わせることが煩わしいのではなく耐えられないからであった。
 最初は制服だったからわからなかったのよ。でも横顔を見て、もしかしたらって。
 彼女は彼を見上げつつ微笑みながらよく喋った。ああそういえば彼女は自分の横顔しか知らないのだろうなと彼は気づいた。陸上の審判員は常に同じ位置から合図を送るので、競技者の顔を一方からしか見ることができない。なにかの気まぐれで競技者が審判員を見つめれば別だろうが、彼はいつも横目で彼女を盗み見ているだけだったので、彼女には左半分の顔しか覚えられていなかった。
 せっかくだから、君の顔をちゃんと見てみたいわ。見せてくれる?
 そのとき彼は、彼には珍しい大声を発していた。
 嫌だ。

 顔は上げられなかった。傷のある目を彼女に見られることが嫌だというよりも、彼女のことを傷のある目で見つめ、彼女の姿を傷に映すことが嫌だったのだ。それは美しく磨き上げられた窓に曇りをつけたくないと思うのと同じであった。
 どうしたの。彼女は首を傾げる。陸上競技場での彼と、ついさっき出会った制服の彼と、そして今声を上げた彼との差異に戸惑っているようであった。電車の中で足を踏んだくせに、気づいていないような顔だった。
 初対面に近い相手に向かって、いきなり話しかけることもできれば顔を見せてほしいなどと遠慮なく言える彼女に、彼の心理は理解できないだろう。
 彼は、なにかを強く思えば思うほどにその気持ちを押し隠してしまうのだった。決して他人には打ち明けようとしない、たとえそれが淡い感情を抱いている相手であっても。心を広げないことでたとえ相手を怒らせたとしても、それが彼の不器用な優しさなのだ。
 困った顔ができればいいのに、できなかった。愛想で笑えればいいのに、笑えなかった。彼にとって彼女の前で、特別な人を前にして感情を表現することは、自然でも不自然でも非常に難しい行為なのだ。心は深く震えているのに表情は彼女を拒絶するように硬く強張っている、まるでばらばらだ。複雑にもつれ合う思いに立ち尽くすことができず、彼は彼女に背を向けて坂を駆け上る。中学生の大会で記録を作った足が、逃げていく。
 ああ、果たして彼女は信じてくれるだろうか。彼が本当に心から、彼女のことを大切に思っていることを。心を傾けるが故に離れてしまう、まるで同じ極を持つ磁石のように。擦れて弾かれて砂鉄がこぼれ落ちる、それが涙になればまだ美しいのに、彼の傷のある瞳は塞がれたままに乾いていた。

 片目の傷は、恋する心によく似ていた。生まれつきの傷の苦しさは、決して人には理解されないものである。彼が彼女に抱く思いも、誰にもわかってもらえない。
 今日の国語の宿題にこんな文章が載っていた。愛とは耐え忍ぶものなり。ならば自分が抱えるこの気持ちは愛なのかと彼は思った。そこまで昇華された、美しい響きを持つものが本当に自分の中にあるのだろうか。
 陸上部とはいえ短距離が専門である、長い坂は走り慣れていない彼は、頂上についた頃には息を切らしていた。頂上は、坂道を右へも曲がれる三叉路になっており、道路には真っ直ぐな車輌停止線が描かれている。百米を走り終えたときのようにそれを踏み越えると、彼は自分の来たほうへ首を回した。いつも遠くを見るときのように、傷つけてはいけない人を守るように、傷のあるほうの目は手の平で覆っていた。
 しかし探そうとしていた彼女の姿は既になかった。ほんの少し目を離しただけなのに、もう果てしない遠くへ行ってしまったのだ。一度手放したものは二度と返ってこない、生れ落ちた瞬間から片目の視力をなくしていた彼には、それが痛いほどわかっている。
 それでも。
 彼は、今度は反対の目を隠し傷ついた瞳から世界を見つめた。いついかなるときであろうとも奇跡なんてものは起こらず、相変わらずぼやけた視界とその中をくり貫く三日月が映っていた。ただその目で見れば遠くはなにもわからなくなるので、坂の途中に彼女がいるのかいないのか、確かめずに済んだ。
 叶わぬことを知りながら、それでも彼は彼女を思いつづけていた。それは愚行であろうか。空の太陽に焦がれるように、星を見守るように、彼女を大切にしていてはいけないのだろうか。自分は瞳に三日月を持っているのに、と彼は思った。


 
 
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