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クリエイター名  工藤彼方
革命交響曲

 革命交響曲



 午後から吹きだした強い風が外の植木をゆさぶり、窓ガラスを叩いている。
 都内のホテル。一階にあるカフェの一角で、潤は局のプロデューサーと向かい合ってコーヒーを飲んでいた。
 都内のホテルといっても、よくある現代建築風のデザインの大きなホテルといった雰囲気ではなく、飴色した調度品が似合いそうなややこぢんまりとした老舗のホテルだ。
「なかなかいい曲がかかっているだろう? ここ、名曲喫茶ってのでも名が知れてるんだが、夜神君はもう来たことがあったかな」
 そろそろ五十の声を聞きそうな脂ぎった容貌の男が、スプーンをいじくり回しながら聞いてきた。
「いえ」
 ドアを潜った時には、カザルスの≪鳥の歌≫が掛かっていた。静かな慟哭のようなチェロの歌声は、相当音源が古いのかややくぐもって聞こえ、ざらついたノイズがつきまとっていた。今はチャイコフスキーの弦楽四重奏曲第一番の二楽章、通称≪アンダンテ・カンタービレ≫の郷愁を誘われる甘やかな調べが店の空間を満たしている。
「でね、今度夜神君にひとつ出てもらいたいのは、これなんだよ。あ、一応まだ社外秘なんで、内密にね」
 ごつい指先が叩いたのは、企画書と思しいパンフレットだ。
 その表には大きめの活字で『ツァーリたちの黄昏(仮題)』というタイトルが付されている。
「ツァーリ、ですか」
「神々の黄昏、じゃあないんだが。今ちょっとデカい連続モノの企画が立っててね。来年でソ連崩壊から二十年が経つだろう? ソ連崩壊自体とはちょっとズレるんだが、関係は大いにある内容だから、来年の年末特番にねじ込めたらと思っててね。タイトルの方は脚本屋の先生とこれから擦り合わせて二転三転するかもしれないんだが、筋はおおかた決まっている。ちょっとこれ、見てくれるかな」
 男は企画書と台本の見本を潤の方へと押しやって、ずいと身を乗り出した。
 誰が聞いているわけでもないのに声を潜めて言う。
「夜神君、皇帝をやらないか。激動の時代を生きた皇帝の役だ」
「皇帝……ですか」
「そうだ。ツァーリだよ、ツァーリ! 冬の宮殿で奢侈の限りを尽くしたロシアの皇帝の斜陽を描いた、ね! まぁ、血生臭い戦争物っていうより、年末らしく豪奢な異国情緒にあふれた、そうだなぁ、一言でいやぁ古き良き時代のロシアンロマン、みたいな雰囲気でやりたいって考えてるんだな。華のある夜神君のことだ。さぞかし映えるだろうと思うんだが、どうかなぁ」
 潤はコーヒーカップへと視線を落とした。
 白地にラピスラズリを思わせる青を施されたロイヤルコペンハーゲンのカップの中で、深い焦茶がたゆたいながら湯気をたちのぼらせている。
「古き良き時代のロシアンロマン、か」
 独白めいた呟きが潤の唇から零れた。
「古き良き……」
 もの悲しくも美しいアンダンテ・カンタービレは終わったらしい。ふつりと静けさが落ちた。
 静けさが戻ると、窓を打ついくつもの小さな音が聞こえてきた。
 見れば、窓には雨粒が叩きつけられていた。
 折からの悪しき空模様にある程度の予測はついていたが、降りは見ている間にもその勢いを増していく。
 ふっと柔らかなハープの音が滴るように響いた。続いて、小声ながらも重厚な弦の音色に乗せて、ヴァイオリンの高く繊細な囁きが広がりはじめる。
「……おお。ショスタコの十一番か。ひさしぶりに聞いたなぁ」
 コーヒーを音を立てて啜っていた男が、ソファにふんぞり返って言った。
 窓ガラスを叩く雨が、ばちばちと音を立て始めていた。
 ホテルの前のアスファルトにもすでに流れができはじめているようだ。白く跳ねて弾ける雨の影が見える。
(これをどこかでも見た。雨ではなかったが)
 窓辺へと目を遣っていた潤は、コーヒーを一口啜り、まだ熱いカップの中のそれを見つめながら言った。
「本当に、古き良き時代だったと思われますか」
「ん? 何だって?」
 黒い液体から立つ湯気は、潤の視界を覆って、ゆったりと渦を巻いた。冬の寒い国に流れる朝靄に似ていた。
 朝靄。
 広大無辺に続く黒い大地の地平線。
 その最果てから白い太陽がじわじわと昇りはじめる。
 冬の太陽の光線は弱く、揺らぐ朝靄に遮られてさらに頼りない。
 おぼろげな朝の光の中に、その町はあった。
 古色蒼然とした石造りの町並みの合間を何本もの路地が縫うように走っている。
 やがて朝靄はだんだんと薄れていき、横合いからの朝の日差しを受けて、町は黄色と灰色のまだらに塗り上げられていく。
 大きな通りの左右には店々が軒を連ねていた。
 仕立て屋に、パン屋、そして安酒を飲ませる酒場。
 その前を白い息を吐いて行くのは町の人々だ。
 分厚い外套に身を包んだ男たち。編み籠を腕にかけて、毛糸を編んだ長いプラトークを頭から被った女性たち。毛皮のフードから覗く子どもの薄汚れた顔もある。靴は破れていて、足にはぼろ切れのような布を巻き付けて、足を引きずりながら歩いて行く。
 徐々に喧噪を増していく町中の片隅で、一軒の屋根が傾きかけている店の扉がバタンと閉まった。
「いらっしゃい、って言いてぇが今日は日曜だ。休みなんで……って、あれ、なんだアンタか」
 そんな酒場の店主の言葉に迎えられて、潤は薄暗いカウンターの奥の壁際を陣取った。
 白に近い金の髪は短く、ボサボサに乱れている。黄色く染まった八重歯を剥き出しにして、店主はカウンターから身を乗り出した。
「今日も朝っぱらから酒ってかい。えらく飲んでるわりにはちぃとも顔に出ねぇのが不思議でしかたがねぇが、それにしたって昨夜も一昨日も深酒しただろうに、大丈夫かよ。ま、ウチに金を落としてってくれてんだから文句はねぇがよ」
 ダミ声の店主が、ひょいと眉を上げて笑った。
「ああ。文句はないということで、説教は勘弁してくれ。……昨日のヤツを」
 潤は言葉少なく言い置いて、顔の下半分を覆い隠すほどに襟を立てていた黒いコートを寛がせた。
 元来肌が透き通ったように白い潤は、ここロシアの町中においても容姿としては浮きはしない。黒い瞳も、黒は黒でも青味がかっていて、湖底の洞窟を覗き込むように深い。ただ、青年と少年の間のような細い顎元と、芸術家の手による彫刻のごとく整った、貴族然として見える容貌は、時として見知らぬ者の誤解を招いて因縁を付けられることもあったのだが。
 店主はヒビの入ったグラスを無造作に潤の前に置いてから、カウンターの上に置いてあった木箱から煙管を出して、至極大事そうに咥えた。
 酒と言えるような酒はない。それ以前に酒の種類も一つ限りだ。絞りカスを無理矢理に絞ったような質のもので、昨夜潤の隣で酔いつぶれていた客は欠けたグラスを握りしめながら、工場で使うアルコールの方がよほどマシだとボヤいていた。
「しっかしなあ、酷いもんだぜ。アンタ、斜め向かいのパン屋を見たか」
「ああ、見た。扉に木が打ちつけてあった。あれはとうとう店を閉めたのか?」
「おうよ。パン屋っつったって、売るパンがねぇんだからしかたねぇよなぁ。だが、たまさか入ると客がこぞって押しかけるだろう。その後、誰に売ったの売らないのってんで喧嘩沙汰になるって、あそこのオヤっさんが頭抱えてたのは知ってたんだが」
「それが原因で店を閉めたのか」
「そうらしい。ま、ホントのとこはどうだか知らねぇがな。アレだよ、三軒隣の床屋んとこに歯ッ欠け婆がいるだろう。あの婆さんがさ、つい先刻えらい剣幕でウチに飛びこんできてよ、喚くだけ喚いて出てったよ。あのパン屋が売らなかったら他に誰が売ってくれるんだっつうて。俺たちが飢え死にしそうなのは、パン屋が悪いわけでも、あの婆さんが悪いわけでもねぇんだが……」
 火を付けてひと吸いふた吸いした煙管を早々にしまうと、店主はカウンターから出てきて、潤の隣に腰を下ろした。
「ところで、アンタ、今日のことを知ってるか?」
 安酒を口に運んでいた潤の肩を抱き、店主は声を低めて言った。
「……何がだ」
「今日は、決行の日だ」
 潤の瞳を見据える眼差しだった。
「決行だと? 何をする気だ。そういえば、町がざわついていると思ったが」
「アンタ、本当に知らねぇんだな。俺たちゃこのままだと死ぬしか道が無いからよ。……町を挙げて、訴えに行こうってさ」
「訴える……。どこに」
「ツァーリに、だ。直接訴えるしかもう術はない。お偉いさんを通して訴えようったって、威張り散らしているだけで誰一人として耳を貸すヤツはいない。だったら、俺たちがどれだけ苦しいか、その目で見てわかってもらおうじゃないかとなった」
 店主は潤の酒を当たり前のように一口啜って、言った。
「今日の昼だ。昼、あと一時間ちょいぐらいだな。そうしたら、冬の宮殿に行く。この町の皆が、だ」
 皆、というところに力を篭めて店主は言った。
「……皆で、訴えに行く……?」
 潤は眉を顰めた。町の役人や貴族たちといえば、民衆を同じ人間と思っていないかのような横暴な振る舞いをする輩しか見たことがない。そんな奴らに何を訴えたところで鼻で笑われて一蹴されるだけだということは、想像するにたやすい。
 だからといって、王宮に直談判を試みたところで、要求は飲んでもらえるのかどうか。
 潤の脳裏に、王宮の門に銃剣を携えて立っている警邏兵の無表情な顔が浮かんだ。
 そんな潤の不穏な内心を察したのか、店主は潤の背中をわざとらしく叩いた。
「なぁに、大丈夫だ。俺たちはツァーリに訴えるんだ。相手は血も涙もない役人どもでも、嫌みったらしくてナマっちろい貴族どもでもない。ツァーリは神様の使いみたいなもんだからな。きっと、きっとわかってもらえる。悪いのはツァーリの元に俺たちの声を届けない奴らなんだ。大丈夫だ。俺たちがその日の暮らしにも困っているんだってことをツァーリに知ってもらうってだけの話だしな。だから、もちろん武器は持っていかないって、皆で取り決めた」
 店主の言わんとすることもわかる。わかるが、そうまでして縋ったところで本当に皇帝は応えてくれるのだろうか。潤は指を組み、瞼を伏せた。瞼の裏へと意識を集めた。
 間もなく、潤の視界には乳白色の霧が映りはじめた。
 その乳白色は滲んで虹色の砂嵐のような微細な点を宿し、映像を結びだす。
 広場だろうか。あたりにひしめく人の影が見える。旗を振る男たち、男たちに混じって横断幕を掲げる中年の女たち。文字を書き殴った割れ板を首から提げている子どもたちの姿も見えた。皆口々に何か叫んでいる。
 そんな瞼の裏の映像をぷつりと断つように、店主の声が割り込んで聞こえた。
「だがなぁ、想像すると凄くねぇか? 町の皆が、だ。いや、もしかしたらこの街だけじゃないかもしれない。隣の町やそのまた隣の町にいる俺たちみたいな、言ってみりゃ同胞がだぜ? 宮殿までの道を埋め尽くすんだ。大行進だ」
 それには答えずに潤はまた意識を集中した。
 叫ぶ人々の幻がすっと掻き消えた。代わりに、ぼんやりと白い地面が見えてきた。石畳だろうか。そこに黒い点がひとつ生まれた。黒い点は見る間に増えて、こすれて、石畳を汚し、染めていく。粘るような黒い――。
「止せ」
 潤は唐突に目を見開き、驚いたように身を退く店主の肩を掴んだ。
「止すんだ。今すぐにその計画を、中止するんだ……!」





「ショスタコーヴィチの交響曲第十一番と言ったらアレだな。ロシア革命だ」
 どっかりとソファに凭れてプロデューサーが言った。
「サンクトペテルブルクの宮殿に押しかけた民衆を射殺した『血の日曜日事件』てのを題材に取ってるらしいが、まあ、言われてみりゃその光景が見えるような曲だ。こういう曲はムラヴィンスキーはもちろんだが、緩急自在でアップテンポにやるバーンスタインがいいと俺は思っていてね。……お、そうだ。こいつの宮殿のシーンのバックに使ってみるかな」
 蘊蓄語りの途中に案を思いついたのか、台本を取り上げて表紙の裏にメモを取りだした。曲はいつしか佳境に入っていた。
「で、どうだい? そんな感じの企画なんだが。引き受けてくれる気にはなったかね」
 潤が首を縦に振ることを前提とした物言いだった。
 風をかき混ぜる羽根のゆったりと回っている天井から降り注ぐ交響楽。
 トランペットは高らかに鳴り、民衆たちの怒りの大行進を不穏な音色に乗せて奏でている。




 潤は王城の広場の前にただ独り、腕を広げて立ちはだかっていた。顔を見られては貴族の回し者だのと勘違いをされて面倒なことになる。潤は女物の黒いプラトークを頭から被り、顔を隠しながら声を張り上げる。
「止まれぇっ!! 戻るんだ、引き返すんだッ!! 今すぐに!!」
 喉も嗄れんばかりの大声を上げて、女たちに子どもたちを押し戻そうと試みる。
 だが、大行進の熱に浮かされた群衆には耳も無いと見え、皆、潤がそこにいることにも気付かないように腕を振り上げては、白い息を吐いて叫んでいる。
「アンタ、無駄だ! 皆、今日の飯にも飢えている。引っ込んでてくれ! てぇか、そんなに心配なんだったら俺の倅を見ててくれ! 迷子になるかも知れねぇからよ」
 酒場の店主も今はデモの旗を掲げてこれ見よとばかりに振りかざしている。
 民衆達は王城の鉄柵の門扉につめよせて、今日のパンが無いのだと口々に喚いた。
 潤が、店主の言う息子というのを探していると、背後に足音を聞いた。
 振り返ってみれば門扉越しに、王城から出て来た近衛兵たちがやってくるところだった。潤が聞いたのは、軍靴の音だった。
 黒い軍服に身を包んだ近衛兵たちの肩に銃剣の先が鈍く光っている。
 彼らは一言も発さないままに、横一列に並んだ。
 人々の哀願の言葉を耳にしながらも、無表情な彼らの顔。潤は彼らのこの表情を、先刻見た。瞼の裏の幻に。
「戻れぇ!! 戻るんだ!!」
 とうに嗄れている声を振り絞った。
 はためく横断幕を掴んで横へと薙ぐ。翻る旗の柄を横に掴んで押し戻す。潤が腕を振るうたびに詰め寄せた人々の壁は崩れた。
 力を使ってはならぬ。人ならざるものの力を使うことだけは、と自らに言い聞かせていた潤だったが、いまやもう術はない。
「引き戻せ!! 逃げろぉッ!!」
 人々を押しやりながら、潤は叫び続けた。
 だが。
 銃声が聞こえた。
 一斉掃射の火蓋が落とされたのだ。
 軍人たちは無表情に銃を構え、人垣をつくる群衆へと銃口を向けた。
 民衆たちの抗議の怒号が、一瞬にして悲鳴に変わる。
 逃げ惑う人々の波は押し合いへし合いし、しかし、あまりにも密に詰めていただけに、雪崩れを打ったようにあちこちで転び、倒れた。その足元に、血を噴いた人影がどう、と転がり、それに躓いてまた人が倒れる。起き上がろうとした者の背中に穴が開き、撃たれた者の身体に小さな子どもが潰された。
 逃げ遅れた人々の声なき悲鳴を代弁するように、赤黒い斑点が、引き伸ばされて掠れた血痕が石畳を塗り上げていく。
 だが、乾いた銃声は、容赦無くも続けざまに響いた。
「うッ、く!」
 灼けるような鋭い痛みが潤を貫いた。
 薬莢の落ちて転げる音。硝煙の匂い。
 胸元を押さえると手に血が滲んでいた。
 またもやの破裂音。
 灼熱感が、肩を、腿を貫き、骨を砕いたのを知る。
「あの女! 撃たれているのに倒れんぞ!」
 近衛兵たちの声が聞こえた。
「何を寝惚けたことを言っている! それはおまえが外しているんだ!」
「当たってる! 絶対当たっているはずだ! あの黒いプラトークを被った女だ!」
 弾丸に貫かれた潤の肉体は、凄まじい速さで細胞の再生を始めていた。ミリミリと肉が動き、身体に開いた風穴を埋めていくのを感じる。
 痛みはそのままに、しかしこの肉体は滅びることがない。
 集中砲火を浴びても倒れなければなし崩しに騒ぎになりそうな気配を感じて、潤はわざと足元をよろめかせ、地に伏して這いながら、混乱の中で見失った店主の姿を探した。  視界を遮るいくつもの亡骸の山を越えた頃、聞き慣れたダミ声を聞いた。
「……アンタ、生きてたのか」
 街灯の陰に横たわって店主はいた。
 四つ這いのままに這い寄り、潤は店主の肩を抱いた。
「……はは、アンタの言ったとおりに、なったな。馬鹿みてぇだ」
 笑う調子のその声は弱々しく、決して無事ではないとそれだけでもわかる。
「おい、しっかりしろ! いま連れて帰る」
 力なく垂れる首を支えて閉じかける目を開けさせようと頬を叩いた。すると、わずかに皺深い瞼が持ち上がり、青い瞳が覗いた。潤の姿を探すように青い瞳孔が目の中で彷徨っている。石畳を掻いて潤の手を探り、掴んだ。
「倅を。――俺によく似た倅だ。たった一人なんだ。……頼む」
 意外なほど強く潤の手を握った店主の手は氷のように冷たく、小刻みに震えていた。
「……ああ。わかった。きっと」
 潤の返事を聞くと、店主は満足そうに頷き、あぁあ、と悪戯に失敗した子どものような溜息をついて笑った。
「……神様ってぇのは、いなかった。……なぁ?」
 そう笑って、店主の掠れた声は消えた。



 王宮から少し離れた教会の庭に、潤はいた。
 血塗れの胸に少年を抱きかかえて。
 広場の混乱の最中に父親からはぐれたのだろう、大通りの隅に身体を丸めて横たわっていたのを、潤は探しだし、人目を避けるべくここに連れてきたのだった。
 少年は潤の腕に抱かれて荒い呼吸に胸を喘がせている。喉の奥からヒュウヒュウと空振りしているような呼吸音が聞こえてくる。
 赤紫色のチアノーゼの様相を呈していく少年は、白金の髪に、赤味の強い肌、こんなときでなければ口元に愛嬌を添えていただろう八重歯を覗かせていて、今しがた絶命した店主の面差しに、たしかによく似ていた。
「しっかりしろ、もう大丈夫だ」
 大丈夫でないことぐらい、わかっていた。もう、助からない。
 潤の被っているプラトークの端を少年は掴んで聞いた。
「ね、パパ、パパは……?」
「君の父さんは……父さんは無事だ。もうすぐ来る」
「ほんとに……? すごく怖かった。怖かったよ。パパ、無事なんだ。無事……よかった……」
 日は西に傾きはじめたらしい。教会の十字架の影が、潤の足元に落ちている。
 方便とはいえ、嘘をつく罪を赦して欲しいと考えて、いったい誰に赦しを請うのだと潤は暗い気持ちで自らを嗤った。
 父親の無事を聞いて気が抜けたのか、少年の手がずるりと落ちた。と同時に、潤の頭を覆っていたプラトークも引っ張られて脱げ落ちた。
 露わになった潤の顔を見上げて、腕の中の少年は不意に目を見開いた。
「……天使、さま? 天使さま、だ」
 驚きの表情が、だんだんと至福げなものへと変わっていく。
 肺を撃たれていたのか、少年は血の泡をしぶいた。
「……パパ。天使さまは、神さまは、ほんとうに、いた、よ……」
 赤く濡れた口元に、微笑みが浮かんだ。
 薄く開いた目の中で、青い瞳が急速に光を失っていく。やがて瞼は弱々しく閉じ、潤の襟元を掴んでいた手から、力が抜けた。
 言絶えた少年の身体を、潤は強く腕の中に抱きしめた。頬に冷え切った髪が触れた。
「俺は、神ではない。天使でもない」
 少年の顎元を穢している血を指に拭う。
 そして、その指先へと潤は口づけた。
「君が流したこの血。君のお父さんが流した血。皆の流した血。俺の喉を潤すことすらないものを……。いったい何のために。何のためにこの血は流されなければならなかった……!」
 押し殺した潤の叫びを聞いた者は、辺りにはもう誰もいなかった。
 少年の身体はまだ温かかったが、すでに石のように重い。
 だらりと落ちて地についた手の先に、一筋の血が垂れていく。
 黒い地面にぽたりと一滴。染みを作った。





 スプーンの先から落ちた滴が、カップの中に波紋を作った。
「おい、夜神君。どうした? コーヒーが冷めるぞ?」
 言われて顔を上げた潤は、スプーンを置いて目の前の男の顔を見据えた。
「お断りします」
「へっ?」
 プロデューサーは素っ頓狂な声を上げて潤の顔を見た。
「その年末特番とやらの話です」
 鳩が豆鉄砲を喰らったような表情で潤を見上げたプロデューサーだったが、潤の言わんとすることをようやく理解したのか、急に険のある顔つきになった。
「そりゃあ困る。困るよ、夜神君」
 空になったカップとソーサーをテーブルの端に退けて、最前そうしたように身を乗り出した。
「君にしたって、年末特番を張れるってのは悪くない話じゃないのかね。そりゃぁ、他にも話はあるかもしれんが、主役だ。主役。結構な予算も出てる。パーッと華々しくやれるヤツなんて、この御時世だ、そうそう無い。だいたい、主役候補は君の他にも三人ばかりいるんだ。君が難色を示したとかいう話が上の耳に入ったら、コロッとそっちに持ってかれるってことだ。主役がだぞ? それを俺は真っ先に君に勧めているっていうのに。君にそれでいいのか」
「どうであれ、お断りします」
 間髪入れずにすげなく言い遣ると、プロデューサーは息を呑んで押し黙った。
 そしていきなり椅子から降り、座り込んで、床に額を擦りつけんばかりに頭を下げた。
「頼むっ! 正直なところ、この企画の予想視聴率は君に負うところが大きいんだ。君をツァーリ役に持ってくることが出来るならって話で、この企画は通ったようなもんで」
 いま言ったことの舌の根も乾かない前にまるっきり矛盾したことを言う不様な男の頭を眺め下ろして、潤は内心溜息をついた。
「……止してください。他の客の目もありますから」
「そう言わずに、頼む!」
 頭の上で手をばちんと叩き合わせた男に手を差し伸べながら、潤は言った。
「どうあっても、ですか。……俺の出す要求にすべて応えるという条件を呑んでもらえるのなら、引き受けましょう」
「要求?」
 潤の手を借りて立ち上がりながら目を瞬かせたプロデューサーに、潤は頷きかけた。
「俺に脚本を書かせてください。全面的に書き換えたい」
 絶句した男から、潤は目を逸らした。器量の小さいこの小男に興味は欠片ほどもない。この男が提示した企画自体にも興味はない。
 ただ。
 いま、潤の中には鳴り止まない音の嵐があった。ショスタコーヴィチの第十一番。

(古き良き時代のロシアンロマン……。俺はあの日、そんなものは見なかった)

 窓の外では植木が横殴りの雨風に嬲られている。
 嵐はまだ止まない。





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