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クリエイター名  斎藤晃
暗殺者の顔――

 凍てつくような寒空に蒼冷めた三日月が清冷とした光を大地に注いでいた。
 全ての天候をシステム管理されたCITYと違って、この自然保護区域――通称NATは、今尚、本物の月と太陽が空を巡り、地球の自転に則した自然を満喫出来る、この世界では数少ない場所の一つであった。
 とはいえこの場所を訪れる者はそう多くはない。せいぜい一部の観光ツアー客か余程の物好きくらいだろう。自然保護区域と言えば聞こえはいいが、その実、CITYから逃れてきた重犯罪者達で溢れる無法地帯だったのだ。
 そんな場所を、ましてや寒風吹きすさぶ夜更けに出歩く者などそうはいない。しかし枯れた林を抜ける一本の小道を一人の若い男が飄々と歩いていた。CITY特有の機能性に優れた紺色の外套を身に纏いフードを目深に被るその細身の体躯からは、とても腕に覚えがあるようには思われなかったが、無用心なのか、はたまたこの寒さに物取りも現れまいと高を括っているのか、男はライトを灯すでもなく月明かりの下、危なげない足取りでその枯れ林を抜けていた。
 そこへ一本の大木の影から一人の女性が男の行く手を遮るように現れた。赤いダウンジャケットに黒のホットパンツ姿で男の前に立ちはだかる女の手には、短剣が握られている。
 女は確認するように尋ねた。
「コードネーム、蒼……貴方ですね」
 ゆっくり話す女の声は悲壮感にうち震えていた。よく目を凝らせば彼女自身も小刻みに震えている。
 色白の面を更に蒼褪め思い詰めた女の眼差しに何を見たのか。女の持つ短剣が自分に向けられている事さえ動じた風もなく、男はただ茫洋とした笑みを浮かべて「はい」と頷いた。
「一亜の仇」
 憎々しげに吐き出される言葉。長い髪を乱し歯を噛み締め女は必死で何かにじっと耐えながら彼を凝視している。
 男はそれにわずかばかり首を傾げ、哀しげに女を見返した。
 一陣の冷たい木枯らしが二人の間にある緊張の糸を凪ぎ払う。それを合図に女は唾を一つ飲み込むと意を決したように短剣を持ち直し、男に向って走った。
 男は動かない。ただ困惑を湛えて女を見つめている。
 彼の喉笛を貫く筈だった短剣はその切っ先紙一重で止まった。
 大きく目を見開いているのは、やはりと言うべきか、女の方。
「何故?」
 と女が問う。
「私を殺しても何も変わりませんよ」
 男は先程から微動もせずその面には何の感情ものせないまま柔らかい口調で話した。それは果たして女の疑問に対する答えだったのか。
「少なくとも私の気持ちが晴れるわ」
 女は意識してか口の端に嘲笑を浮かべ応えた。短剣は変わらず男の喉元を捕らえている。
 男はそれにほんの少し憂いを見せて哀しげに俯いた。
「そして悲しみだけが残り、人を殺めたという負債はその手から一生消える事はない」
 誰に向けられたものか溜息混じりに呟いて、男は何かを振り払うように頭を振るとゆっくりと顔を上げた。
「私如きが死んだところで泣く者も、貴女のように仇討ちをしに来ようなどと思う者もいないでしょうが、貴女自身が得られるものなど何もない」
 女の仇討ちを止めようとしているのか、しかし命乞いというにはあまりに冷徹で、彼女自身の事を真に憂えているのかと問われればあまりに無機質で、男はただ一般論を論じる教師のように淡々と話すだけだ。
 女は無言でそれを聞いていた。
「人を殺めるのは止めた方がいい」
 この状況下でさえ、まるで他人事ですらあるような男の物言いだ。女は半ば呆れ顔で男を見た。半ば呆れて、それでも半分は男の言葉に動揺してもいる。
 いや、ずっと女は動揺していた。
 震えてしまう声、手足。怒りだけでここまできて、なのに、いざそれを前にして動かなくなる全身。どちらが自分の本意であるのか迷っていた心が揺さぶられる。
「よくもいけしゃぁしゃぁと」
 女は自分に言い聞かせた。男は最愛の人の仇。憎むべき相手。彼の戯言に惑わされるな。
 しかし女の言葉に男は、まるで心外でもあるかのような面持ちで言った。
「私は、人を殺めるのは好きではありませんよ」
 逆撫でされた女の心に激情は津波のように押し寄せる。
「何を殺人鬼が今更。第一あの人はあなたに殺されたのよ」
 女の声が更に震えた。しかしそれは今までの怖気ではなく怒り故。男の雰囲気に呑まれて動揺していた胸の内が再び憤怒に彩られた。
「戦いになれば敵味方含め多くの者が死ぬかもしれない。無関係の人間が巻き込まれるかもしれない。それがたった一人の命で購われるのであれば良いではありませんか?」
 シレッとした口調で男が応えた。いや、それは彼女がそう聞こえたと思いたいだけなのかもしれない。先程から、やはり男はどこか当事者ではなく一歩退いたところでこの場を見つめているような雰囲気があった。今正に殺されんとしていようとも男にはやはりどこか他人事のように。
「何を小賢しい。それならば奴らでも良かったんじゃない!」
 女はイライラと声を荒げた。いつの間にか短剣を下ろし拳を握って男を怒鳴りつけている。まるで怒りと悲しみを全部ぶちまけるみたいにして。ずっと吐露したかった自分で制御しきれなくなっていた感情を全部ぶちまける。
「どうして彼だったのよ! 戦いを回避できればいいのなら、どちらでも良かったんなら奴らでも!!」
「私は依頼を受けた。それだけです」
 女の激昂を受け流すように男はにべもなく応えた。静かな物言いが更に女の怒りを煽る。
「依頼されたら誰でも殺すと言うの? だったら私の依頼も聞いてくれるのかしら?」
 女は嘲弄混じりの引きつった笑みで応戦した。
「えぇ、聞きましょう。勿論、慈善事業ではない。相応の代価を頂けるのであれば、ですが」
 男が応えるのに女は侮蔑の眼差しで顎を突き出し見下した。
「蒼を殺して」
「わかりました」
 女の申し出に男は諾の即答を返す。まるでその依頼を最初から予測していたかのように。
 一瞬戸惑うのはやはり女の方。男の言葉に翻弄されるのはいつも女の方だ。
「で、貴女はその依頼にどれほどの代価を支払って頂けるのです?」
 事務的に尋ねた男に女の嘲笑が重なる。
「あなた今、わかりました、って言った?」
「はい」
 頷いた男に女は一瞬息を飲んで、それから得たり顔で彼を睨んだ。
「それで一生かかっても払えない代価を要求するのね。どうせ殺す気なんてないんでしょう?」
 怒りの中に、それを通り越した呆れの微粒子を滲ませて女は乱れた前髪を掻きあげる。
 男は女の問いに答えるでもなくわずか目を伏せ尋ねた。
「死ぬ覚悟はおありですか?」
「え?」
 男の言葉の意味を理解し損ねた女に男は尚も問いかける。
「その命を賭す覚悟はおありですか? その覚悟がないのなら、そもそも人を殺めようなどとは思わないことです」
 女は答えを探すように寂寞の中を俯いた。どれほどの時間そうしていたのか、月が一度雲に隠れ再び顔を出すほどの間の後、搾り出すような口調で言った。
「……覚悟なら…あるわ」
「そうですか」
 男は、読み取れない微妙な笑みを浮かべて頷くと、それで用は済んだかのように踵を返し女に背を向け立ち去ろうとした。
「待ちなさいよ」
 行こうとする男の背を女が呼び止める。
「代価って、私の命を支払えって事?」
 男は足を止め憂いを含んだ笑みを浮かべて女を振り返った。
「いいえ。今の貴女からこれ以上何を奪えると言うのでしょう? ただ、貴女の覚悟を伺ったまでです」
 水面を滑る波紋のように静寂に広がる男の言の葉。
 二人の間に沈黙が蘇る。蕭然とした大地の上に煌々と照る月。男はこれ以上重ねる言葉もないのか再び踵を返すと危なげない足取りを枯れ林を抜けるその道へ戻した。
 刹那、光が走った。
 妖しく物悲しく輝く一本の短剣。それは吸い込まれるように男の背に深く突き刺さる。
「何故?」
 と女が訊いた。
 男は応えずただ佇んでいる。
「貴方ならこの程度簡単に避けられた筈」
「人を殺めるにはそれ相応の代価が必要です。私は随分前からその覚悟をしていました」
 男は淀みなく応えた。痛みに耐える風でもなく、やはり変わらず他人事のように。
 女は愕然と男の背を見上げた。
「手をお放しなさい」
 男は女を振り返ることなく淡々と話す。その言葉に女は何故だろうぼんやり従っていた。
 手を離し、半歩よろめくように後退る。震える手。人を刺した初めて知ったその感触。――自分はたった今、殺人者になった……。
「この程度で人は死にませんよ」
 動揺を始めた女の心に男の声が凛と響く。
 女は大きく目を見開いて男を見上げた。
 男がゆっくりと振り返る。初めて女は男の顔をまじまじと見た気がした。
 白皙の美貌は更にその白さを増している。空に浮かぶ蒼白の月よりも薄く淡く。
「しかし、この剣を今抜けばその失血で死ぬでしょうね」
 男はそう言って自らの手で背に突き立つその短剣の柄を握った。
「何故?」
 女が問う。
「私を殺せるのは私だけです」
 感情を殆ど見せる事のなかった男の優しげな笑み。女はその光景を半ば夢でも見るかのように見詰めていた。
「いいですか、私を殺したのは私自身。貴女の手は、まだ誰も殺していない」
 男はそう女に優しく語ると持っていた短剣の柄をゆっくり引いて、真っ赤な鮮血をその背中から迸らせた。

 その瞬間、女の夢は現実になっただろうか?

 枯れ林を抜ける一本の小道に蔬れる女を、男は困惑げに見下ろしていた。果たしてどんな技を使ったのか、手の平に握られた小さなデジタルボックスをポケットに仕舞うと男は小さく溜息を吐く。
 フードを脱ぐと天に浮かぶ月を見上げて、彼は双子の兄の名を口にした。
「蒼……」
 何処にいる、と問い掛けても答えるものは何もない。
 ただ、彼の手首にぶら下がる【CITY司法局特務執行部 朱】と書かれたIDタグが夜の風に寂しそうに揺れていた――。


【END】
 
 
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