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クリエイター名 |
猫亞阿月 |
サンプル
飽くなき挑戦 1 猫はその日、久しぶりにまるまると太ったスズメを捕らえることに成功した。 ここしばらく不調だったこともあり、猫にとってはいつも以上に誇らしい獲物だった。 (たんぱく質、たんぱく質……) いまや頭の中はこれから摂取するたんぱく質のことで精一杯。それでもなんとか辺りに注意を配りながら冬にしては暖かい道路を意気揚々とねぐらに向かう。 途中、嬉しさのあまりゆるんだ口から何度も大切な獲物を落としそうになったり、近所の子供に見咎められて望まぬ追いかけっこをしたり。 そんな数多の試練をかいくぐりながら、猫は一心にねぐらを目指す。 春よりは随分冷たさを含んだ風が横殴りに猫の腹の毛をそよがせ、夏よりも随分柔らかな日差しが猫の行く先をのんびりと照らす。目にうつる景色の色は秋よりも味気なくはあったけれども、猫は十分にこの冬の色が好きだった。 それは素朴で、静かで、とても綺麗だから。 大好きな冬の中を歩く猫の足は一層速さを増し、最後にはとうとう元気に駆け出してさえいた。 ――――とにかく、ねぐらにつかなくては。 無事に獲物をねぐらに運び込む。それができてようやく第一段階が過ぎたことになる。 だが、だからといって安心はできない。真の猫の敵は、そのねぐらにこそいるからだった。 とてとてと走り行く猫道路(この場合、猫が自分の道と決めている塀の上のことだ)の傍らからは、近隣の家の昼ごはんのいい香りが漂ってくる。 むぅ、どこまで邪魔をすれば……。 避けてはまた降りかかる色々な弊害を不屈の精神でなんとか振り切りながら、猫はいよいよラストスパートに入る。 だだだだっ、と一気に勢いをつけて駆け、ねぐらと隣の家を区切る塀の境い目でたんっ、と身軽に体を宙に躍らせた。 そしていい具合に生え揃った庭の苔の上に綺麗に着地を決めると、ちゃっ、と辺りを素早く見回し、誰もいないことを確認した上でいつも猫の出入り用に開け放されている窓からねぐらの中に滑り込む。 ねぐらの中に入り込んだあとも、獲物をしっかりと咥えたまま注意深く気配を探った。 …………誰もいない。 どうやら、今のところは敵はいないようだった。――――しかし、油断は禁物だ。 この間はまさに油断していたところをつかれた。誰もいないと安心して、ご機嫌に歩いていたところを物陰から……! その時のことを思い出すと、いまだにくやしさで髭がぷるぷるしてしまう。 ……だが、今日の自分は一味違う。 なんとしても自分自身で捕獲したこのたんぱく質をお気に入りの場所で腹の中に納める。そう、絶対に。 猫は再度固い決心を抱いて、冷えた板敷きの廊下をピンク色の肉球で踏みしめた。
2 台所の扉は、おあつらえ向きに開け放されたままだった。 もし閉まっていたのなら、猫は相当な苦労を費やしてまずその扉を開けなければならなかったのだが――――(その格好たるや餌につられて飛び回る蛙のような姿なのでできればしたくなかった)今日は開いている。 つまりこれは、運も自分を応援している、ということだろうと、猫はいよいよ自慢げに鼻を膨らませた。 開いた扉から台所の中に入り込み、椅子を乗り継いで食卓の上まで上る。ここで、猫は一度だけ、口に咥えた大事な大事な獲物を放さなければならない。 (絶対に……誰もいないな……) これでもか、というほどに金色の瞳を忙しく動かしてこの場所の安全を確認し、黒一色の毛並みはその緊張でものの見事に逆立った。 そして、ようやく誰の気配もないことに納得した猫は、とても名残惜しげにそっ、とスズメを食卓の上に一時放す。そのまま自分は腰を低く下げて、斜め上方にかけられている吊り下げ式の棚に整然と積み上げられた小鍋、大鍋、フライパンの群れに鋭い視線を定めた。 大事な爪がにょきりと顔を出す。狙いを定める時はいつもこうだ。じり……、と重心を後ろに下げ、頭の中で棚に飛び掛る自分を綺麗にシュミレートする。 イメージが綺麗に決まった時が狙い時。猫は自分の狩りの本能を信じている。 一気に重心を前に移しながら硬質な感触の食卓を踏み切り、動きもしない哀れな鍋やフライパンに容赦なく飛び掛る。 一瞬後には、小鍋も大鍋も、そしてフライパンたちも猫の思惑通りの大音量を家中に響かせながらからからと床に舞い踊ることになった。
――――一方、一つ屋根の下の二階。 自室でのんびりとお気に入りの本を読んでいた草太は、まさにページを繰ろう、とした瞬間に響いてきた階下からの大音量の騒音に一瞬驚いて目を見開いていた。 薄茶の短髪の頭をゆっくりと本から上げる。 机の上では、先ほど淹れた紅茶が微かな湯気をくゆらせていた。草太は丸眼鏡の奥のはしばみ色の目でしばしそれを見つめて、やがて「あー」と合点がいったような微妙な声を漏らす。 「…………また、あいつかな」 それ以上の言葉は必要ない、というように軽く首を左右に振って、草太は手に持った本を机の上に閉じたあと、立ち上がった。
3 猫は、自分の手際の良さにうっとりしていた。 先ほどわざとしがみついて落とした哀れな鍋たちの活躍により、敵はいかにも面倒そうにではあるが、階段を降りてきた。 そうして、階段の陰に身を隠した自分には気づかず台所の方に向かう。まったくもって猫が企んだとおりの筋書きだった。……完璧だ。 猫はしてやったり、とほくそえみながら、敵が台所に入り、扉をしっかりと閉めるまでを金色の両目でしかと見届ける。台所の中から意味不明な「あー……」という呻き声が上がっていた。 いまだ。いましかない。 猫はしなやかな足のばねを最大限に利用して、音もなく一目散に階段を駆け上る。そして、ひとつの部屋の前で足を止め、獲物を落とさないように息をついた。 しっかりと咥えられたままのスズメは、もうくたびれて心なしかぐんなりしていた。 しかし猫はそれを気にした様子もなく少しだけ開いたままにされた扉の隙間からす、と部屋の中に入り込み、前方左側に据え置かれているベッドの上に飛び乗った。 その途端、ふわり、とした極上の質感と、布団が含むあたたかな空気が少しの埃と共に猫を包む。 くしゃん、と小さくくしゃみをしながらも、猫は何度となく夢に見た感触にうっとりとした。 この場所こそが、猫のお気に入りの場所なのだ。 今まで何度もここで獲物をいただこうとしてはことごとく阻止されてきた。そのことについては自分の作戦に数々の反省点があったことを認めねばならないだろう。 ――――しかし。今日こそは。 今日こそは完勝だ。完全なる勝利が、今、ここに……! 猫は、その勝利の甘美な余韻に酔いしれながら、いざ、悠々とくたびれたスズメを食む為に口を開いた。 まさにその瞬間。 「待て、こら」 …………ありえないはずの声が、猫の後ろ頭に深く重く、突き刺さった。
4 草太は、今まさに自分の愛用のベッドの上でスズメをおいしく頂こうとしている侵入者に声をかけた。 後姿だけを見ても幸せ効果を撒き散らしていた背中が、目の前で哀しげに凍り付いている。 草太はその哀れな侵入者が我に返って三次元効果(猫は壁をも走るのだ)を生み出して逃亡を図る前に素早く首根っこを引っつかんだ。 当然、相手は嫌がって鋭い爪やにゃこパンチ(ただの猫が繰り出すパンチだ)を繰り出してくるが、そんなものは何の障害にもならない。 なにしろ、侵入者は草太の飼い猫なのだから。 「おまえなぁ。いい加減に諦めたら?」 少々呆れた様子で呟く草太の言葉を、猫はぶらーんとぶら下がりながら聞いている。 しかしその視線は今しがた草太に奪われたばかりの獲物に虎視眈々と注がれ、いまだ自分が諦めていないことを猛然とアピールしているようだった。 ぶら下がったまま、微妙な動きを繰り返す猫の尻尾を興味深げに眺めながら、それでも草太はきっぱりと言い渡す。 「だめだ。ここに入るな、という約束を守らなかったお前が悪いんだから、こいつは俺が手厚く埋葬しておく」 そしてその言葉に、猫は今度こそこちらが気の毒になるほどにしょげ返ってしまった。 草太はわざと見ないふりを決め込んで、猫を下に降ろしてやる。哀愁漂う背中も強固に無視して、部屋を出た。 ……もちろん、スズメは持ったまま。
5 (これでまた、庭の土に肥やしが増えるのか……) すでに多くのスズメやらヤモリやらが埋められ、肥えに肥え太った”埋葬スペース”の前にかがみながら、草太は少々げんなりとする。 この一人と一匹の闘いは猫が草太の家に来てからずっと、何度となく繰り返されていることであり、草太には半ば習慣となりつつあった。 「なんだってあいつは執拗に俺のベッドでスズメやらヤモリやらを食おうとするんだ……」 すでに愛用物となってしまった埋葬用のスコップでぼーっと土を掘り堀り、知らず呟く。 そればかりは本人(猫)に聞いてみるしかないのだが、聞いたところで納得のいく答えをくれるようには思えない上に、ここまで続いた一人と一匹の確執が話し合いで決着がつくとも思えない。 こうしている間にも、きっとベッドは腹いせで暴れ狂う飼い猫の毛と悔し紛れのよだれでいっぱいになっているだろう。今日の眠りはさぞかし素敵なものに違いない。それを思うと、草太は一層憂鬱になった。 ……だが、誰だって自分のベッドで獲物をおいしく頂かれたくはないものだ。そうだろう? 小さな穴にそっと安置したスズメに元通り土をかぶせてやりながら、誰に、というわけでもなく草太は問いかける。 そう。どうしてもそれだけは譲れない。譲れないから、闘いが終わらないのだ。 あの浅はかでどうしようもなく可愛らしい困り者の飼い猫が諦めてくれるまでは。
(……まぁしばらくは無理そうだな) 今しがた出てきたばかりの自分の部屋を庭先から眺めながら、草太は今日もいつもの通りにため息をついた。
そして、主人の部屋に置き去りにされていた猫は、概ね主人の想像通りの行動を実行しながら、せめて、とばかりに自分の心を慰めていた。 今度こそは、と思っていたのに……。 そう思う猫の目にじわり、と涙が潤み、猫はそれを必死でこらえてベッドに体をこすりつけ、哀しさに漏れるよだれをシーツで拭う。 ……後で仕置きを食らうのが自分だとわかっていても、どうしてもやめられない。 それほど悔しい。 ――――そう、やめられないのだ。 狩りは猫にとって永遠の遊びであり、誇りである。そして、誇りある狩りとは完璧でなければならない。
おわり
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