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クリエイター名 |
幸護 |
櫻花狂想
●櫻花狂想
『今来むと いひしばかりに 長月の 有り明けの月を 待ち出でつるかな』 (訳:「今すぐに行くよ」と貴方が言ったので、長い長い夜を待ち続け、とうとう明るくなった空に月が見えるまで待ち明かしてしまいました)
「咲良っ」 「村雨……」
目に映るは駆け寄った青年の今にも泣き出しそうな顔。 私を強く抱き寄せると「咲良(さくら)」と名を呼ぶ。その声が闇を切り裂き木々を劈く。 日に焼けた頬に手を伸ばし軽く触れると青年の漆黒の瞳から一気に涙が溢れた。 「村雨……きっと捜して……」 「咲良、咲良、咲良っ」 尚もまるで呪文のように繰り返し呼ばれる名。軋むのは血がとめどなく流れる傷口か、それとも心か。 こんな時にそう思うのは自分でも可笑しかったが、村雨が呼んでくれるこの名を愛しいと思った。
闇夜に桜が散る――雪のように降り積もる。風が舞う。 辺り一面 桜吹雪。これは夢(まぼろし)? 月、桜、村雨――きれいで胸が痛い……。
カーテンの隙間から漏れ射す光。暖かな春の朝日が切り取られたように白く細く部屋に伸びている。私は自分の頬を伝う涙で目を覚ました。 「また……」 小さな頃から繰り返し見る同じ夢――。 切なくて苦しい。この気持ちは何処から来るのか。 「わっ、目覚まし止まってる〜!」 手繰り寄せた目覚まし時計をベッドに放り投げると慌てて飛び起きる。 小谷 さくら。 現実に引き戻され、ピンと跳ねた寝ぐせ髪を手で押さえ溜息を吐く。この春、2年に進級したごく普通の女子高生である。 朝食を取る余裕もなく家を飛び出した。小走りで向かう学校までは歩いていけば15分。 暫く走った後で観念したようにゆっくりと歩き出した。通学路は車通りの少ない細い堤防である。両脇には桜並木が続いていて、この時期、休日ならば絶好の花見ポイントとなっている。 「わぁ、満開」 思わず声を漏らす。
学校に着くと校門の前に一人の少年が立っていた。じっと、こっちを見ている。小学校の3、4年生くらいだろうか、普通なら高校の校門の前に小学生がいるのは不思議なのだろうが私の通う学校は隣に小学校が並んで建っているので然程気にも留めなかった。 ただ単に時間がなかったというのもあったのだが。 通り過ぎた後、何かに惹かれるように一度振り返ると、そこにはまだ私を見ている少年の姿があった。 「おーい、祐馬ぁ! 何やってんだ? 遅刻すっぞ」 「おー、今行く」 友達らしき少年に声を掛けられ祐馬と呼ばれた少年が大きくランドセルを揺らし校門の前から走り去る。 何だろう?あの鋭く私を見据えた瞳。 キンコーンカンコーン 風を揺らしたチャイムの音に私も止めていた足を走らせ校舎へと向かった。
「また、例の夢?」 廊下で担任を追い越しギリギリセーフで教室に滑り込みHRを終えた後で葉子ちゃんが教科書を片手に横に立っている。 「うん」 「同じ夢ばっか見るってのも不思議だよね。案外、前世の記憶、とかさ」 「やめてよー」 私は急いでノートと教科書を机から引っ張り出すと席を立つ。 「んじゃ、欲求不満?」 「葉子ちゃん!」 「ははは、あーあ。一限目から移動教室は面倒だよね。カエルは怒るとウルサイしね、ホラ、急ご!」 カエルというのは生物の先生。ありきたりではあるが顔が蛙に似ているので生徒の間ではこう呼ばれている。 前世の記憶。輪廻転生――。 授業中、葉子ちゃんのさっきの言葉が頭に浮かんだ。 ううん、まさか……ね。
まだ寒さが身に染みる春の朝、私は木の太い枝の上にいた。溢れ出す涙を止める事が出来ず、それを誰にも見られたくなくてここに来たのだ。 「咲良、こんな所にいたのか」 視線を向けなくても声で村雨だと分かる。 「……人はなんで戦(いくさ)をするんだろうね」 涙を悟られぬよう顔を向けることなく、ぽつりと呟いた。 仲間の嵐雪(らんせつ)が死んだ。ちょっぴりドジだけど明るくてお日様のようないい奴だった。 「そういう時代だ」 村雨はそう言うと私の隣に腰を下ろした。 「悲しむのはいつだって女だ」 「俺達は忍びだ。戦うのが仕事。死はつきもの。忍はすなわち刃の心。心に刃をあてる“心を殺す心”私心は滅却せねばならん。……くノ一は女ではないと思っていたが?」 「そんな事……」
『くノ一は女ではない』
そんな事言われなくても解ってる。いや、頭では解ってるつもりなのに時々、心がついていかない。 「子供に女も男もないか」 村雨はクスッと笑うと私の涙を手で拭い頭を軽く胸元へ引き寄せた。 「子供扱いするなっ」 その手を払い退ける。 「魂は死なない。嵐雪は新しく生まれ変わるんだ」 払い退けられた手で拳をギュッと握る村雨の横顔に私は初めて視線を向けた。
『心の中は いかばかり いそがしくとも 形のうららかに 物静かなる 水鳥の如し』
普段と少しも変わらぬ表情で遠くを見つめる村雨の瞳には目には見えぬ涙が流れているように見えた。どうして気付かなかったのか、嵐雪と兄弟のように育った村雨。 きっと一番悲しいに違いない。自分の愚かさに唇を噛む。 「今夜は雨だな」 晴れている空を見上げた村雨。 「嵐雪 今度は戦のない世に生まれればいいのに」 「……そうだな」 「にゃー」と声がして、木の下を通りかかった猫が私達の声に気付き顔を上げた。 「猫の目時計五ツ(午前8時)、か。今夜は忍び討ちだ。少し寝ておいた方がいい」 猫の目を見て村雨が言う。忍びは自然に対しあらゆる知識と智恵を身につけている。猫の目は光の加減で瞳孔の大きさが変化するので、その季節ごとに瞳孔の開き具合でおおよその時間が判断できるのだ。 「村雨は?」 「俺はもう少しここに居る」 その言葉を聞き、彼は私を探しに来たのではなく同じように一人になりたかったのだと気付いた。 今夜はまた戦。今は晴れているが村雨の言うように夜には雨になるだろう。雲の動きと湿気の匂いで私にも分かる。 雨は忍びにとってその気配を消してくれる味方である。今夜は有利に仕事をすることが出来るだろう。 そう、それが私達忍びの日常なのだ。 戦なんてなくなればいい。こんな思いはもうたくさんだ。血を流さなくとも皆傷ついてる。 「じゃ、ね。村雨……」 木を降りて暫くすると村雨の吹く横笛のどこか切ない旋律が響いてきた。
「忍び……っつーと忍者? さくらが?」 葉子ちゃんが笑いながらお弁当のミニハンバーグを口に放り込む。 お昼の時間、食べ終えた弁当箱を片付けながら自販機で買ってきた紙パックのウーロン茶を飲み干す。 葉子ちゃんは食べるよりお喋りに夢中でいつもギリギリまで食べている。 教室の窓側の一番後ろ。それがいつもの私達のランチタイム指定席。 「だから夢だってば」 そう、全て夢なのだ。無責任で非現実的で、それでいて酷く胸の痛む……。 「夢って言っても、無意識下の意識なんだからさ。そう何度も同じ夢見るってのも気になるじゃない。村雨、だっけ? その人も必ず出てくるんでしょ? ……まぁ、運動音痴のさくらが忍者ってのは笑えるけどね」 「もう、笑い事じゃないってば」 私は席を立つと窓辺にもたれて、ぷぅと頬を膨らます。葉子ちゃんにとっては、笑い話でしかないこの話も私にとっては今最大の悩みなのだから。 全開にされている窓から春の風が吹き込んでくる。校庭では、昼食を終えた男子生徒たちがいつものようにサッカーを始めているようで、ボールを蹴る音と楽しそうに響いてくる彼らの声を背に聞き、何気なく振り返ろうとした、その時、一陣の突風に髪が乱れた。 「わっ」 バランスを崩し腰の下辺りの窓のサンをぐっと掴もうとして手が滑る。 後のことは自分でも何が何だか分からないうちに起こった。ただ、校庭の隅に植えられた大きな桜の木から舞ってきた花びらが綺麗だと思ったり、葉子ちゃんの叫び声が聞こえたり……それから、隣の小学校の校庭にあの祐馬という少年が居て、一瞬目があった気がしたり。 4階の教室から落ちていく一瞬が1コマ1コマまるでスローモーションのようで、でも実際はほんのほんの一瞬の出来事で、全て私の気のせいかもしれない。 教室や校庭から大きな悲鳴が響いていたが、どこか途方もなく遠くで聞いているような感覚だった。 「村雨っ」 こういう時って本当は「お父さん」とか「お母さん」とか言うものだと思う。けれど私の口を吐いて飛び出したのは、あの夢の中の青年の名だった。 ぐっと歯を食い縛ると身体が自然に膝を引き寄せ背を丸めクルクルと回転した。葉子ちゃんに『運動音痴』ときっぱり折り紙を付けられる程で、自分自身それを嫌という程自覚している私である。 まるで体操選手のようなこんな神業(私にとっては神業としか思えない)やってのけられる訳などない……はずだった。 でも、その時の私は不思議なくらい冷静で、自然に身体が反応していたのだ。 1,2,3……3回転した後、ジャリッときれいに足から着地した。 「……な……に?」 足元には風に泳ぐ桜の花びら。 真っ白になった頭で必死に現状を把握しようと思考を巡らせるが頭の奥で鈍く痛みが走る。 駆け寄ってきた生徒達の足に囲まれて、へたりと地面にお尻を下ろす。急に手足が震え全身から力が抜けた。 「おい大丈夫か?」 「誰か、先生呼んでこい」 「救急車ッ」 頭の上で起こっている騒動がぼんやりと耳に届いている中でハッキリと飛び込んできた声に顔を上げ細く開けた目で姿を捉える。 「さくらーっ! さくらーっ!!」 目の前にあるいくつもの足の隙間から見えたのは隣の小学校とを隔てたフェンス。そのフェンスに指を絡め何度も私の名を叫んでいる、あの祐馬という少年の顔だった。 その後のことは何も覚えていない。どうやら私は意識を失って倒れてしまったようだった。
ガタッ 肩に傷を負って、やっと辿り着いた小屋の戸口に倒れかかるように身を寄せると小さく息をした。中では身構えるような一瞬の沈黙。その後囁くように掛けられた声。 「煙」 「あ……浅間」 「咲良っ」 私の声を確認すると慌てた様子で村雨が戸を開けてくれた。肩の傷に気付き腕を掴むと小屋の中へと引き入れる。 「むら……さめっ」 見慣れた甘く整った、けれども鋭い切れ長の瞳で精悍な印象の村雨の顔を一目見ると、それまでの恐怖や何もかもの感情が一気に流れ出しその場に崩れてしまった。 「一体どうしたんだ? 滝の屋敷に忍び込んでいたはず……」 がくがくと震える私の身体を支えるようにして村雨が問う。 「あたし……」 くノ一は女ではない。しかし、自らが女であることを利用して情報収集することが主な仕事であった。 裏で取り付けた伝手を頼りに滝の屋敷へ奥女中として潜り込んだのは先月。目的の屋敷の見取り図は、この一月のうちに何とか完成していた。そろそろ抜け出す頃合だと思っていた矢先、滝の座敷に呼ばれたのだ。 それが何を意味しているか私にだって解った。逃げ出したい気持ちよりも先に、滝に近づくことが叶えばもっと情報が入手できるかもしれない、との思いが頭をよぎった。 忍びとしては、ごく当然の思いであったろう。しかし、いざその場に直面したら無意識のうちに胸元から小しころを取り出していたのだ。 「村雨……あたし……」 「もう大丈夫だ」 村雨はそれ以上は何も聞こうとしなかった。 暫くしてようやく落ち着いたところで、ふと小屋の中の違和感に気付く。よく分からないが、気配がいつもと違う。 村雨を見上げたが変わった様子はなく、些細な変化にも村雨が気付かぬはずはない、気のせいだ、とすぐに思い直した。 「お前はこのまま里を出ろ」 「村雨? 何言って……。大丈夫だよ! 追っ手は撒いたし正体(流派)も見破られるようなヘマはしてない。図面だって、ホラ、ちゃんと手に入れた」 胸元から取り出した屋敷の図面は血で紅く染まっていた。 「そんな事を言ってるんじゃない。お前にくノ一は無理だ。里を出て普通の女子として暮らせ」 「抜け忍は重罪だよっ」 「俺が赤子のお前を拾って里へ連れてきた。お前は女子だ。見つけたのが俺でなければ、こんな生き方ではなかった筈だ」 突然の村雨の言葉に奈落に突き落とされた気持ちになり目の前が暗くなる。 「あんな山奥……村雨が見つけてくれなかったら今頃私は生きちゃいないよ。頭に頼んでくノ一になったのは自分の意思だ」 ただ、村雨の傍に居たかった。それだけ――。 「女に生まれたんだ、祝言を挙げ子を産み幸せに暮らせ」 「戦国の世だ。戦、戦で死が絶えぬ。多くの者の血が流れ、それを誰も止められない。もし忍びになっていなくとも泣くのは女だ。同じことだ」 一呼吸置いて村雨が顔を上げた。 「この国を変えてくれる者がおるかもしれん」 「村雨は女として幸せにと言うが、女子に国など関係ない。好いた男と一緒にいられぬなら意味がない」 傍に居たい。例え、男と女ではなくとも。 「俺達は忍びだ。一緒にはなれない」 「わかってるよ。共に戦いたいだけだ。足手まといになったら、その時はいつでも私を斬れ」 「わかった……手当てをしよう」 低く答えると村雨は静かに立ち上がり、そっと傷のある肩に手を触れる。 「いいよ」 その手を払い退けると私も立ち上がった。 「女のくせに痕が残ったらどうするんだ」 「くノ一は女じゃない」 「そうだったな」 そのまま私は振り返ることなく小屋を後にした。村雨も何も言わなかった。
「盗み聞きとは悪趣味だな、巴」 村雨が天井に向かって声を掛ける。 「おや。嬢ちゃんが居たんで遠慮したんじゃないのさ」 巴と呼ばれた女性が妖艶なその身を現す。 「悪趣味だと言ったのは、わざと気配を消さなかったことだ。流石に咲良も気付いただろう」 「やだねぇ、気配を消すも何も仲間じゃないのさ。そうだろう?」 「ふん」 背を向け腰を下ろす村雨。天井から飛び降りると巴がその背後を過ぎる。 「一つ忠告しておくよ。忍びの三大禁制・酒、色、欲。お前達2人は危険だよ。身を滅ぼすのは勝手だけど、あたいの仕事を増やさないでおくれ」 「っ」 そのまま戸口から出て行った。拳を床に打ちつけた村雨が肩を揺らした。 (咲良――!!)
その日は朝から村雨の姿を見ることはなかった。夜半、何となく山へと分け入ってその後姿を見掛け咄嗟に後を追ったのだ。 その私の気配に気付き、村雨が木の上へと飛びあがる。 「咲良っ」 墨の天から降りかかったのは驚いた声。木々の間から滲んだ月光がごく僅かにその輪郭を射した。 「村雨、何処に行くつもり?」 「里を出る」 予想外の言葉に耳を疑う。 「なっ! まことか! 何故?」 枝から降りた村雨の身支度を確認し、それが嘘ではないのだと理解する。 「……前に話しただろ? この国を変えてくれる者がおるかもしれんと」 「誰だ」 「尾張の織田信長だ」 村雨の口から出た名はよく知っている人物だった。 「信長! 敵ではないか! 正気か? うつけと言われた男に寝返るのか」 「龍興(たつおき)は敗れる。天下を取るのは信長だ」 「まことに裏切る気か? 村雨っ!」 龍興とは斎藤道三の孫である。私たちは美濃、斉藤家に仕える忍び。昨今の戦の相手は今、村雨の口から出た尾張の信長軍である。その敵に降るというのである。 「墨俣に城を築く。完成したら稲葉山城は落ちる」 「墨俣は美濃の領地ではないか。城を築くなんて無理だよ」 あまりに無謀な話に村雨の気がふれたのではないかと疑う。 「指揮は木下殿が取っておる。準備は万全だ。明日の夜、天王の森に集う。美濃は信長のものだ。美濃を制す者は天下を制す。……俺は行く」 「藤吉郎か」 木下藤吉郎。 その名も知れた名であり、当然私の耳にも入っていた。大変に智恵の回る策士だと聞く。後に豊臣秀吉と名乗るその人物の出世を私は最後まで知ることはなかったが。 「そんなに天下が欲しいか。忠の心を忘れたか!」 村雨の着物の胸元を掴むとグイと力を込める。 「“忍の本は正心なり 君の為 天下の為より外 行うべからざるものなり” 反り忍と言われようとも正しいと思う道しか歩めぬ。俺はただ、戦のない世にしたいだけだ」 (失いたくない。守りたいものがある。嵐雪――もう誰も決して傷つかぬように……) 村雨の瞳に嘘も偽りも迷いもないのだと悟った。止めても無駄だ。いや、止められる訳がない。
「あたしも行くよ。村雨が信じたことだ、あたしも信じる」 「だめだ。お前はどこか村へ行け」 「村雨っ」 喉の奥が熱くなる。かすれてしまいそうな声で名を呼ぶ。が、村雨の固い顔色を見取り目を伏せた。 「さくら」 「え?」 「桜が咲いてる」 ふいに呟いた村雨の視線を追い顔を上げると、そこには闇夜に白く浮かび上がる満開の山桜。 「7つの俺が山でお前を見つけたあの時と同じだ。こんな時代でなかったら……」 (離れることもなかったのに) 後半の言葉を飲み込む。 「もう16か、早いものだ。赤ん坊の頃から見ているからな」 当時は現在とは違い数え年である。生まれ落ちた日に1つ、そして正月を迎えると皆一斉に年を取る。私の生まれた春、師走生まれの村雨は7つ。現在の年齢に直すならば5歳にあたる。 「どうしようもないじゃじゃ馬だが、お前のことを心底好いてくれる者もおるだろう」 「何故、共に行こうと言ってくれぬ」 振り返った村雨の真っ直ぐな瞳に見据えられ身体が強張る。 「お前はもうくノ一ではない。女だからだ」 そう言うと重ねられた唇。村雨はその一瞬で私をくノ一ではなくただの女に変えた。 心と共に揺れた髪が頬に触れた。
『咲いた花なら散らねばならぬ 恨むまいぞえ小夜嵐』
肩を掴んでいた手が離れたかと思った刹那、村雨の手裏剣が冴え冴えと空を斬る。私も如影忍(尾行術)に気づき鎖鎌を手に身構えた。 「咲良、飛べ。鶉隠だ」 村雨が耳元で囁いた。鶉隠とは、石のようにじっと精神統一し気配を消す術のことである。 「穏・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」 村雨が印を結ぶと後方頭上から飛来する手裏剣を忍び刀で打ち落とした。 八方手裏剣――。 地面に落ち鈍く光ったその手裏剣は暗殺用のもので、仲間の愛用しているものだった。 「馬天!(ばてん)」 「巴の言った通りだったな。村雨、生きて山を下りれると思うなよ」 その声はまごう事なき馬天のもの。 村雨は私の手を引くと走った。後方から飛んでくる手裏剣をかわし、ただ闇雲に。 暫く走ったところで足を止める。馬天の追ってくる気配はなかった。 月は天の真上。 行き慣れた山も暗闇に姿を変える。 抜け忍は重罪。明るくなれば里の追っ手が出るだろう。 暗いうちに山を下りなければ――。村雨が膝をつき軽く地面を舐める。 「人の通る道じゃないな」 人が通る道ならばごく僅かだが塩気を感じるのだ。 「とにかく西へ」 空を見上げ村雨が立ち上がる。 ガサッ 草葉の擦れる音に再び身構える。 「なんだ犬か」 胸に走った緊張を撫で下ろし、その犬に触れようと近づき異変に気付いた。 ヨタヨタと2,3歩前に進み出た犬はそのまま両の手足を棒のように揃え、ドサリと横に倒れたのだ。触れてみたがもう息はなかった。 口元に紅い泡。 「これは……馬銭(まちん)」 忍びの仕業――。 馬銭とは忍びが犬を殺す際に使用する独自の薬である。量を調節し一時的に失神させるのが主で殺めることはほとんどない。 「村雨……あれ!」 振り返ろうとして右奥の木に白いものを発見した。太い幹には紙と兎の死体が杭で打ち込まれている。 その紙には、おそらく兎の血であろう、赤い文字が綴られていた。
忍びいろは。 村雨が文字の綴られた紙を引き剥がす。 忍びいろは、とは所謂 忍者の暗号で流派により違うものである。そこに綴られた文字は違える事無く仲間のもので、たった9文字だった。
『ウラギリモノ コロス』
馬天が近くにいる――。 「咲良、このまま西へ! お前は一人で村へ行け。馬天の狙いは俺だ」 「一緒にいるよ」 「早く行けっ」 村雨が叫んだ。 「嫌だ」 私は必死に喰らいつく。 「足でまといだ」 村雨から放たれた突き放す言葉。身体中の血が凍るような感覚が走る。 「ならば斬れ。今すぐあたしの命を取れ」 村雨に掴みかかると彼は小刀を取り出し私の首筋に向けた。月光を受け切っ先が光る。 私は静かに目を閉じた。
バサッ かすかな音に目を開けると地面に散らばる幾筋の黒い髪。 短くなった不揃いの髪が風に泳ぎ首をくすぐる。 「もう……一緒にはいられぬのか」 私は地に崩れると一房の髪を握り締めた。村雨はくノ一は女ではないと言い、私に女に戻れと言い、そして私の髪を……女の命を切って捨てたのだ。 「そういう時代だ」 その時、背後からのびた鎖に手首を絡め取られ強く引かれた。 「咲良っ」 「くっ」 背に強い衝撃を受け顎を押さえつけられる。鎖がぎちぎちと手首を締め付ける。 「村雨、どうする? 何も出来まい」 頭上から聞こえた声は馬天のものだった。 「忠告した筈だよ。弱みのある者は身を滅ぼすと」 「巴」 巴が村雨の前に立つ。村雨はじりっと半歩後ずさる。 「村雨、あたしに構うな。一緒に殺れ」 私は叫んだが村雨は唇を噛むだけだった。 「裏切ろうとするからだ」 馬天が鎌を振り下ろす。私は、手首に鎖を絡めたまま村雨の前に飛び出した。 身体が勝手に動いたのだ。 「うっ」 馬天の鎌が腕に喰い込む。血飛沫が上がった。 その瞬間、村雨が馬天に向かい目潰しの赤土を投げ、白刃を振り下ろす。軌跡が弧を描き袈裟がけに斬り付けた。 まるで天に2つの月。
ドンッ と音がして馬天が倒れる。 見開いた目が私を見ているようで「ひっ」と声が出た。 「巴、行けっ」 村雨が切っ先を右下に下ろし正眼に構えたまま叫ぶ。 「お前に仲間は殺れんと思っていた。甘くみていたようだね」 言い残すと巴は走り去った。
村雨は馬天の遺体を抱えるとそっと木にもたれかけさせた。
「咲良、大丈夫か?」 「毒が塗ってあったよ」 抜き取った鎌をそっと手渡す。既に指先から痺れがきていた。 「待て、今毒消しを」 「無駄だよ。もう遅い……桜、闇夜に浮かび上がってまるで雪のよう」 「咲良っ」 村雨が私を抱き締める。 「村雨の付けてくれた名の通り、散り際ぐらい潔くなくては」 傷口を突き刺す激痛、徐々に自由のきかなくなる身体に耐え、薄く微笑む。上手く笑えていたかは自分でもよく分からない。 「死ぬな咲良っ」 村雨の瞳から涙が溢れる。長い間共に過ごしたが村雨の涙を見たのは初めてだった。 「死ぬのは別に怖くないよ。前に村雨が言ってた、魂は死なないって。ならば、滅ぶのはこの身だけだ」
(強くなれば愛する者を守れると思った。笑っていてくれるなら傍にいなくとも良いと思ってた。まことの強さとは何だろう。ただ、守りたかっただけなのに。希望(あす)なんて本当に来るのだろうか)
「咲良、生まれ変われ、この場所に! 俺は絶対お前を見つけ出してやる」 「村雨」 「すぐに見つけ出してやる。必ず。だから待ってろ」 戦のない時代がきたら、その時は今度こそ……。 「村雨……きっと捜して……」 「約束だ」 「村雨……」 「咲良っ」 月、桜、村雨、最後に見た景色は哀しいほど綺麗で潰れそうなほど胸が痛い……。
長い夢を見ていた気がする。 目を開けると白い景色。エタノールの匂いが部屋中に漂ってる。そこが保健室であると気付くのに暫く時間がかかった。 「小谷さん気付いた?」 保険医の先生が私の顔を覗き込む。 「待ってて、今先生の車で病院に送ってくから検査受けましょう」 ベッドの上で聞きながら、リアルな夢を思い出していた。痺れた手、無くなっていく感覚、黒く消えていく視界。 (大丈夫ちゃんと動く) 握っていた手を開く。 目に飛び込んだのは掌の中、淡く薫る桜の花びら。 あ。 「夢じゃないっ」 先生が慌てて止めようとするのを振り払い、私は確信を持って保健室を飛び出した。
校庭へと走りながら、入学式で校長先生が自慢げに話してたことを思い出す。この辺りは昔は山で、その山にあった樹齢600年の桜が校庭に移植されたのだ、と。 その桜の下にあの少年の姿があった。 私はゆっくり近づく。 少年は私に気付くと咲き誇った桜を指差し口を開いた。 「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほいける」 (訳:貴方の方は、どうだかお心のうちは分かりません。もしかしたらお心も変わってしまったかもしれませんが、昔馴染みのこの土地では花だけは昔のままの香りで咲き匂っています)
振り返った少年に村雨の面影が重なる。 彼と何を話そう。 咲良のことや私のこと、それから、それから……。
私たちを見守るように校庭の桜が風に散っていた。
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