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クリエイター名  硝子屋歪
月と曹達と猫と桃

 酷く現実感の無い空間だった。
 真っ白のような、或いは真っ黒のような、曖昧な空間の中央にひとつ、猫足の象牙のテーブルが置かれている。
 少女は夢の特有である奇妙な自信に背を押され、迷う事なくテーブルへと歩み寄った。テーブルの下には二本足で立つ猫がいる。どこかの絵本の世界かしらと、少女はぱちぱち瞬いた。

 融けた月が、象牙のテーブルに置かれた硝子のコップの中、湛えられた曹達水にゆらりと浮かぶ。
 コップをそっとつまみ上げ、それをひといきに飲み干して、少女は小さく首を傾げた。
「どんな味がした?」
 首を傾げるその仕草に、足下の猫が問う。
 猫は前足をちょいちょいと動かし、コップを持つ少女のひらひらしたスカートの裾を僅かに揺らした。
「ねぇねぇ、どんな味がしたのって聞いてるんだよ!」
 せっかちな猫はもう一度問う。彼は楽し気だった。
 少女はコップを象牙のテーブルの上に戻し、うぅん、と小さく唸ってみせる。猫が二本足で立ち、器用に前足を操り、人語を解し喋る事は、少女の中で疑問を持たない。
「普通の曹達だわ。いつもと変わらないもの」
 白いドレスを揺らしながら、少女は緩く首を振った。それに合わせて彼女のボブカットが左右に振られ、甘い桃の香りが四散する。
 その香りにひくひくと鼻をひくつかせ、猫は髭をむず痒そうに震わせた。
「あれぇ、シャンプー変えたのかい。前までは石鹸の香りがしたのにさ」
「ええそうよ、ママが間違えて買って来たの。でも話を誤魔化さないで、結局あれを飲むとどうなる筈だったの?」
 猫の問いに、少女は怒った風に腰に手を当てる。睨むように猫を見詰めて口達者にそう言った。見知らぬ筈のその猫に、少女は気後れなどする様子はない。
 桃の香りと曹達の残り香に少しだけくらくらしながら、それでも猫はやぁやぁと話を誤魔化して笑う。
「ううん、でも──君の問いには答えないとね。何も起きなかったとは言え、君に魔法を試させてしまった」
 尻尾で上手にバランスを取りながら、猫は象牙のテーブルに飛び乗った。人間じみた猫が、そんな仕草ばかりは猫らしい。
 重厚な造りのテーブルは揺れもしなかったけれど、猫の隣に置かれた空のコップは僅かに動き、かつん、とビー玉がぶつかるような音を立てた。
 涼やかな音色に、猫は満足そうに瞳を細める。身体を小さく丸めて猫はテーブルの上に収まり、未だ自分をじいと見詰めている少女の視線に、やっとこ自分の視線を合わせたのだった。
「魔法?」
 少女特有のくりくりとした瞳に、疑問の色が少しだけ混ざる。僅かに上擦った質問の声に、猫はにまにまと笑んで尻尾をくるり、と一振りした。
「月を浮かべた曹達水を飲むと、猫になれる。そういう魔法さ」
「でもあたし、猫さんにならなかったわ」
 少女の言葉に、猫はふぅむと唸って目を細める。品定めをするかのような、何かを見極めようとしているような、そんな視線。だけれど少女は嫌がりも拒絶もせず、黙ってそれを受け容れる。猫は満足そうにごろごろと咽喉を鳴らした。
 やや間が在って、猫は漸くその口を開いた。どこにあるのか隙間から入ったらしい光が、ちか、と牙を照らす。
「君には猫になる要素が足りなかったんだ、きっと」
 猫は頷いて、笑みながら続けた。
「神様が人間で居なさいと言ったのかも知れない。いやいや猫になるなと言ったのかも知れない。はたまたそんなことは無く、唯単に君が君であっただけという事かも知れないね」
 博識な風を装う猫に、少女は眦を吊り上げる。
「曖昧だわ。もっとはっきり言って頂戴」
 少女が頬を膨らませると、猫はついと目を細めてにゃぁおとひとつ鳴き声を上げた。
 それが合図になったかのように、周りの景色が急激に収縮していく。しゅるしゅると音を立てながら、月も部屋も白も黒も金も青もコップの硝子も何もかもが、猫の鳴き声が発せられた口へと吸い込まれていった。

 猫は全てを飲み下し、何もなくなった空間でまた尻尾をぱたりと振った。

「寿命だったんだ。君の目の前で死んでしまったら、悲しむだろう?だから追いかけてきちゃ駄目だ、さぁ元の世界へお戻り──……」
 猫がそう言って笑った瞬間、





 少女は目が覚めた。
 何だか酷くぼんやりとしている。夢を見ていたような気がするが、それが何なのかは思い出せない。酷く頭が重いけれど、調子が悪いわけでもない。
 昨晩はちゃんと歯磨きをしてから寝たのに、口の中が妙に甘ったるくて気持ちが悪い。そう、甘いソーダ水を飲んだ時のような。
 ふと、少女はいつも隣で寝ていた猫が居ない事に気付いた。飼い猫のあの子は、もう起きてしまったんだろうか。お寝坊が好きで、あたしが起こさないと起きない子なのに。
 ベッドから飛び降りて、少女はベランダへと続く扉を開ける。
「お母さん。猫はどこ?」
 声を張り上げて、洗濯物を干していた母に問うた。
 振り返った少女の母は、僅かに痛みを覚えたような顔をして緩く首を振った。何を言っているの、と嗜めるような声が響く。
「──散々探したけれど、居なかったじゃない。もう諦めなさい、猫はそういう生き物なのよ」



 嗚呼そうだ──少女はやっと思い出す。
 猫になってふらりと出て行ってしまったあの子を探すんだと、さんざん泣き喚いて居たのはあたしだった。そうして泣き疲れて見た夢が──……、夢が。

 少女の唇が微かに戦慄き、吐息を繋ぐ。喉の奥で引き攣れたように呼吸が絡まり、鼻の奥がつんと熱くなる。
 膨れ上がった涙が溢れる寸前、耳元を擽るように声がした。
『もう泣かないで』
 猫の声に似ていたかどうかはわからない。既に夢は朧気で、朝の柔らかな陽射しに押し負けそうになっている。
 ただそれでも、その声は猫だと少女は思った。こみ上げてきた暖かな雫をパジャマの袖で拭い遣り、ぐすんとひとつ鼻を啜って、彼女は漸く頷いた。
 
 
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