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クリエイター名 |
泉河沙奈 |
サンプル
ある峡谷にて。
四方を山に囲まれた土地があった。北の山から流れ出た河は麓で三つの支流に別れ、その土地を丁度三等分にしていた。緑があり、獣が住まい、山に遮られて大風も大雨も届かない、そこは豊かな土地であった。 唯一にして最大の問題は、面積であった。そこは狭かった。その狭いが豊かな土地を奪い合うようになったのは、人間がこの地に現れてすぐの事。 この地の歴史を見れば、争いしかない事が解るだろう。三年も明けずに、絶えずどこかで戦が続いている。数十年前から、その土地には三つの国があった。 民主主義の共和国と。 絶対王政を敷く、王国と。 神を唯一のものとする、宗教国家が。 今、これらの国の、最後の戦いが終わろうとしている。
風が、死臭を運んだ。岸壁に囲まれた峡谷の僅かな地面は、赤く染まっていた。数時間前、否、数分前までそこは人が殺し合いをしたのだと、言われなくても大抵の人間は理解できるだろう。 どうしようもないほど、よく晴れた空の下、累々たる屍の中に二つだけ動く影があった。少し離れて位置する二人の間には、十字架のようなものがある。そこには、更にもう一つの影が縛り付けられているようだった。 太陽は真上に位置し、全ての事象を白日の下に曝そうとしている。 「私の靴を舐めてみるかい?」 男はそう言い放った。黒い燕尾服に黒いシルクハットは、この場所には冗談のようにそぐわない。彼は肩にかかる程度の栗色の髪を、無造作に一つに纏めている。同じ色の切れ長な瞳が、愉快なまでに喜悦を含んでいた。 「誰がっ!」 吼えたのは、青年の足元に跪くように―――けれど、最後のプライドか、膝はついていない―――うずくまっている、こちらも青年だった。彼の国の正規のものであろう騎士の甲冑を半ば脱ぎ捨てた姿で、血と脂がこびりついた両手剣を、唯一すがるものにしている。絹糸のように繊細な黒髪を振り乱し、印象的な二重の黒い瞳で、相手を睨みつけた。視線で人が殺せるのならば、青年はもう何度も目の前の男を串刺しにしただろう。 「ならばそこで、這いつくばって彼女が息絶えるのを眺めているがいいさ」 男は―――よく見れば、彼もまた青年と言える体つきをしている。子供らしさの欠片もない表情が、彼を年かさに見せていた―――穏やかに微笑んだ。奇妙なまでに、温かみのある 笑みだった。その表情を変えぬままに。 どこから取り出したのか、手に握った小刀を振るった。 音すらせずに、その刃は彼ら以外の誰かの肩に刺さる。 「やめろぉ!!」 黒髪の青年が再度吼える。 「なるほど。この程度じゃ声も上げない、か。面白いね」 「こんな事をして、なんになるって言うの」 粗末な十字架に縛り付けられ、肩に刃を突き立てられたまま、今まで身じろぎすらしなかったもう一人が口を開いた。それは女性だった。まだ若く、娘といえる年頃だ。燃えるような赤い髪を、背中の中ほどまで伸ばしている。初めて芽を出した新緑の緑を閉じ込めた瞳で、彼女は目の前に立つ男を見据えた。 「教えて、アーサー」 声は、彼のその姿からすれば、酷く力強い。 「私は戦場の道化。それ以外の名前なんてないよ」 燕尾服の道化は、はぐらかすようにそう言って笑った。
その笑顔が、青年―――セインには懐かしくもあり、憎くもあった。 額から流れてきた赤い液体が視界を赤く染めてゆく。けれど、彼にはもう腕を上げる力すらなかった。地に這い、かつて親友だった男が、親友の婚約者を殺そうとしていると言う、ある種喜劇的なまでの現実を眺めるほか、彼にできることはない。 過去の親友はアーサーと言った。 優しげな容貌の少年で、栗色の髪をいつも少し長めにして後ろで括っていた。髪と同じ色の切れ長の瞳は、常に自信なさげに伏せられていて。セインともう一人―――ジョアンは二人でアーサーを庇ったり、時に励ましたりして三人で友情を育んできた。 そう、セインは信じて疑わなかった。 たとえ、戦争になり、三人がばらばらになったとしても。 アーサーの祖国と、セインの祖国が敵対関係になったとしても。 信じるものは同じだと。 離れていても、友で在る事には変わりはないと。 今この瞬間にも、そう信じたい自分がいる事に、セインは笑ってやりたい気分になった。馬鹿な奴だと大声でのたまって、空を仰いで力の限り笑ってやりたかった。 それすら、今の彼にはできなかった。 これを絶望と呼ばずして、一体何と現せばよいのだろう。
その笑顔に、彼女―――エリーは奇妙な懐かしさを覚え、そして悲しみを覚えた。 粗末な十字架に麻縄で縛り付けられた各所が傷んだ。風に過去は純白であった衣装の裾が翻るたびに、あちこちにある擦り傷にすれて、傷つく事に慣れていない彼女の肌は酷く痛む。極めつけに、肩に打ち込まれた短刀。痛むと言うより熱かった。絶叫など凌駕して、彼女は呻き声一つ上げられなかった。 それでも、彼女は絶望などしてやるかと、歯を食いしばった。諦めた表情など、してやるものかと。 ジョアンという婚約者の話に寄れば、三人は一つの学び舎で学んだと言う。しかし、卒業後すぐ戦争が起こった。三人の祖国は敵対関係をとった。やがて、彼らは前線に立つようになった。それぞれが、そう望んで。作戦などという立派なものは存在しない。三つの勢力は、総力を挙げてぶつかるだけだ。 三人は最悪の再会を果たした。 血の匂いなど意識すらしなくなった戦場で。 それぞれの眉間に刃を突きつけて。 第一声は、一体何であったか。それは彼女は聞き及んでいない。 その話を聞いて、ただ彼女は嬉しかった。婚約者から、それこそ耳にたこができるほどに聞かされた話だ。特に、アーサーは心配なのだと。いつも他人を優先してしまいがちな彼であったから。その親友たちがこの戦場を生き延びたと言う事実が嬉しかった。 だから、彼がその戦場で彼の国の全ての兵士を動かす事のできる、最高権力者であるなど、信じがたかったのだ。それはジョアンから聞いたアーサーとは、まるで違っていたから。 今なら信じられる。そして、その理由が解ってしまった。その、笑顔で。解らずに、憎んでしまえれば楽だろうに。
あの頃とまるで変わらない笑みを浮かべた。それが、酷く懐かしく、虚しかった。 戦場の道化は、穏やかに微笑んだまま、次の一撃を放とうとした。できるはずだった。できると信じていた。けれど現実は、そう簡単にいかない。 目の前にいる女性は、何もしない。ただ、何かを悟ってしまったような瞳で、彼を見るだけだ。憐れみのようでもありまた、許しのようですらあった。血にまみれて、長い衣装の裾すら切り刻まれた彼女はしかし、優しい目をしている。まるで、聖母像のように。 戦場の道化は戦慄した。 それはまさしく恐怖であった。 アーサーと言う少年が、青年になり祖国に帰った。そこで彼が見たものは、戦線を切る口実を探す政治家たちの姿だった。アーサーはまず、親友たちの事を思った。離れ離れになり、このままでは敵対してしまうであろう、親友たちの事を。 二人の親友は、アーサーにとって太陽であり、月であり、空気であり、水であり、空であり、海であった。失う事など考えもつかぬほどに、彼らの存在はアーサーの中で大きくなっていた。それに気が付いたアーサーは愕然とし、そして奮い立った。守られるだけであった自分が、今度は二人を守って見せようと。 そうして彼は、「アーサー」と言う名の青年を殺した。
道化が何かを振り切ろうとするかのように、更なる刃を振り上げた。エリーは瞳を逸らさない。セインは尚もギラギラとした視線を道化に突き刺していた。 そこに、新たな人物が駆けつけた。黒い髪に、青い瞳。戦場には不似合いな黒ぶちの眼鏡が、殺気に溢れた彼の瞳の光を微かに和らげている。彼は、そこにいる誰とも違う白銀の甲冑を纏っていた。 雲ひとつない晴天。その下で行われている惨劇は、いっそ鮮やかに彼の眼に飛び込んできた。夜であるなら、目を覆う必要はなかっただろう。しかし、残酷な太陽は全てを彼に目の当たりにする事を課した。 「エリーっ! セインっ!」 張り上げた声は、岩壁に反射し峡谷によく響く。彼は虚ろな瞳の骸を蹴散らすように強引に馬を進めた。彼の遥か後方からは十前後の同じように騎士たちが続いていた。 「やぁ、ジョアン。早かったね」 惨劇の主催者であろう道化が、振り向く。その穏やかな笑みに、ジョアンは一瞬たじろいだ。懐かしい、親友の笑顔。 ジョアンの婚約者である、エリーの肩に刃をつきたてたまま、その懐かしい笑みを浮かべる事ができる道化の心境が理解できなかった。したくもなかった。 「アーサー。エリーに傷を付ければ、生かしておかないと言った筈だ」 怒りを抑えた、低い声。 「聞いてたから、してるんだよ」 笑いを含んだ、軽い声。 ジョアンは何も言い返さずに剣を抜いた。実際に人を切った事があるのかどうかが不安になるほど、その剣は豪奢な柄であり、そして美しい刃だった。刃こぼれの一つも、見つからない。 「皇太子殿下のお出ましに、抜き身の宝剣を拝めるなんてね。この身が大物になった錯覚を覚えてしまうよ」 戦場の道化に相応しい物言いで、それでも穏やかに笑う彼をひたと見据えながら、ジョアンは馬を下りて慎重に歩を進めた。セインの隣に立ったところで、彼の二の腕を掴み引き上げる。 「わりぃな」 「いや。そんな無様な君が見れるとは思わなかったよ。我等が恐れる隣国の聖騎士長の君の姿をね」 「うるせぇよ。敵対国の皇太后候補を命がけで守るのに、騎士団をつれてこれるか」 二人は軽口を叩いた。 剣の支えなしでは、立つ事すらままならないセインの姿。彼を強引に立たせながら、ジョアンは白銀の甲冑が彼の血に汚れるに任せた。 「確か、君の国では選挙なるもので国のトップを選ぶんじゃなかったのか?」 「軍は別各だよ。賄賂と要領と、後ほんの少しの実力があれば、誰だって総指揮官になれるんだよ」 静かに問いかけたジョアンに、戦場の道化も静かに答えた。 彼らの元に、ばらばらとジョアンの後衛を走っていた騎士たちがたどり着く。しかし、無用に介入したりはせずに、その場に息を整えながら留まった。彼らは皇太子子飼いの騎士であり、ジョアンの命令に逆らう事は決してない。 「誰だって、と言う事はないだろう」 「そうでもないよ。前の総指揮官は酷かっただろう? あれでよく、わが国が滅びなかったと感心してしまったよ」 戦場の道化は、心底感服したらしい表情をして見せた。呆れているといってもいい。そして、なんの前振りもなく、刃をぴたりとエリーの喉首に当てる。 「これで、役者が揃ったね。前置きが長かったけど、本題に入ろう」 ぎりぎりとどこかで空気が軋む音が聞こえそうなほど、雰囲気が張り詰める。殺気とも怒気ともつかぬ、けれど心地よいものではない。 「君達が軍を引いてくれるなら、彼女は開放しよう。今なら腕が一本動かなくなるだけだよ」 明日の天気でも聞くかのような、軽い物言い。 セインは目を伏せた。ジョアンも眉を寄せる。 できるわけがないのだ。たとえ戦場を動かせる立場にあろうと、戦争そのものを止める事はできない。殺し合いが悲しみを呼び、悲しみが憎しみを呼んで。終わることのない螺旋のように、人々は争い続ける。 それを終わらせようと思った。 三人の考えは始めそこにあり、そして今もそこにある。けれど、それぞれが各軍の最高権力者であるはずなのに、戦争を止めることはできない。 隣国の脅威に耐えかねた兵士たちが、流血の酸鼻を求める限りは。 「できるなら、とっくにそうしたに決まってるだろ」 セインが吐き捨てた。悔しそうな、口調で。 「できないから、戦ってるんだ。少しでも、早く戦争を終わらせるために」 「各国がそれぞれそう考えてるんだよ? そう考えて、けれど、自国の不利益は認められないから、他の国を滅ぼそうとしているんだ」 できるだけ、早く滅ぼそうとね。 戦場の道化は、やはり穏やかに微笑む。それはさながら、秋の木漏れ日のように儚げなものだった。ジョアンが、きつく眉を顰める。 「戦争は、戦場だけでやってるんじゃない。国民がそれを望むから……恨みを晴らしてくれと。だから……っ!」 皇太子であり王宮で悠々と暮らせる権利があったにもかかわらず、ジョアンは剣を取った。 騎士の家系で生まれ、騎士として育ったセインは、当然の如く戦場へ赴いた。 そして、彼の国で下級市民と呼ばれるアーサーも、こうして戦争を生業とする。 誰もが戦いたくないといった。 そう言いながら戦いを終わらせる事ができない。 戦争の火種を作った人々は亡くなって久しいのに、この業火は多少の水などものともせず、国民の悲しみと言う風に煽られ、ますます盛んに燃え上る。 「私はね、考えたんだよ。こんな狭い土地に、まるで違う価値観、宗教観を持ち、まるで違う政治系統の国が、三つもあれば戦争が起こるのは当たり前だとね」 エリーの首に刃を突きつけ、彼女の肩に刺さった刃を、戦場の道化は面白がるような表情でぬいて見せた。 ジョアンが息を呑み剣を構えようとする。それを、セインが止めた。 彼女の肩から溢れた赤い液体を横顔に受け、漆黒の衣装をますます黒く染め上げながら、それでも彼は穏やかに微笑んでいた。これで彼の正気を信じるものなどいないだろう。事実、ジョアンの連れて来た騎士の何人かが、吐き気を堪えるような表情をする。 「この狭い土地に、三つの国は多すぎる。そうは思った事がないかい?」 「ないわけ、ないだろ」 搾り出すように、セインが応えた。道化は、そうだろうね、と呟く。 「君達が考えないわけがないね。何せあの学校で、主席と次席を争った二人だからね」 微かに懐かしそうに栗色の瞳を眇めた戦場の道化。 「戦争が終わらない理由は、決着がつかないからだよ。至極簡単な事だけど気付かない人もいるんじゃないかな」 さぁ早く戦争を終わらせようよ。 戦場の道化は、また、微笑んだ。
セインは剣をきつく握り締めた。 戦場の道化の言う事は、最もだった。決着がつかないから戦争が終わらないのだ。ならば、終わらせるために決着をつけてしまえばいい。 それも、各軍の最高責任者の一存と感情に基づいて。 そんな事ができるなら、とっくにしているっ! 歯を食いしばって、セインはそう叫びだしたくなる衝動と戦った。もし、守るものがないのなら。全てを棄ててしまえるのなら彼はとっくにそうしただろう。 彼の国は、神を頂点にし、教会が位置し、教徒たちが町に住まい、それらを守るために聖騎士たちが存在する。 戦場の道化が所属する国の「民主主義」と言う文化は受け入れがたかった。更に、かの国の人々は神を信じない。相容れるわけがなかった。 セインは自問する。 国を取るのか。 友を取るのか。 考えるまでも、ない。
王家に代々伝わる宝剣を痛いほどに握り、ジョアンは前を見据えた。 決着をつける。 それだけで全てが終わる。そして、愛する婚約者も彼の手の内に戻るだろう。 けれどそれは裏切りであり背信である行為だった。 王の家に生まれれば、王となり、国民の幸せに対する責任を負う。戦を始めた彼の父は、病に臥せって長い。事実上、ジョアンが国を支えていると言っても良かった。だから、戦争を終わらせる―――それも、最悪の形で――ー事も、不可能ではないだろう。 が、臣下の顔が、彼の脳裏をよぎる。 彼を呼ぶ、国民の声が聞こえる。 皆が彼を呼ぶのだ。 勝利をもたらす最高の皇太子だと。 彼らは純粋に信じているのだ。ジョアンの率いる軍に正義があり、勝利があると。それが、正しい行為なのだと。 王家に生まれれば、国民の望みをかなえるためだけに王座に座らなければならない。 国民の望みか。 自らの望みか。 考えるまでも、ない。
短剣を用心深く握りなおして、彼はその掌にかいた汗を自覚する。 エリーを傷つけないように、細心の注意を払って、彼は彼女の首筋に刃を添え続ける。それは酷く矛盾を伴う行為で、そして、彼の集中力を必要とする行為だった。 悩むことなく結論を決めたらしいジョアンとセインを見やり、戦場の道化は小さく苦笑した。 彼ら自身が気付いていない、戦争の原因。 それは、彼らの存在。 セインの騎士団員は、セインに命すら預けて戦うだろう。 ジョアンの国民たちは、ジョアンの勝利を信じて疑わない。 セインがいるから。 ジョアンがいるから。 だからこそ、勝てるのだと。そう信じている。 彼らがいなくなれば、もしくは始めからいなければ、瞬き一つの間に軍は崩れていただろうに、彼らはその優秀さと人をひきつける存在感で、軍を存続させてしまった。そうして、彼らの戦争が始まったのだ。戦場の道化もまた、例外ではない。 この時代に三人の優秀な指揮者が、各国に一人づつと言う最悪の形で存在した。 それだけの事実が、戦争を続けさせる。 もし、セインだけなら。ジョアンだけなら。そして彼だけならば、とっくに戦争は終わっていたはずなのだ。どこかの国の、圧倒的な勝利でもって。 それぞれが、自分の国を守ろうとそれぞれに全力を注いだ。たった、それだけの事であったのに。守ろうとしているだけなのに。 戦場の道化は、悲しい溜息を密かに吐いた。エリーの視線に、気付かぬ振りをして。
「答えは決まったかい?」 戦場の道化は眉を上げてどこか楽しそうに、そう聞いた。場違いであるはずのその穏やかな声は、セインとジョアンの二人の結論を揺るがぬものにする。 「君はオレの友人だ。多分、一生な。だから、他の誰かが君を殺す前にオレが殺してやる」 セインはそっとジョアンから離れて立った。少しぐらついたが、持ち前の負けん気と平行感覚で持ち直す。 「エリー、君を愛してる。だけど、俺は守らなくてはならないものがある。たとえ、俺自身を犠牲にしても」 ジョアンは、万感を込めてもう一度、エリーに愛していると囁いた。そして、瞳を上げる。青い瞳は、眼鏡越しに親友を見据えた。 「君が俺の国を脅かし、俺の国民の幸せを壊すと言うなら、俺はこの手で君を屠ろう」 ジョアンが剣を構えた。 セインも、剣を構えた。 二人に相対し、戦場の道化はやれやれと肩を竦めて、多少大げさな仕種で嘆いてみせる。 「相変わらず、融通の利かない性格だね」 二人が同時に踏み込む。血を吸った赤い砂利を抉るようにして飛び出してくる二本の刃を、戦場の道化は一歩も動かずに、両手に構えた短剣で受け流した。 「お互い様だっ!」 セインが流された剣を一度退き、胴体への刺突に切り替える。同時に、ジョアンは更に踏み込んで、逆手に持ち替えた剣でがら空きの背後を狙った。 どちらも、殺意に満ちたものだった。 けれど、二人は思っていたのだ。 これくらい避けられるはずだと。 何度も剣を交えた事がある。相手の実力ぐらいわかっている。だから、その相手の軌道まで計算して次の攻撃を考えていた。 肉を抉る感触。 もう慣れてしまっていたそれが、酷く鮮明に感じられた。
「アーサー!?」 自分の手に滴ってくる赤い雫。斜めに突き入れた刃はそのまま、彼の体を貫通していた。殺す気だった。間違いない。なのに。 「おい、アーサーっ!? ちょっ……ちゃんと避けろよ!」 場違いな台詞が、彼の喉を滑る。 神に祈りを捧げるように、両手で握った剣は晴れ過ぎた空に真っ直ぐと捧げられていた。その事が、冗談のように感じられ、セインは自分がした事に気が付いた。 殺したのだ。 親友を。 信じていたのではなかったのか。 そんな思いが、セインの頭を占める。殺す気だった。誰かに殺されるなら、いっそここで自分が息の根をとめてやろうと思った。戦場の道化なんていうわけのわからないものではなく、自分の親友として殺してやろうと思った。 そう、思っていた。
ちゃんと避けろよ。 それはジョアンも同時に叫びたかった言葉だ。彼の実力をもってすれば、簡単にさけられたはずだ。だが、彼は動かなかった。 ジョアンの宝剣と、セインの欠けた刃が交差している。一つの体を貫通して。 「冗談だろ?」 口を突いて出た言葉は、そんなもの。 けれど、手に伝ってくる血の熱さは間違いなく鮮血で。 ジョアンはもう一度口の中で、冗談だろと繰り返した。そうでも思わないと、今にも崩れ落ちそうだった。 殺したのだ。 親友を。 その認識を新たにして、ジョアンは自分の手を見下ろした。赤く染まったそれは、もう何も知らなかったあの頃には戻れないと、明確に示していた。三人で笑いあったあの頃には、どう足掻いても戻れないのだと。 何を犠牲にしても、国を守らなくてはならないと思っていた。 親友たちの立場上、彼らもその犠牲になるかもしれないとも、思っていた。 そう、思っていた。
「上手く、いったかな」 戦場の道化は―――否、アーサーは小さく笑った。肉を切り裂く、冷たい刃を感じ、ついでその場所は燃えるように熱い。けれど、アーサーにはもう、そんな事はどうでもよかった。 刃をつきたてたまま、凍りついたように動かなくなってしまった親友たちに、彼はそう言った。笑っていった。 この場所には、三つの国は多すぎる。そして、王制を敷くジョアンの国と、神を絶対とするセインの属する宗教国家。この二つは、共存の道があるかもしれない。けれど、民主主義を掲げ、王制を古いと謗り、神への信仰を失った彼の祖国は、異端であった。 アーサーは痛いほどにそれを感じていた。王への忠誠心もなく、神への愛を忘れて、個人の私利私欲のためだけに生活する人々の社会は、あまりに醜いのだから。 それより何より、アーサーには守るべきものなど、一つしかなかった。国に縛られた彼の親友たちとは違う。だから、この選択ができるのは自分だけなのだ。 だから、アーサーは決めたのだ。 誰にも言わずに独りで決めた。 それを裏切りと呼ぶのなら、あえてその汚辱にまみれてもよいと。 そう、思っていた。
「何言ってんだよ? どう見たって避け損なってんじゃねぇか」 怒ったような泣きそうな声で、セインが言う。 そのセインの、いまだ剣を離せずにいる手にアーサーはそっと触れた。 「君達は協力して、戦場の道化を殺した。皇太子と、聖騎士団長が協力し合って、戦場の道化という、総指揮官を殺したんだ」 アーサーは言い聞かせるように、そう言った。瞬間、二人の顔に理解が広がった。 アーサーの一人で決めた事。それは、彼の国を滅ぼす事。それも、他の二つの国が協力し合ったと言う形で。そうすれば、戦争は一応決着がついた状況になる。彼らの国の人々は気が付くだろう。協力していく事ができるのだと。後は、ジョアンとセインの手腕の見せ所だが、その辺については心配ないと、アーサーは考えていた。 「セイン、もう、剣は必要ないんじゃないかな?」 そう、アーサーは囁く。セインは言われるままに、剣を手放した。同時に、ジョアンもその手を離す。二振りに剣に支えられていたアーサーは、微かな笑みを貼り付けたまま崩れ落ちた。 「アーサーっ!」 二人が慌てて親友に手を伸ばす。が、その手をアーサーは鋭い視線だけで黙殺した。 「わが国は滅ぶ。戦勝国の責任者である貴殿方に、全ての采配を委ねよう」 アーサーは、凛と前を見据えて言った。その声に。その姿に。その瞳に宿る光に。セインとジョアンは自然、姿勢を正した。 「貴殿のその言葉、確かに承った。まずは、領土の回復に努めるが、敗戦国たる貴殿の国をも、回復する事に努めると明言する」 「我が騎士団は、治安の回復に努めよう。神が等しく人を愛するように、我々も等しく力無き者を守ろう」 二人は一拍置いて、同時に言った。 『我等は協力の下、全ての人々の幸せに全力を尽くす』 「その言、信ずるに値する証拠は」 ジョアンは、右手を握り締め、胸に当てた。 「我が王家の威信にかけて誓う」 セインは服の下から取り出した十字架を握った。 「神の恩名と我が右手にかけて、誓う」 その、神聖な儀式をようやく開放されたエリーが静かに見守っていた。アーサーが刃を離した時点で、ジョアンの連れて来た騎士たちによって自由の身を取り戻したのだ。 彼女は何も言わずに見守っていた。 それが、自分にできる最良の事だとでも言いたげに。 「感謝する」 呟いたアーサーが、咳き込んだ。苦しげに歪められた眉。口の端から、血が流れ落ちた。 「アーサーっ!」 もう一度差し伸べられた手は、拒まれなかった。支えるために腕を伸ばした親友に、アーサーは微笑んだ。 「国が滅ぶって、一体どういう……?」 その笑みに、ジョアンが尋ねる。アーサーを支えて跪いているセインの隣に跪き、ジョアンはアーサーの、晴れ晴れとした笑みを覗き込んだ。 「私がいなくなると、国の体制が立て直せなくしておいた……これで、半年はまともな攻勢などできないだろうね……それでも…君達なら…」 半年。 それは戦争をするには、少し短い期間だった。しかし。 「それだけあれば、十分だ」 ジョアンは、しっかりと頷いた。 「あぁ。オレと、ジョアンが組むんだぜ? 二週間だっていらねぇよ」 セインは、不敵に笑む。獰猛な猛禽が牙をむいたような、そんな印象を抱かせる好戦的なそれ。 「オレたちの軍で君の国を囲んで、降伏勧告をする。無駄な血は流さない」 アーサーはセインのその言葉に、ゆっくりと頷いた。 「こんなに上手く行くなんてね……少し準備に時間がかかったのと……エリーに、傷を……」 「もういい喋るな」 そうは言ってみたセインだが、もう手の施しようがない。剣を抜く事すら、できないでいる。 「エリーは、解ってくれてるさ。何せ、俺が惚れた女だからな」 そうだね、と少し笑おうとし、アーサーはまた血を吐く。真っ赤なそれが、彼の手を染め上げた。 「私は、一体どれくらいの……血で……この手を染めてきたんだろう……」 誰もが守るために戦った。たったそれだけだというのに。 「あなた、始めからこうするつもりだったのね」 おぼつかない足取りで、エリーが三人に歩み寄る。
エリーは、初めて彼の笑みを見た時に、気が付いたのだ。 アーサーが笑えたのは、全てを吹っ切っていたからだと。そして、全てを任せる事のできる親友を持てた事が、幸せだったから。 そう、解ってしまった。 だから、エリーは何も言えなくなった。 黙って事の成り行きを見守る事しかできなかった。 大声で叫びだしてやろうかと何度も思ったのに。 細心の注意を払って突きつけられる刃を見ていると、自分が何を言っても無駄なのだと悟ってしまった。何を言っても、どんな言葉を重ねても。 アーサーは決意を翻したりしない。 優しげな容貌とは裏腹に、アーサーは頑固だと言っていたジョアンの声が思い返された。 その瞬間、エリーは決めたのだ。 全てを見守ろうと。 決して瞳をそらす事なく、平和の礎となって消えていく事を決めた青年を、少しでも脳裏に焼き付けようと。
「一人だけ、消えてしまうつもりだったのね」 「エリー?」 肩の傷に手を当てて、指先から滴る鮮血で白い衣装を深紅に染め上げながら、エリーは三人の前に立つ。ジョアンな心配そうに彼女に手を差し伸べたが、彼女はそれを無視した。 「馬鹿にしないでっ!」 ぱしっと、小気味よい音が岩壁に反響して空へと上っていく。 思わず頬に手を当てたのは、セインとジョアンだ。口を挟む機会を見つけられず、二人はただ、女傑の言動を見やる。 「許してくれとは、言わないよ……」 叩かれた頬を抑える力もない様子のアーサーは、けれど晴れ晴れと笑んでいる。それに向かい、もう一度手を振り上げたエリーを、ジョアンが慌てて止めた。 「エリー?」 細い手首を握られ、もう一度殴る事が敵わなくなったエリーは、アーサーを睨みつける。さながら修羅のような形相に、セインが退いた。賢明な選択である。 「馬鹿にしないでと言ってるでしょう! 誰がこんな傷の話をしてるって言ったの! 私が言いたいのは、あなたのその態度! 何、一人だけ幸せになってるのよ! あなた、自分がいないと幸せになれない人がいる事に、どうして気付かないの! どうしてそんな無神経な事をするの! 残されたジョアンやセインの事を考えなさい!」 立て板に水、とはこの事かと実感してしまうほど、エリーは次から次へと言葉を紡ぐ。どれもこれもアーサーを非難しているのもだ。が、当のアーサーは、淡く微笑んでそれらを受け入れた。 「ごめんね、エリー。それからジョアン……君の婚約者を泣かせてしまったみたいだ……」 エリーは泣いていた。 子供のように、ぼろぼろと大粒の涙を零している。恥も外聞も関係ない、泣き方。 その彼女を、ジョアンが壊れ物を扱うように抱きしめた。 「伊達に、ジョアンの婚約者じゃないんだな」 事の成り行きについていけていなかったセインが、ようやく我を取り戻してそう呟く。苦笑を刻んだまま、ジョアンが頷いた。 「時々俺も、こうやって怒られる」 「あー、ご馳走様。他所でやってろ」 苦笑どころか、幸せそうに微笑むジョアンを放っておく事にしたらしいセインは、アーサーに向き直った。瀕死の状況である事を、忘れさせるような穏やかな笑み。 「幸せか?」 「うん。これ以上なく」 頷いた、その言葉に嘘偽りなし。その場にいた全員がそう感じた。晴れ晴れとしたアーサーの姿には、悲壮感の欠片もない。 「自分の国を滅ぼして……親友に殺されて………こんなに幸せで……いいのかな?」 先に逝くよ。 アーサーは変わらない笑みでそう囁いた。 セインは、しっかりと頷く。 ジョアンも、笑みを消すことなく頷く。 それは、再会の約束だったから。 「神よ。我が親友の魂に安らぎあれ。それから……次にあった時は、美味い酒でも一緒に飲めるように配慮願いたい」 真面目腐って言うセインに、ジョアンは笑った。 けれど、もう、アーサーが笑う事はなかった。 エリーが小さく「馬鹿みたい」と呟き、セインが憮然とした顔をする。 けれど、アーサーが返事を返す事はない。 それでも、三人は暫くそこで、くだらない会話を続けた。 誰の頬にも涙が流れていたが、誰の唇にも笑みが浮かんでいた。 それは奇妙な光景であった。
最後の戦いが終り、三つの国は二つになった。数年も立たないうちに、二つの国は平和合併を果たし、国は一つだけになった。 その国を治めた王の治世で、それ以降戦乱は起こらなかった。 彼の死後、国王の寝室にかけられた絵が、見つかった。それは、青年であった王と、その王妃と、形だけになってしまっていた聖騎士団団長と、それから、誰も見た事がない青年が、笑顔で描かれていた。 全ては、狭いが豊かな土地で起こった、戦乱の一幕。
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