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クリエイター名  泉河沙奈
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ある裏舞台にて。


「カーット。お疲れさまー」
 晴天に少し低い女性の声が響いた。辺り一面に張り詰めていた空気がほっと緩む。大きな安堵の溜息があちこちから聞こえ、「お疲れー」と声が上る。
 サラリーマンには夢を見る事すらできなさそうな値段であろう、巨大で本格的なカメラが計四台配されており、一つの場所を様々な角度から写している。効果的に配置されたレフ版。照明。そして。
「上のヘリにも終わって伝えてくれる?」
「はーい」
 言うなり、誰かが携帯電話で連絡を始める。
「うん、そう。お疲れ。うん。じゃぁよろしくね」
「なんて?」
「ヘリを降ろせるのがこの辺にはないらしくて。先に帰って飛行機のほうを整えておくとの事です」
 報告を聞いた女性―――まだ、少女と呼べる年頃だ―――は、満足げに頷いた。短くそろえた黒い髪は艶やかで柔らか。繊細に整えられたその美貌を引き立てる黒い瞳は、まるで最高級の黒水晶のように透明感があり、神秘的である。
「あー、終わった……」
 精魂共に底まで涸れ果てたような声が、カメラ諸々に囲まれた中心で上った。屍がいくつか配置されたそこには、四人が酷く奇妙な姿でいた。
 一人は黒い燕尾服を着て、黒のシルクハット。優しげな容貌で切れ長の瞳は穏やかだ。が、彼は二本の剣に突き刺された状況。
 一人は場違いなほど豪奢な甲冑を着ている。黒い髪は少し乱れ気味で、青い瞳にはどこか尊大な光を称えていた。彼が抱きしめているのは、燃えるような赤い髪を背中まで伸ばした少女。彼女は裾をズタズタにされた白いドレスを着ている。新緑色の瞳が、ウンザリしていた。
 もう一人は、やはり甲冑を着ているが行儀悪く脱ぎ捨てており、絹糸のような黒髪を乱れさせていた。印象的な二重瞼の瞳は、綺麗な黒である。
 いずれも、時代錯誤もいいところである。更に、彼らは血まみれであった。
「お疲れ」
 辺りで片づけが始まっている中で、四人は動き出す気配もない。どうやら、かなり参っているらしかった。
 一人の影が近づいてくるのを認識したらしい黒髪に黒い瞳の少年は、ようやく顔を上げた。先ほどの声を上げたのも彼だ。
「これでもう終りだよな、十文字」
 つい先ほどまで、セインという名の騎士を演じていた彼は、ようやく十代後半らしい相応の顔をする。それは肩の荷が下りたと言う、すっきりした顔だった。
 その彼の横を、十文字と呼ばれた少女はあっさりと通り過ぎた。
「いい演技だったよ。小百合」
 そして、赤い髪の少女に微笑む。女性であれば誰でも頬を染めて俯いてしまいそうなほど、魅力的な笑み。重要な所は、女性であれば、と言う点である。
「ありがと。で?」
「向こうにシャワーと着替えの準備がしてあるよ」
 そう、と小百合は微笑む。なんとも可愛らしい笑みだったが、その態度はどこか偉そうでもあった。二人は「オレは無視かよ、おい」と呟いた少年など露ほども気にしない。
「という訳なの。さっさとこの腕を解いてくれるかしら? 肇君」
「んー、後ちょっと」
 肇、と呼ばれた少年は、尚も腕に力を込めて小百合を抱き寄せる。が。
「さっさと小百合を放してくれないかな? 万年片思い君」
 ぴきぃっと雰囲気が凍る。それを無視して、二本の剣が貫通した姿で、もう一人の少年がのんびりと立ち上がった。
「高貴、これ取るの手伝ってくれない? ちょっと動きにくくてさ」
 その姿だけ見ればちょっと動きにくいどころではないのだが、実は二本の剣は脇にはさんであるだけだったりする。一応リアリティーを求めて、服は貫いているため動きにくい事この上ないのだ。
「解った、一郎」
 黒髪で黒い瞳の高貴は、諦めたように溜息をつく。実際、彼女に無視されたのは初めてではないし、雰囲気を読まない―――読んでいても気にしない―――いや寧ろ、壊す事を生きがいにしているような親友の言動にも、彼は慣れていた。ただの一度も、慣れたいと思った事はないだろうが。
「あーあぁ、随分な格好だよねぇ。皆もお疲れー」
 血糊でべったりの自身を見下ろしながら、一郎はやはりのんきな声で言った。相手は周りで無造作に転がされている屍、と言う演技をしていた少年たち。それぞれ、剣が刺さったり折れた弓矢が刺さったり、といずれも酷い格好であった。
「寝転がってるだけ、って言うのも、結構しんどい」
「でもいいじゃねぇかよ。台詞もないし」
 そうだなー、とあたりは和やかになる。しかし。
「小百合は疲れてるんだよ。それすら察せない朴念仁が、一体何を望んでるのかな?」
 大した力を込めたとも思えないが、肇の腕はあっさりと解除させられた。その隙にさっさと小百合はシャワーへ向かってしまう。
「シャワーの後には、飲み物を用意しておくよ」
「玉露入りの緑茶じゃないと飲まないから。言うまでもないと思うけど、ちゃんと冷やしといてよね」
 血糊って肌が荒れそう! と文句を言いながら、彼女はシャワー設備の車の中へと消えていった。その姿を、妙に哀愁のある姿で肇が見送る。伸ばしかけて途中で諦めたらしい手が、哀れでもある。その手をきゅっと拳にして、彼は果敢に十文字に向き直った。
「おい。前々から君に言いたい事があったんだ」
「あたしはないよ?」
「俺はあるんだ」
 額から血を流し、太陽に眩しい白銀の鎧は、尊大な瞳をする彼には良く似合う。だが、今はジョアンを演じていた威厳の欠片も、彼からは見つからない。
「小百合は、俺の女だ。近寄るな」
 声は、小さかった。すぐ傍にいた高貴にやっと聞こえるかどうか、と言った所だ。しかも、語尾が震えて消えている。理由は彼女に聞かれたら、顔面に膝蹴りの上に鳩尾に肘鉄を決められて、挙句社会的に抹殺されるからだろう。
 高貴からすれば、それは口にするだけでも賞賛に値する勇気であった。
「本人のいないところでしかできない、そんな小さな声の所有宣言なんて、無意味に近いよ」
 が、十文字は鼻で笑った。
「そう言う事を言いたいのなら、ちゃんと印をつけとくんだね。『俺の』って」
 そして、首筋を人差し指でトントンと叩いてみせる。何も言えない肇に背を向け、余裕の笑みの十文字はその場を優雅に退場。
「前々から思ってたけど」
 くっ……と握りこぶしで屈辱を耐えている肇の肩に、とん、と拳を当てて一郎は穏やかに微笑んだ。その姿は戦場の道化こと、アーサーに被る。だがしかし。
「肇、情けないよ」
 かける言葉は優しさの欠片もなく、友情のために全てを棄てた彼と共通点など見つかろうはずもなかった。
「奪われたら殺してでも奪い返せ。基本でしょ」
 穏やかな声で物騒な事を吹き込む一郎。
「奪われるも何も、肇のものでもないような……」
「ほほう? そんなに俺に殺されたいのか? なら、遠慮はしない」
 肇は笑った。
 熱帯夜に気紛れに吹く、一陣の風のように爽やかに。
「って、待て! その目はマジだぞ!? つーか、一郎の方が明らかにえぐい事言ってるだろ!?」
 大きく一歩退き、ファイティングポーズをとっていい募る高貴の言葉に、肇と一郎が顔を見合わせる。そして、頷きあった。
「君に言われるとむかつくと言う方向で、話は決まった」
「おい、何も言ってなかっただろ!?」
「以心伝心だよ」
 胸で掌を交差させて言うその姿は、確かに一郎の容姿には似合っているだろう。
「似合わねぇよそれ! 寒気するぞ、おい!」
「酷いな。親友に対してそんな事言うなんて。肇。やっちゃって」
「酷いのはどっちだ! 親友に対して親友をけしかける奴の方が、酷いだろ! 明らかに!」
 そう? 一郎は穏やかに微笑んだ。似合う。客観的に見れば。こんなとき、高貴はいつも親友の定義について考えてしまうのだが、今日はそんな気力もなかった。ついでに、売られた喧嘩を買う気にもならない。
「って、やめやめ。そんな気にならねぇ」
「残念」
 怒鳴りまくった所為で痛む喉に、何か水分を補給しようと高貴は片づけをする人々の間を歩く。皆、高貴と同い年位の―――同学年の少年少女たちだ。
「そうだな。グランドキャニオンにまで来て、こんなくだらない事をする必要もないな」
 肇が少し疲れたように遠い空を仰いで言った。彼らはグランドキャニオンにいた。
 それも底の方の、峡谷と呼ばれる場所で。

 事の発端は高校生活最後の文化祭であった。酔狂で性格のどこか歪んだ生徒ばかりが集まっている彼らのクラスでは、責任者をあみだくじで決めようと言う話になった。模造紙十二枚にも及ぶ、壮大なくじの製作だけで一週間を費やしたのはいい思い出であろう。
 ともかく、そのくじで見事責任者になりおおせたのは、十文字と言う女生徒であった。彼女は、言った。
『他のクラスと同じような事をするのはつまらないと思わないかい? 折角の最後の文化祭だよ? 派手に行こうじゃないか』
 誰かが、『具体的には?』と尋ねた。彼女は変わらない微笑を湛えていた。
『映画を作ろう』
 クラス中のリアクションは綺麗に二つに分かれた。雄たけびを上げて合意する生徒たちと、机に突っ伏して世を呪う生徒たちに。
 十文字とは、世界的に有名な映画監督の娘である。アカデミー賞は逃しているものの、毎年ノミネートされるのが既に恒例とかし、もう世間も騒がなくなって久しい。そしてその娘は、父と同じ道を進むべく勉強中でもあった。その彼女が『映画を作ろう』と言ったのだ。生半可なものは作らないだろう。役者にされる生徒たちは、さぞ高レベルな演技を求められるに違いない。
 そして、一学期当初から始めていた映画撮影は、この夏休みの終りを目前にして、遂に終了した。後は編集作業だけであり、役者たちは地獄のスケジュールから開放される事になる。
 最後のシーンの撮影はグランドキャニオンで、と言われたときは、それぞれスケジュール表を必死で覗き込んだものだが、今ではやはりいい思い出というべきなのだろう。


「茶ぁくれ、茶」
「あ、うん、ちょっと待ってねー」
 高貴が血糊を拭いながら休憩用の椅子に歩み寄ると、クラスメイトがテキパキと三人分のお茶を出してくれた。ペットボトルに入った麦茶である。
「あー、死ぬかと思った……」
 それは万感の篭った呟きであった。
「あぁ、何度かな。さすがにグランドキャニオンに日帰りと言われたときには目の前が暗くなった」
 肇も、遠い目で応える。一郎はにこにこと準備されたお茶を飲む。何せ血を吐く演技で口の中は血糊だらけだ。さっさと口をゆすぎたいのも無理はない。
「後の問題は夏休みの宿題だけだな」
「読書感想文以外は全部終わらせた」
「えぇ!?」
 高貴は思わずペットボトルを取り落としそうになる。あの秒刻みの激ハードスケジュールのどこに、そんな暇があったというのだろうか。
 その高貴の驚きを満足そうに見ながら、肇は肩を竦めた。
「睡眠時間を削っただけだ」
「オレは睡眠時間を削ってまで勉強しようとは思わん」
 というか、毎日の睡眠は半ば気絶するように行われていたので、したくてもできなかっただろうが。
「一郎は?」
「僕? 僕は夏休みが始まる前に終わらせたから」
 さも当たり前のように言う一郎に高貴は二の句が継げずにいる。変わりに肇が尋ねた。
「夏休み前?」
「そう。夏休みの宿題って大体予想がつくでしょう? やってないワークとか、読書感想文に自由研究。その辺終わらせとけば、後は、テスト期間に終わらせれるよ」
 テスト勉強をしろ、と言う言葉は彼らには当てはまらない。何せ彼ら三人がこの学年のトップスリーなのだから。
「そうかよ……」
 何だか自分だけサボっていたような錯覚を覚え、高貴は憮然となる。良く考えれば比較の相手を間違っているだけなのだが。
「偉いわね。ちゃんと宿題するの?」
 その三人に上から声がかけられる。どうやらシャワーを終え着替えを済ませたらしい、小百合である。赤い髪のウィッグを外した彼女は、重さを感じさせない亜麻色の髪。緑の瞳はカラーコンタクトだったらしく、今の彼女の瞳は日本人らしい茶色だった。それでも彼女は美人である。
「いや、するもんだろ? 宿題って」
「どうして? やらなくたっていいじゃない」
 さも当然のように言われて、高貴は自分の価値観が揺れるのを感じる。
「あんなもの、先生に金を握らせれば終わるものよ」
小百合は綺麗に微笑んだ。硬派で有名な高貴でさえ見ほれてしまいそうなほど。
「ってちょい待て! それって問題発言だぞ!?」
 高貴は慌てて立ち上がった。そして他の面々を見やる。
「そう?」
「そうか?」
「そうなの?」
 三人は一様に首を傾げている。ちょっと待て、と彼はもう一度胸中で叫びを上げた。自分は正しい。間違ってなどいない。そう言い聞かせる事で、なんとか心の平安を保とうとする。
 が、しかし。
「あたしも今年はやってないな」
 十文字が参戦。彼女は何気なく小百合に近寄り、そっとまだ湿気ている亜麻色の髪を手に取った。
「きっちり乾かさないと駄目だよ」
「だって、面倒だもの」
 相変わらずだね、と十文字は小さく笑って。
「おいで、やってあげるよ」
 片手を取り、もう片手はさりげなく小百合の腰へ。そのナチュラルなエスコート振りはいっそ見事であった。
「って、待て」
 それを呆気に取られて見守っていた肇が、ようやく我を取り戻して立ち上がる。
「何かな?」
「俺が、やる」
「冗談は休み休み言ってくれるかい? 君は他人の髪を乾かした事があるのかな?」
 う、と肇は言いよどむ。彼の実家は世界屈指の純利益を誇る車メーカーであり、最近はナサにも投資をしていると言う、空恐ろしい規模の会社である。御曹司である肇が、そのような事をするはずもない。が、あえてそれを言い募った彼の心情は察して余りある。
 十文字と肇が睨みあう。晴天が突然陰り、二人の周りには青い電撃が見えるようだ。
「誰も行かないから、僕が先にシャワーを貰うよ?」
 そこに、やはりのんびりと一郎が声をかけた。疑問系でありながら、既に車に向かっているところを見ると彼の中では決定事項らしい。一気にその場の雰囲気が緩む。思わず息を詰めていた高貴は、恐る恐る息を吐いた。
「行って来いよ」
 親友の背中にそう声をかけ、彼は崩れるように椅子に座り込む。よく考えれば高貴は今疲労の際に見にあるはずだ。テンションが上っているから解りにくいが。ともかく休む事が必要だ、と高貴は思う。
「お前らも勝手にやっとけ」
 少し寝よう、と彼は机に突っ伏そうとし―――その場の全員の視線が自分に集まっている事に気が付いた。
「なんだよ?」
「いや? 宿題も終わってないくせに優雅な事だと思ってね」
 一番最初に口を切ったのは肇だった。口調に含まれる嫌味に、高貴はカチンと来る。
「今持ってねぇし。第一お前には関係ないだろ」
「あるとも。夏休みに宿題をしないような友人を持っていると父に知られたら、俺がお叱りを受ける」
 普段ならそんなもの歯牙にもかけないくせに、真面目腐って肇は言う。大仰に空まで仰いで見せて。疲れている高貴は、そんな彼の仕種が一々癇に障る。当然肇がそれを解っていてやっていると知っているのだが、歯止めにはならない。
「で? お前はなんだよ、十文字」
 小ばかにしたような目で見てくる十文字に、高貴は不穏な瞳を向けた。
「別に? ただちょっと、満足に台詞も読めず、カラコンは嫌だとかかつらはごめんだとか、散々我侭を言ったくせに、随分と偉そうだと思ってね」
 君のために、何度台本を書き換えたか、と彼女はやれやれとでも言いたげに肩を竦めた。それらは最もであったが、今わざわざ言わなくてはならない事でもない。
 疲れを自覚し始めた高貴は、不機嫌度が目に見えて上昇する。しかし、それを気に留めるような可愛らしい神経をした人間など、ここにはいない。
「なんだよ、お前ら。散々無視したくせに、こっちから無視されるのは気に入らないってか?」
 はっ、と鼻で笑って高貴は言い捨てた。剣呑な光を宿す黒い瞳は、眇められて殺意すらある。
「その通りだ。俺が無視するのは当たり前だが、君ごときに無視されるのは、俺のプライドが許るさん」
「極論で言えば、あたしも肇君と同意見だね」
 あっさりと肯定する、男と女。性別の違いこそあれ、二人の瞳にある全世界を睥睨しそうな光は、よく似通っていた。さらに爽やかに笑って見せる辺り、性格も良く似ているのかもしれない。本人たちに言えば、ありとあらゆる言葉を尽くして否定して見せるだろうが。
 高貴は二人を見て、更に苛々とする。
 疲れているのだ。目は霞むし、貧血か寝不足かは知らないが頭がくらくらする。時々目の前が真っ暗になるし、吐き気も止まらない。そんな自分が、何故こうも我侭な奴等に付き合ってやらねばならないのか。
「お前らの事情なんて知るか」
 高貴はもう一度机に突っ伏した。すると。
 机を引っ張られた。
「だぁっ!」
 すがる物のなくなった高貴の体は、自然前のめりになり、踏ん張る力もなく椅子から転げ落ちる。辺りから失笑するのが聞こえた。
 小学生でも幼稚だと解る悪戯だ。が、それは幼稚で稚拙であるからこそ、やられたほうの羞恥心を煽る。
 高貴は、ぶち、と自分のどこかで音がしたのを聞いた。
「そんなに死にたいか?」
 低く呟いた声は、現実味が薄いほどに殺意に満ちている。すぅっと辺りの温度が下がるほどに、彼の黒い瞳は本気だった。
「高貴?」
 肇が、やりすぎた事に気がつく。どうやら彼も相当疲れが溜まっているらしい。普段は間違えるはずのない加減を、どうやら誤ったらしかった。
「いいぜ。その喧嘩、言い値で買ったらぁ!!」
 高貴が吼えた。自分が座っていた椅子を蹴り飛ばし、静かにファイティングポーズをとる。空手と柔道と合気道に剣道を齧り、喧嘩殺法として鍛えてきた彼は、更に場慣れをしている。据わった目は高貴が本気だと肇に悟らせた。
「ふ……上等だっ!」
 肇は自分で引いた机をやはり蹴り飛ばし、場所を空ける。無防備に立ったままだが、それが彼の臨戦態勢だった。見るものが見れば、それは剣を持たぬ剣士の構えに似ていると解るだろう。居合いを極めた肇には、剣などなくても喧嘩ぐらいお手の物。
 かなり本気で向き合った二人から守るように、十文字は小百合を背に庇う。
 一触即発。
 そんな言葉が彼らを覆った。周りで片付けに従事していたクラスメイトたちも、常ならぬ彼らの様子に好奇の目を向けている。いつでも喧嘩一歩手前のじゃれあいをしているが、決して喧嘩にはならないのが彼らの彼らたるゆえんであったからだ。
 先に動いたのはどちらであったか。そんな事は重要ではなかった。どちらが先に拳を叩きこみ、地に平伏させるか。その凄まじいまでの殺意をもって二人が一歩踏み出した瞬間―――
「ごめーん、バスタオルない? 持って入るの忘れちゃって」
 どこまでも、のんきな声が響いた。濡れた髪を煩わしげにかきあげ、上半身だけを車の窓から覗かせて、どうにも食えない笑みで一郎が言う。
「いちろぉぉ……」
 見事なまでに出鼻を挫かれ、二人は体制を崩した。やる気が失せたといっても過言ではない。
「あれ? どうかした?」
 まるで空気が読めないような顔をしながら、一郎は小さく場の中心の二人に目配せをよこす。その様子に、高貴と肇は目を見合わせた。それから、肩を竦めて笑い出す。
「かなわねぇな」
「不本意ながら、肯定だ」
 急に穏やかになった二人の雰囲気に、周りは「ちぇー、おもしろくねぇの」と言いたげな目をやりながら仕事に戻っていく。更にそれに肩を竦めて、高貴は二人の少女を見やった。
「悪かったな。ちょっと気が立ってて」
「あら? 私は全然構わないわよ。殺しあってくれても」
 照れたように笑った高貴が固まる。殺しあうってなんだ、殺しあうって。
「あの、小百合さん? それって犯罪だと思うんですけど?」
 喧嘩が犯罪にならないかといえば微妙なラインだが、殺し合いは間違いなく犯罪である。考えるまでもない事だが、高貴は一瞬真面目に考え込んでしまった。
「犯罪だと問題があるの?」
 宿題のときと同様。彼女はさも不思議そうに聞いてくる。
「いや、あるだろ。当事者じゃなくても色々警察とか調べに来るだろうし、文化祭どころじゃなくなるぞ」
 煩わしいのが嫌いな彼女に、高貴は控えめに突っ込んでみた。すると。
「私は大丈夫。パパと叔父様が何とかしてくれるもの」
 にっこりと。文部省大臣を父に持ち、前総理を叔父に持つ少女は、花の如く笑って見せた。
高貴はまたも常識が崩れる音を聞く。最後の希望を持って肇を振り向くが。
「俺も大丈夫だろうな。警察の天下り先にうちの子会社をいくつか提供してるから」
 あっさりと普段のモードに戻った肇は、思慮するような表情で淡々と言う。その内容は真面目に人生を生きる人々からは、到底想像もできないようなものであった。
 絶句する高貴に、小百合は更に爆弾を投下する。
「私の国民の血税で作られたこの美貌を汚す事がないなら、何をしてくれてもかまわないわ。面白ければ尚良しね」
 確かに、父親の収入は国民の血税で支払われているのだから、間違いはないだろうが。可愛らしく笑って言うのだから空恐ろしい。高貴は一応、十文字にも無言の質問を向けた。
彼女は少しだけ悩むような仕種をしてから。
「金をつかませて黙らせるかな」
 そう言った。信託の如く厳かに。
 常識ってなんだろう。
 高貴の頭の中を疑問符が駆け巡る。
「どうかしたの?」
 後ろからかけられた声に、高貴はほっとした。ようやく自分の常識が通用する相手が現れたと思ったのだ。タオルを肩にかけて、普段は括ったままの髪を解いた姿の一郎は、そんな高貴の姿に首を傾げる。
「いや、なに。殺し合いをするのは問題かどうか、と言う話をしていたんだ」
 肇が椅子やら机やらを直しながら言う。
「話をするまでもないだろ。問題に決まってるよな」
 そうだよな、と高貴は一人で納得した。うんうんと頷いている高貴に一郎はふんわりと微笑んで。
「少なくとも、僕は問題じゃないよ? 僕を敵に回すような愚か者は、政治家になんかなれないし、警察でも出世なんかできないからね」
 言い放った。日本銀行すらも手中に収めつつあるといわれている、金融財閥の頂点に立つ男の養子として育った少年は、無邪気とも言える笑みで笑う。
 あぁ。
 高貴は、自分の正しさが良く解らなくなってきた。
 彼の保護者は弁護士である。業界では屈指の問題児として有名な、自称「正義派弁護士」だ。仕事を断った事数知れず。国の要人からは嫌われて久しい。
 が、彼が法廷に立って負けた事は一度もない。
 そんな法律の擁護者である保護者の下で育った高貴は、世間の悪と言うものにかなり厳しい目を向けていた。が。
「金で買収できな法律なんてないしね」
 とはクラスメイト。
「そうだな。まぁ、できないなら社会的に抹殺するだけだけどな」
 とは親友。
「こういうとき、国家権力が自分の手元にあると便利よね」
 とは親友の恋人。
「ま、あるものは有利になるよう、より効果的に使わせてもらうだけだよ」
 とは親友。
 彼は今日もまた、親友の定義と、自らの正しさについて考えるのだった。
「シャワー浴びよ……」
「え? もう肇が先に行ったよ?」
 空が、青い。
 
 
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