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クリエイター名  辻内弥里
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■やや和風・情感・自然物と心情を重ねる書き方(納品物はこの傾向のものが多いと思います)

 寂れた終着駅で街へ戻る列車を見送り、道なき道を山へ分け入る。身の丈に生い茂る熊笹を払い除けながら、ほか人にはそれと判らぬ標を頼りに、深山の中を自分は進んだ。
 さあさあ、と。駅に着いた頃より霧雨が降っていた。
 思い返せば、此処は何時でも雨模様だった気がする。ぼたぼたと地を穿つ大粒の雨に追われることもあれば、今日のように閑かで細かな水の振袖が辺り一面を包み込んでいることもある。
 まるで雨が、此の場所を世界から隔離しているような様。此処に住むあの人を優しくあえかに閉じ込める、雨の檻。
 獣道を進み下草を踏み敷いて、やがて自分は一軒の庵の前に出た。しとしとと濡れそぼっている土壁や萱葺きの屋根を見て、自分はほう、と息を吐き出す。────良かった、まだ此処に、在った。
 粗末な板戸は今日もまた開いていた。元よりこの庵に鍵など無い、訪ねる人も自分以外にいるはずも無いので必要自体が無いのだろう。
 ごめんください、と自分は戸口に立って呼ばう。三和土より奥、部屋の中は相変わらずの暗がりでよく見通せず、何者の息遣いも聞こえてこないほどのただ、静寂。
 いらっしゃいませんか、返事が無いのに焦れて自分は再び声を張り上げる。外には細雨、内には幽冥、雨にか汗にか背中がしっとりと濡れるのを感じていると、不意に。
「……ようこそ」
 足音も密やかに、闇より滲み出る影があった。
 藍地に小花を散らした小袖、腰まである長く豊かなぬばたま色の髪がさらりと揺れる、その人。変わらぬ彼女の姿を見て、自分は安堵に肩を下ろす。良かったまだ此処に、居てくれた。
 ご無沙汰しております、頭を下げる自分に彼女は霞の様に淡く微笑み、告げる。
「……亡くなったのですね」
 どきりと鼓動が跳ねた。慌てて顔を上げた、喉が引き攣って咄嗟にはいらえを出来なかった。
 まだ一言も切り出さぬ間に、彼女は一切を承知してしまったというのか。確かに予兆はあっただろう、しかし……いや、それが彼と彼女との絆なのか。どう表情を繕えばよいのか判らず困惑する自分を、彼女は肯定の意と取ったのだろう。
「ご足労いただきまして、感謝いたします。どうぞ、上がってくださいまし」
 す、と身を引いて、奥の座敷を示した。

 実の父母を知らない自分を施設から引き取り、最大限の誠実さと愛情を以って育ててくれた義父が、先日不帰の客となった。天命を知ったばかりの早過ぎる逝去に涙したのは自分だけではなく、生前彼と濃やかな交友を持っていた多くの人々が葬儀の執行に助力してくれた。良い見送りになったと、義息である自分は深く頭を垂れたものだ。
 骨を焼き墓に納め、独りきりになった自分は────そうして、為すべき義務を携え此の庵を訪ねた。
 此処は、生前に義父が私だけにと教えてくれた秘密の場所。親しく優しい人々に囲まれながらも、決して伴侶だけは得なかった義父の、生涯唯一真実の、愛の証。たった一人だけの、彼のこいびと。

 ────辰子さん。

「最期は……安らかでしたか?」
 はい、と自分は答えた。病の床に身を沈めながらも、臨終は微笑み眠る様に、天に迎えられていきました。
「そう。ならば、」
 ────……良かった。
 雨戸を開け放った縁側近くに、彼女は座している。その白い横顔を、雨音と薄明かりが僅かな陰影以って彩っている。
 美しい人だ、と。初めて此処に連れて来られてより変わらぬ憧憬が、見つめているだけで胸を締め付けてくる。変わるはずも無い、何故なら彼女が、時の流れから外れてしまった存在だから。十数年前に出逢った時のまま、彼女はただ美しく、此処に在る。
「夫婦になることは叶いませんでしたが……あの人は、良い、夫でありました」
 はい、自分は再び首肯する。私にとっても良い、父でありました。
 義父は生前、彼と彼女に関するおおよそ総てを打ち明けてくれた。少年の頃偶々此の庵に迷い込んで彼女と出逢い、やがて情を交し合う間柄になったこと。しかし彼女は“人”ではないから、此方の世界に連れて来ては異質なものとして好奇の視線に晒されるから、だから通うだけの夫婦であること。
 それで充分、と言いながらしかし寂しそうに笑んだ義父の顔を、今でも明確りと覚えている。そしてその心に、同情ではなく共感を覚えた熱も未だ、この胸に息づいている。
 辰子さん、と自分は呼んだ。
 はい、と彼女は答える。
「あの、これから……どう、されますか?」
 おずおずと尋ねれば、彼女の一重の双眸が煙るように細められる。
「何も、変わりません。此処に、居ります」
 言って、彼女は視線を外へと投げた。
 降り続ける雨、止まない水音。草木の匂いを孕んだ雨の香が、静謐な庵の中を満たしている。瞬きすれば総てが掻き消えてしまうのではないかと、恐れすら抱かせる────美し過ぎる眺め。
 逡巡を重ねていた自分は、しかし焦燥に駆られたように口火を切った。
「僕と、その、一緒にいらっしゃいませんか? 母として、で、いいのです。義父の住んでいた家へ、移られませんか?」
 彼女は、すぐには答えなかった。雨に濡れる野山をまんじりと眺め遣ったまま、座す膝の上に両手を揃え────嗚呼、その姿だけで一幅の画に思える。義父に手を引かれて此処を訪れた少年の日よりずっと、貴女だけを心に住まわせてきた。愛し大切にしてくれる義父への裏切りになるのかもしれない、けれど、彼ならば解ってくれるだろうとも勝手に信じていた。
 彼もこんな気持ちだったに違いないのだ。禁忌と知りながら想いを振り払えず、身を病に蝕まれながらも絶えず、此の庵へと山道を歩き続けた。その無理が祟って死を早めたのかもしれない、それでも、それでもと強く願う心を自分は知っている、義父もきっと知っていた、一度捕らえられてしまった檻から抜け出すことは出来ないのだと。

 ────此の雨の檻から想いを解き放つことなど、出来はしないのだと。

 辰子さん、出した声は乾いていた。
 彼女が、ゆっくりと視線を此方に向けた。
 うつくしい人。対面しているだけで目頭が熱くなる、僕は、貴女を────。

「……私は、此処にしか居られません」
「…………」
「わざわざ来てくださって、ありがとう。あの人の菩提、どうぞ、末永く弔ってやってくださいまし」


 彼女の見送りを背に、庵を後にした。雨は相変わらずで、傘を差さない自分の全身をしっとりと濡らしていく。
 振り向いても、もうあの場所は木立と雨霞の向こう。夢の浮橋に在る彼女の庵は、そうして人々の目から隠れて生き続けるのだ。永劫に近い長い長い生を、彼女は独りきりで永らえて、ずっと────。
 山を降りて駅に着き、今日の名残にともう一度、来し方を振り仰いだ。
 そこで自分は愕然とした。何故だかもう、あの場所へ辿る道筋を思い出すことが出来なくなっていたことに気付いたからだ。
 少年の頃より秘めた想いを胸に抱き、歩み続けた山道の標を、どうしてもどうしても、記憶の泉から引き上げることが叶わなくなっていた。そんな馬鹿なと糸を繰っても、それは途中でぷつんと切れている。思い出せない、探し当てられない、ついに自分は確信した。

 二度と、貴女に、逢えないのですか。
 これが貴女の意志──愛した男性へ捧げる弔いの花なのですね。
 ……辰子さん。


 やがて到着した列車に乗り込み、離れていく山の稜線を見上げながら。
 ────自分は、驟雨のような涙を流した。


 
 
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