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クリエイター名 |
silflu |
DeepRiver 鮎の物語
アタシは鮎だ。サケ目、キュウリウオ科、アユ亜科、アユ属の鮎だ。ちなみに雌。名前なんて人間みたいなものはない。 そう、その人間が憎いったらありゃしない。我々を捕まえる方法が実に面白半分で嫌いだ。なんと、生きた鮎を糸の先にくくりつけて、おとりにする。アタシたちにはそれが縄張りを荒らす馬鹿者のように見えるから、体当たりを仕掛けざるを得ない。残念ながらこれは本能。頭では罠とわかっていたとしても体が勝手に反応してしまうのだ。で、向かって行ったほうも鈎にかかって引き上げられてしまう。実に狡猾だ。鳥のように己の体だけをもって狩りをする者に捕まっても別に悔いはないが、人間は本当に悪知恵を持っている。ロクに水中で泳げもしないくせに、脳味噌だけがそんな嫌な方向に進化したのだろう。やだやだ。 アタシは人間に食われるのだけは我慢がならない。これから多くの仲間と共に海から川へと遡って縄張りを作るのだが、絶対に捕まってやらない。無事に卵を産んで、また海へ引き返してみせる。
河口からしばらく遡ると、隣に雄の鮎が並んできた。頭のてっぺんに微妙な青い模様があるので青吉とでも呼ぶことにしよう。 「やあ、はじめまして」 簡便な挨拶をする青吉。 「どうも。何か用?」 アタシも簡単に返事をする。 「なに、我々はこれから多くの障害に立ち向かいながら上流を目指すんだ。お互いにいつ死ぬとも限らない身だから声くらいはかけておこうと思って。君はなかなか美形だから。特にその頭の形は素晴らしいよ」 アタシは自分で自分を見ることは出来ないから知りようもなかったが、それほどいい形なのか。となると、ますます人間に食わすにはもったいない。 「君の卵にはぜひ僕の精子を振りかけたいねぇ」 「それまで生きていればいいけどね」 「もちろん僕は生きるさ」 その時だった。青吉の向こう側から音もなく近づいてくる影。青吉は気づいていない! ――パクリ。 何の魚かは知らないが、青吉はあっという間にそいつの口に飲み込まれてしまった。 危ない危ない。位置が逆だったら、アタシがやられていた。幸い見ず知らずの魚は青吉で満足したのか、再び向こう側へ消えていった。こんな風に唐突に死んでいった仲間たちはすでに何匹もいるのだろうと思いながら、アタシは前を向いた。さようなら青吉。 そろそろ中流といったところか。ここらへんは流れが穏やかな上に最近は水温も上昇してきたので、実に心地よく泳げる。 体は幾分成長している。頭の形は美しさに磨きがかかっていることだろう。このたび、小賢しい人間に関する新たな知識が美しい頭の中に入ることになった。ある日のことである。 「あなたは天然ね?」 いつものように上流を目指していると、アタシよりも一回り小さい雌の鮎が話しかけてきた。体全体がずんぐりむっくりしているから丸子とする。 「天然てどういう意味?」 「知らないのね。私たち鮎にはね、天然物と養殖物があるの。養殖っていうのは一度人間に育てられて、川に放たれたもののことよ。私は養殖なの」 「へえ」 「天然物は生まれた時から荒々しい自然に揉まれて泳いでいる。体つきが逞しいからすぐにわかるわ」 アタシは美しくも逞しくあるらしい。 「じゃあ、あんたは人間に育てられたってのね」 「餌に不自由はしなかったし、周りには敵はいなかった。狭苦しいところでうんざりしていたけれど」 「人間を見てどう思った?」 「水の上をチラッと見たことあるけど、あれは巨大な化け物ね。あんなのをまともに見たら命が縮むわ」 「ふうん。それにしたって人間は妙なことをするね。何でだろう」 「簡単なことよ。あいつらは自分のために鮎を育てているだけ。私はね、人間に捕まえられ食べられるためだけに放流された。天然物は数が足りないからって!」 「……人間の趣味はどうも理解しがたいね」 「あなたが羨ましい。今度生まれる時は、ぜひ天然物って思うわ」 それで丸子はアタシから離れていった。今気がついたが、彼女の泳ぎはどうもフラフラとのろくさい。幼い頃に苦労して泳がず力がつかなかったからだろう。悪しき人間に育てられるとあんな風になる。アタシも養殖なんて絶対ゴメンだ。
哀れなる養殖鮎の丸子と別れてどれくらい経ったかは知らないが、あの時より水温はさらに高まっているからそれなりに時間は過ぎたのだろう。 アタシは長い長い遡上をようやく終えて、川岸付近に自分の縄張りを持つこととなった。近頃は苔ばかり食べている。暖かい天気に恵まれてワンサカと生えてくるから、いくら食べてもなくならない。 海にいた頃はちっこいプランクトンばかり、川を上り始めたばかりの頃は醜い昆虫ばかり食べていたが、この苔というものは何とも緑が美しくしかも美味だ。体はまた美しく逞しくなってゆく。今が肉体的には絶頂だろう。 だが安心してはいられない。今の鮎にとって一番の敵は人間だ。アタシたちの縄張りにおとりを投げ込んで巧みに……いや、ずる賢くおびき寄せる。おとりに使われる鮎も災難だが、これで捕まった日には後悔すら出来ない。屈辱と絶望と共に死が押し寄せる。きっと気が狂うだろう。 何日か過ぎると、他所の縄張りから仲間の気配が消えてゆくのを感じた。……ああ、どうも捕まっているらしい。1匹2匹3匹と次々に! 死の間際、彼らはどんなことを思うのだろうか。ちくしょうちくしょうと叫んでいるか、ワンワンと泣いているか。いずれにせよ、縄張りを持つ前に青吉みたくどこかの魚に食われた方が幸せだ。 アタシは時折、まったく柄にもないことと承知しているが、どうか人間の罠にかからないようにと天に願ったりした。
日が短くなり水温が下がり始めた。食事の量も減ってきた。 そしてアタシの腹。ずいぶんと膨らんでいる。 そう、卵だ。仲間の多くは他の魚や鳥や人間に捕まってしまったけど、アタシはその前に生命の源をこの身に宿すことが出来た。 どうやらこの縄張りを捨てる時が来たようだ。導かれるまま、川を下っていった。 さすがに上りに比べて下りは速い。スイスイ進む。この重い腹にはありがたいことだ。 アタシはまだ、唐突に人間のおとり鮎が目の前に出てきて本能的に接近してしまうことを心配していたが、どんなに下ってもそんな様子はない。ここでまた別の鮎から人間の習性について聞いた。 「もう俺たち、人間に捕まる心配はほとんどないだろう」 「なぜ?」 「不味いからさ」 確かに縄張りでコケを食いまくっていた頃と比べると、鮎たちの体にはツヤがない。 なるほど、今のアタシたちはあまり美味くないのだと人間たちは知っているようだ。だから興味は失せたとばかりに捕まえない。現金なやつらだ本当に。
人間にも魚にも鳥にも襲撃を受けぬまま、幼い頃に見た懐かしい景色に辿り着いた。間もなく河口らしい。終点は近いと気を吐いてズンズン下っていくと、やがて雄が10匹くらい密集して川底に穴を掘っているのが見えた。雄たちの体は黒く、皮はざらついている。衰えているのだ。これが最後の大仕事。――そしてアタシも。 その砂の穴に近づいていくと、一塊となった何匹もの雄にもみくちゃにされる。激しい砂煙と水飛沫が起こる。 今だ! 腹に力を入れて産卵する。すかさず雄たちがそれに精子を振りまく。 それで終わり。鮎の受精は本当に一瞬だ。だけどここまで来るのにどれくらいの困難を乗り越えただろう。何にしても子孫を残せたのだから、アタシがするべきことも考えるべきことも、もはやない。
川の流れるままにしている。もう必死に泳ぐ必要などないし、出来はしない。 体に力は入らず、頭もうつろ。間もなく寿命だ。何だか色々な風景が脳味噌をかすめる。すぐに命を散らした青吉。養殖という悲劇にさらされた丸子。美味しかった苔。死が近づくとそれまでのことが閃光のように蘇ってくるとは、粋な計らいだ。神様というやつの仕業だろうか。死ぬまでのわずかな時間、退屈はしないで済みそうだ。 ――そうして、目の前がだんだんと暗くなっていった。数秒後、完全に動かなくなる。ポッカリと水面に浮かぶアタシの死体は、海鳥あたりがついばむのだろう。 こんなに嬉しいことはない。アタシは正しいあり方で死ぬことが出来る。鮎としての生をまっとうしたのだ。どうだ人間め、ざまあみたか。
【了】
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