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クリエイター名 |
宮本圭 |
結び目
結び目
おい、とひくい声で呼びかけられても、わたしは歩調をゆるめなかった。それどころかむきになって、いっそう足を速めながら朝の通学路を歩く。ちょうど通勤通学の時間帯で、歩道は行きかう人々が絶え間ない。 ゴミを出している背広のおじさんの後ろを通り抜ける。ふざけて絡まりあいながら歩く小学生の群れを追い抜く。あわてた様子で兄が後ろから追いついてくるのが、足音と気配でわかる。 「おい」 近頃兄は、妹のわたしのことを名前では呼ばない。どうしても呼び止めなくてはならないときには大抵、おい、とか、おまえ、という曖昧な呼びかけ方で、非合理的な上に失礼極まりないといつも思う。 理由を問いただしてもはっきりとは答えない、ちゃんと名前で呼べといっても一向に改めない。わたしたち兄妹は度々このことで軽い諍いを起こすのだが、そんなときよく、おやおやしょうがないなふたりとも、みたいな目をした両親が見守っているのもなんだか不愉快だ。 「おい」 だから最近は向こうがちゃんと呼ぶまで振り向かないことにしている。我ながら子供っぽい自己主張だと思うけれども仕方ない。わたしのせいじゃない、だって兄に話し合いに応じる姿勢がないのだもの。 「靴紐。ほどけてる」 え、と足を止めて見下ろすと、指摘通り本当にスニーカーの紐がみっともなくほどけていた。 こんな靴で肩を怒らせて、堂々と歩いていたのかと思うと自分が情けない。顔を赤くして腰をかがめようとしたら、それよりも一瞬早く兄がわたしの足元に膝をついた。 「ああ、いい。俺がやる」 「い、いいよ」 「いいよ、おまえ不器用なんだから。よく縦結びにしてるし」 そういえば兄の靴紐がほどけているところなど、ここしばらく見た覚えがない。運動部なので固くきちんと結ぶのに慣れているのだと思う。一方のわたしは子供の頃からこういうことはしょっちゅうで、しかも結ぶのに時間がかかり、そのくせ結び目はちっともきれいにならないのが常だった。どうしたほうがいいのかは明白で、仕方なく兄にまかせることにした。 「……」 「…………」 通勤のおじさんやおねえさん、さっき追い抜いた小学生たちが、しげしげとこちらを見ながら通り過ぎていく。きまりが悪い。 通行人からは、一体わたしたちはどういう風に見えているのだろう。大きな体の男子に膝をつかせて、靴紐を結ばせている女子学生。客観的に考えると恥ずかしさで死ねそうだったので、仕方なく視線を落とし、靴紐に集中している兄の頭を観察する。 「……人の靴結んでやるのって、なんか変な感じな」 「ふうん」 いつも床屋で短く刈り込んでいる髪。つむじは右巻き。 兄は中学に入ってからタケノコみたいに身長が伸び出したので、こんな角度から見るのは初めてかもしれない。上から見下ろすとまつげが長いのがはっきりとわかる。眉根から鼻筋にかけてのラインは、意外に整っているといえないこともない。当たり前だけど、人間の顔って立体なんだなあと思う。角度を変えただけで、ぜんぜん違う人に見える。 ……でも、顔の産毛が朝日でうっすら光っているのに気づいたときは、思わず噴き出しそうになった。 産毛? こんなでかい図体して? 「できた」 笑うのをこらえていると、ふいに兄が顔を上げた。得意げな表情だった。見慣れているはずの兄の顔を見慣れないアングルから目の当たりにするのは、私にとってちょっとした驚きだった。そうか、こんな顔してたんだ。 こんな顔してるんだ。 「なんだよ」 「なんでもない。ありがとう」 結び目は固く、それでいてきれいに整っていた。前から思っていたけど、兄は大きな体つきのわりに几帳面で神経質だ。ついでだからともう片方の靴紐も結び直してくれたあと、兄は膝を払って立ち上がる。 「これでもうほどけないから」 「うん」 「行こう。遅刻する」 「うん」 促されて、うなずいて歩き出す。 兄の結んだ靴紐は学校に着くまで、本当に決してほどけはしなかった。
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