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クリエイター名  梟マホコ
ロンドンデイズ

「ロンドンデイズ」

 その部屋に足を踏み入れた瞬間、わたしは、まず、何故もっと早くにここに来なかったのかという後悔を感じ、次に、この五日間のロンドン旅行の最終日にここに来て良かったのだと胸を撫で下ろした。――もしも、初日にここに来ていたら、残りの四日間、他の場所の観光などすっかり忘れて、この部屋に入り浸っていたに違いないのだから。
 ここは大英博物館の中にある、とりわけ特殊な空間だ。円形図書館、と呼ばれている。名前の通り、円形をしている。目がくらむほどに高いドーム型の天井からは、柔らかな日の光がこぼれていて、その下には――ずらりと壁を埋め尽くす、本、本、本の山! 円形の部屋の壁すべて、360度、どこを見渡しても、本、本、本、なのだ!
 常識を超えたようなその光景に、わたしは息を飲んで立ち尽くした。
すごい、という言葉しか出てこない。本の山、本の海――ううん、そんな薄っぺらな言葉ではとても表現できない。この図書室全体が、途方も無い知性をたたえた、ひとつの生き物であるかのように思えてくる。あまりに衝撃的で、時間も忘れて呆然と立ち尽くしていたら――
「ここが気に入った?」
 右下から、突然、声がして、飛び上がらんばかりにびっくりしてしまった。
 見ると、本棚にもたれてぺたりと床に座り込み、右足だけを立膝にして、その上に古びた本を開いた姿で読書に勤しむ、お行儀の悪い青年がそこにいた。
「気に入ってもらえたなら嬉しいな。僕は、ここに住んでいるんだ」
「住んでるの!?」
「たとえだけどね。でも、住んでいるといって差し支えないな。ほとんど毎日、開館から閉館まで、ここにいるんだから」
 本から目を離さないまま、つんと澄ました横顔で、そんなことを言う。
 不思議な人だ――と、まじまじと彼を眺めてしまった。偉大な図書館には、本の神様が住むという。もしかして、彼が、この図書館の神様? けれど、ヘリンボーン柄のグレーのパンツに、ドクターマーチンの8ホールのブーツ、裾を入れた白いシャツの上に、ベンシャーマンのワンポイントの入った黒いニットベストを合わせているその姿は、いかにもロンドンの学生といった佇まいだ。
「ところできみ、ロンドン・アイには乗った?」
「えぇ、もちろん!」
 "神様"からの質問に、元気よく答えた。
 ロンドン・アイは、ロンドンを一望できる巨大な観覧車だ。足元まで透明なカプセルの中に立つと、まるで空中散歩をしているような気分が味わえる。ロンドンに着いた一日目に、真っ先に乗って、大パノラマを堪能した。
 しかし、彼は、そんなわたしを鼻でわらうように、こんなことをいうのだ。
「僕にいわせれば、あれはロンドンの中でも最もクズといえる施設だね。所詮はミレニアムに合わせて建造されたお遊びスポット、偉大なる英国の歴史の深みなんかまるで感じられない。せいぜい、おのぼりさんな観光客から金を巻き上げるためだけの施設さ、きみみたいな、ね」
 さすがにむっとしかけたけれど、その皮肉たっぷりな口調と、幼さの残るお行儀の良いお坊ちゃま風のルックスとが、いかにも釣り合わなくて、わたしは思わず笑ってしまった。
 すると、今度は彼がむっとする番だった。読んでいた古いえんじ色の本をぱたんと勢いよく閉じると、わたしに向き直り、まるでシェイクスピアの台詞を読むかのように、朗々と語り始めたのだ。
「その点、このリーディングルームは、違う。2000年に一般公開されるまで、150年間、ここは立ち入り禁止の知の殿堂だったんだ。見てごらん、ため息が出るほど美しい、まるで聖堂のような天井。そして、ぐるりと壁を埋め尽くす、膨大な本の山! 圧倒的じゃないか。ここにあるどの本をも読むことができるのだと思うと、あまりの歓喜に気が狂いそうになると同時に、絶望的な気持ちになる――残りの一生のすべてを捧げても、ここにあるすべての書物を読み尽くすほどの時間など、残されていないと気がついてしまうからね。この部屋には、すべてがある。ロンドン・アイに乗っているたった三十分で得られるような、インスタントなパノラマごっこなんかじゃない。ここからは、すべてが見えるんだ。石畳に降り注ぐ雨の音、雨上がりの街のにおい、空にかかった虹の向こう――。すべてを見て、感じて、味わうことだってできる。かの名探偵シャーロック・ホームズも、この部屋で書物を紐解いたとされているんだ。そう、この部屋で読むホームズは、きりっとした炭酸が喉を焼くジン・トニックの味がする。ブロンテの『嵐が丘』なら、ロンドンジンにオレンジキュラソーやスイートベルモットを混ぜた情熱的なタンゴ・カクテルの味がするし、T・S・エリオットの詩なら、ロンドンジンにドライベルモットを混ぜたマティーニの味がする」
 わたしは目を閉じて、彼の唇から語られたその光景を、まぶたの裏に描いてみる。
 人生の短さに途方にくれるほどの、膨大な書籍。その中に閉じ込められているのは、人の五感をこれでもかというほどに震わせる、圧倒的な情報だ。雨のにおい、虹の向こうの景色、おいしいお酒の味……。
「すてきね」
 うっとりとため息をつくと、彼は、わかればよろしい、といった様子で、両腕を胸の前に組んで、満足気に頷いているのだった。
「でも、どうして、最後の味覚の例えが、ジンを使ったお酒ばかりなの?」
 素朴な疑問を口にすると、彼は、その日初めて、照れたような笑みを浮かべた。
「きみの香水が、ジンの香りがするから。お酒が飲みたくなってきちゃったよ。これから、一緒にパブにでも行かない?」
 本を通してすべてを見渡す図書室の神様。
 そんな彼をパブに誘い出すことができるなんて、香水は、まるで魔法の薬ね、と、わたしはくすくすと笑ってしまった。

 
 
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