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クリエイター名  梟マホコ
猫、あるいは神様に化かされた話

「猫、あるいは神様に化かされた話」

 おそらく神隠しに遭ったのだ、ときみは思っている。暇を持て余した神様の遊びに付き合わされてしまったのだと。
 石畳の路地裏で、きみはきょろきょろと周囲を見回す。急に春めいた日差しが眩しくて目を細める。頭上でにゃあと声がする。見上げると、低い民家の屋根の上で、猫が座ってこちらを見つめている。にゃあ、にゃあ。猫がしきりに声を張り上げるその軒下に、店の看板がにょっきりと生えている。きみは観念して、民家のようなその店の扉を開けることにする。三十分ほど前に道に迷ってからというもの、どこをどう歩いても、この店の前にたどり着くのだ。神隠しだ。仕方がない。だってここは、神が楽しむ坂、神楽坂なのだから。
 どうみても普通の民家の勝手口といった風情のドアをがちゃりと開けると、目の前に、まっすぐ、木の床の廊下が現れる。それからしばし、きみはぽかんとするのだが、無理もない。人ひとりが通るのがやっとという廊下の左右の壁に、手ぬぐい、風呂敷、はんかち、スカーフ、バッグ、ぬいぐるみ等々びっしりと貼りつけられ、そのすべてが、猫、ねこ、ネコ、である。廊下に据え置かれたガラス戸の飾り棚の中にも、財布、がま口、ブックカバー、すべて、猫、ねこ、ネコ。廊下の奥に続く小部屋にも、猫っぽい何かが山と積まれているらしき気配を感じたきみは、ふらふらとそちらに向けて歩き出す。と、廊下半ばで、右手の部屋の中から、声をかけられる。
「いらっしゃいませ」
 はい、と返事をしながら振り向いた次の瞬間、きみはギャッと悲鳴を上げて飛び上がる。廊下の商品をどんがらがっしゃんとひっくり返しかねない勢いで後ずさりさえするのだが、無理もない。ヴィンテージの着物、半襟、帯、草履がびっしりと積み重なり、地層の断面のようになった部屋の奥から現れたのは、朱色の着物を着た、猫。背丈の大きさはきみと同じ、着物のサイズも、草履のサイズも、きっときみと変わらない。ヒトと変わらぬ大きさの猫が、二本足で立ち、客であるところのきみを歓迎しているのだから。
 ところで、先ほどきみは、この謎の化け猫の衣服を、朱色の着物、と認識した。と同時に、着物の知識が無いが故に、朱色の着物、としか表現できないことを、きみは歯がゆく思ってもいた。紬だとか、絣だとか、着物の布地の種類もあるだろうし、鳥のシルエットが定間隔に並ぶことによってひとつづきの壁紙のように見えるこの柄にだって名前があるだろうし、それらを正しく把握できていないということは、目の前の光景を、半分も理解できていないということだわ――と、きみは己の不勉強さを嘆く。きみは、この世の九割以上のものには歴史や由来や意図があり、それらを理解することだけが、この世界を理解する手段であると考えている。故に、あらゆる事象に意味を求めすぎ、なにもかもを言葉で説明しようとしてしまう。近頃は、この頭でっかちな価値観こそが、己の限界でもあるのだと、薄々気がついてはいるのだが、どうすれば良いのかわからずにいる。
「おや、初めてのお客様ですねえ。いらっしゃいませ。わたくし、この店の主をしております。猫店長とお呼びください」
 朱色の着物、を着た化け猫は、ふ、ふ、ふ、と拍子をつけて笑顔を浮かべると、舞妓を思わせる艶やかな所作で、流麗にお辞儀をしてみせる。きみはあっけにとられながらも、これは、これで、こういうものなのかも、と思い始める。猫店長のことは、たしかに言葉では説明できないが、すべてを言葉で説明しようとしすぎるのはわたしの悪い癖だし、何しろ、ここは神楽坂なのだから、と。
「お客様、ここにいらっしゃったということは、お探しなのですねえ」
「いえ、わたし、道に迷ってしまって」
「ええ、迷っていらっしゃる。ずっと迷っていらっしゃるのですねえ。いつも、そんなに、何を探しておられるのでしょう」
 きみは口をつぐむ。わたしは、ときみは考える。そう、ずっと長いこと、探して、迷っている気がする。それは、具体的に言葉にしてしまえば陳腐なもので、学校をどうしようとか、将来どうしようとか、今夜何を食べようとか、明日は何を着ようとか――あぁ、本当に、陳腐。あまりに陳腐すぎて、当たり前すぎて、それがもはやアイデンティティにすらなりかけていて、それがもうぞっとして、だけど人生は陳腐な悩みや選択の繰り返しだって誰かに言われて、そうなのかなぁなんて思ったらさらにぞっとして、人生に、そう、別に死にたいわけではないけど人生にぞっとして、だからできるだけ早く死にたいと思うけれども、そんなこと言っちゃいけませんと誰かに言われてますますぞっとして、だから、つまり、ぞっとしないための手段をはやく見つけないと、いつふらっと自ら死んでしまうか自分でもわからないのが、とてもこわい。
 と、いうようなことを、きみは頭の中で猛烈にまくしたてるのだが、口に出すことはない。きみはわきまえている。この感情が少数にしか理解されないものだということを。気を許して話したが最後、「死にたいとか(笑)ないですわ(苦笑)」と陰で笑い者にされるということを。そう、きみは、わきまえている。故に、絶望している。
 黙ってしまったきみを眺めて、猫店長は、ふむふむ、と頷く。不意に、ぽん、と手を叩くと、背後の着物の山の中から、がさごそと何かを引っ張り出してきて、きみの目の前に広げてみせる。
「この着物なんか、きっとあなたにお似合いになる。真っ白な布地に刺繍のような折柄でね、ほら、不思議の国のアリスを思わせる。ロリィタさんなら、きっとお気に召すはず」
「何故、わたしがロリィタをであることを」
「わかりますとも」
 ふ、ふ、ふ、と拍子をつけて、猫店長はふくふくとした笑みを満面に浮かべる。ぴんと伸びたヒゲがつやっとしなり、得意げな曲線を描き出す。きみは今、MARY QUANTの白黒ツートンカラーのコートに、二年ほど前に流行した、型遅れのぺたんこブーツを履いている。服装で判別されたのではない、ときみは気がつく。Lolita is Attitude。ロリィタはファッションのジャンルではない、生き様だ。猫店長は、それを知っているのだ、ときみは気がつき、はっとする。
「猫店長、あなたは」
「着物なら、頭に大きな花やらリボンやら、着けても何も言われません。ロリィタよりもむしろ自然に受け入れてもらえますねえ。今どき、どこよりも自由な、治外法権でございます」
 その言葉に、きみはときめきを隠せない。毛並みの艶やかな白い手によって差し出された白い着物に、ついつい、視線を落とす。織り込まれた柄は、テニエルのアリスを思わせる、少女の影絵だ。着物にもこんな柄があるなんて。きみの心は少し、浮き足立つ。ほんの少し前まで、モヤモヤした心持ちだったのに、ときみは思い至り、再びはっとして視線を上げる。変わらぬ笑顔の猫店長が、ふ、ふ、ふ、ときみを見つめている。きみは確信する。猫店長が、きみのモヤモヤを癒すために、この着物を持ちだしたのだということを。
「猫店長、あなたは何者ですか」
「見ての通りでございます」
「猫、でいらっしゃるのですか」
「以前は、人間だったのですがねえ」
「それでは、何故、猫に」
「信頼していた人に、裏切られましてね」
「は」
「信頼していた人に、裏切られたんです」
「……それで、猫に」
「ええ、それで、猫に」
 ふ、ふ、ふ、と拍子をつけて、猫店長は笑う。哀しげではない。ただ、きゅっと持ち上がった唇の両端に、ただならぬ含蓄が漂う。きみは言葉を失う。笑顔を崩さぬまま猫店長は、ああ、この着物には、きっとあの帯が合うでしょうねえ、と、店中にぎっしりミルフィーユのように折り重なった着物の山を崩し始める。腰のしゃんと伸びた後ろ姿は、こんな時でも、優雅な気品を漂わせる。きみはただ立ち尽くし、その背中を見つめるばかりだ。
 きみは思う。このひとを猫にしてしまったほどの裏切りとは、いったいどのようなものであるのか。
 さらに思う。わたしは、それほどまでの哀しみに襲われて、あるいは猫になってしまっても。
 このひとのように、美しくいられるだろうか、と。
 窓の外のひだまりで、猫がにゃあと鳴く。
 猫店長の柔らかな肉球は、がさごそと着物の山を崩す音を響かせ続ける。

 
 
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