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クリエイター名 |
紀水葵 |
サンプル
『こどく』
獣がいる。 永劫の果てまで続く翡翠の草原にその身を横たえて。 赤黒く染まった毛並みに胡乱げな視線を投げかけ、折り曲げた四肢をゆっくり伸ばす。 どれだけ澄んだ泉で洗い清めてみても決して流れ去ることのない緋色の焼きついた鉤爪がしっかりと草を踏みしめた。 そのまま一度、大きく身震いすると乾いた血の粉がはらはらと舞い落ち、申し訳程度に現れた黄金色の背が中天にかかった陽の光をはじいて輝く。
足元の草に残った露が朱い粉を吸って血色に変わった。 そのさまをつまらなそうに眺めていた男は自分が、その巨大な獣の姿をしていることに何の疑問も抱かなかった。なぜなら彼は―――獣は、生まれた時からこの姿で、日に日にどす黒く染まってゆく体躯をまのあたりにしながらこの草原を彷徨い続けてきたのだ。 それでも男は人間だった。
しばらくの間、獣の刺すような漆黒の瞳のなかで、地平線の彼方まで続く翡翠が揺れていた。いつしか揺れがいっそう激しくなる。 それを待ちわびていたかのように獣は、狼にも似た長い鼻面をもたげ、風をつかまえる。 その中にかすかな死臭が流れついた。 ――――――来る。 隠しようのないほどに赤くなった毛並みをゆっくりと草の海に沈める。 深淵の双眸から残虐な光があふれでた。
会いたい。 帰りたい。
誰かが獣の心の中で叫ぶ。悲痛な、消え入りそうな声で。 誰に会うというのだ。獣はずっと独りきりだというのに。仲間も味方も、家族すらいない。 何処に帰るというのだ。獣はここでうまれ、この草原を生き抜いてきたというのに。 帰る場所などありはしない。このままいつかは、草の海に骸を晒すことになる。 それだけのことだ。
違う、そうではない、と。 また叫ぶ。 もはや獣には、それが自分の本能なのか、それとも男の記憶なのかわからなくなっていた。 昨日。そう、昨日までなら何故なのか知っていたのに。 何処に、帰るのか、誰に会うのかも。 日を重ねるほどに薄れていく「心」の存在に獣も男も気づかない。 緋色の影に押しつぶされていく小さな心の叫びに、獣はひとつ頭を振り、耳元まで裂けた口の端をつり上げ、自嘲の笑いを浮かべた。 「昨日」などというものは、ここにはないのだ。目を覚ましたその時からずっと、天頂の光はぴくりとも動かない。太陽は沈むことも翳ることもない。いつもそうだったはずなのに、その瞬間の獣は、そのことに違和感を覚えた。
まったく、沈まない太陽などあるわけがないでしょう。 先ほどの悲痛な叫びとはうってかわったまろく優しい声音が響く。 本当に、おかしなことばかり言って、と。
朗らかに笑う声がどろどろとした死臭にかき消された。 一気に現実に引き戻された獣は不満げに鼻を鳴らして身構える。 全身の筋肉に心地良い緊張が走り抜けた。 狩りのはじまりだ。 力強い後足で大地を蹴り、勢いよく宙に躍り出る。 一瞬で、獲物の首回りに狙いを定めた。
再び何かが脳裏を駆け抜ける。 本当におかしな日だ。 いつもなら狩りなど、なんでもないことなのに。 別に望んでその爪を、咎の色に染めているわけではない。 それでも還るためには生き残らなくてはならないのだ。生き抜けば還れる。ただそれだけのこと。草の海の果てに懐かしい、あたたかい場所があるような気がした。 獣の心臓が音を立てて跳ね上がった。 まったく、しつこいのにもほどがある。 帰る場所がないことなど、分かりきっていることではないか。 心の中で舌打ちする。 すると、その音が聞こえでもしたかのように、眼下の獲物が獣を振り仰いだ。 まずいと思ったのは一瞬で、すぐに安堵の息がもれる。 最近では見ることもなくなった、途方もなく小さな、ちいさな生き物。 獣の失われた金色よりも更に強い輝きを放つ鬱金の毛色。 悲しそうな漆黒の眸が獣を射る。 なぜこんな、獣とも呼べないような脆弱な肉塊から死臭が漂うのかわからず、ほんの一瞬躊躇した。 やめろ、やめるんだ、と最初の声が咎める。 それでも勢いにのった鉤爪は、もはや獣の意には従わない。 あっというまに、小さな咽笛が裂け、天頂の光を受けてぬらぬらとした光沢を放つ血飛沫があたり一面を覆う。 この小さな体の何処に隠されていたのだろう。ほとばしる緋色はとどまることを知らない。 獣の鋭い鉤爪は、引き裂かれた肉塊から少し離れたところでようやく暴れるのをやめた。 慌てて鬱金色の影を捜す赤黒い鼻先を、むせかえるような死臭がくすぐる。 嫌でも気がつく、この臭いは。誰のものでもなかったのだ、死の臭気は。 獣自身がその身のうちに飼いつづけていたのだから。 それほどに多くの命を奪ってでも、帰りたかった、会いたかった。 記憶の――――心の最後の一片を咎の色に奪われた獣に、それを理解する術はない。 その背には、ただ一筋の金色さえも残されてはいなかった。
獣の四肢が血溜りを踏みしめるたび、草の海がぴちゃぴちゃと吐き気を誘う声で鳴く。聞きなれたはずの音が無性に腹立たしい。 同じ血であるのに、小さな体を染める緋色はたとえようもなく美しく、明々と燃えていた。引き裂かれた咽はぴくりとも動かず、ただ血生臭い風だけが穿たれた穴の中を吹き抜ける。
ほらね、だからいったでしょう。永遠に沈まない太陽なんてないの。 懐かしい、暖かい声が耳の奥でこだまする。心を失った獣にその正体など分からない。 もう、理解しようとすらしない。優しくもあたたかくもなく、ただ無感動な風がだけが体中に広がっていく。 その息吹にさらされた漆黒の双眸に、どこまでも澄みきった銀の雫が宿った。 今まで一度もそんなことはなかったにもかかわらず、血の臭気が沁みたのだろうと、そう思った。 思おうとした。 違う。 微かな怒気をはらんだ叫び。 諭すような声音に獣は顔をあげる。 その拍子に、支えを無くした銀の粒が頬を伝う。 二度と消えることの無い咎の緋をその身に受けとって。 涙の軌跡が獣の胸元から足、鉤爪に金の紋様を描く。
獣は独りではなかったのだ。 帰る場所もあった。 ようやく気づいたのは、そのすべてが輝きを取り戻したばかりの鋭い爪に奪われた後だった。 獣は還ることを失った。 ようやく、ようやく生き抜くことができたというのに。 いまさら還ったところで一体何になる。 いまさら――――すべては遅すぎた。
同じことよ、永遠の苦しみなんて無いの。 失われた心にはそれが懐かしいものであることが分かった。 獣は何も知るべきではない。 知ってしまえばそれは永久に獣の心を苛む。 そう、獣に消えることのない責め苦を負わせる必要はない。 本当に独りになってしまった獣への、それがせめてもの慰め。 そうだろう、と瞼裏に浮かぶ鬱金の影に問う。 心は失われたままで良いのだ。 沈みゆく夕陽に、その紅にすべてを溶かしこんで、消えてしまえばいい。――――それでいい。 もの言いたげな漆黒の瞳が幽かに揺れた。
理由もなく、涙を頬に滑らせていた獣は夕焼けの空に何かを失ったような気がした。 それが何なのか分からないまま、光の最後の一片は赤く染まった草の海の果てに消えた。 沈まない太陽はない。 今となってはそれは、ごく当たり前のことのように思われた。 あたりが闇に包まれる。底のない深淵の闇。 目を閉じると、その眼裏に愛しい姿が浮かんで、一瞬のうちにはじけて消えた。 粉々となったそれは、はらはらと散ってすきとおった水面に吸い込まれていく。
長い鬱金色の髪を背中に揺らして。 見たこともないような不思議で、色鮮やかな衣を纏って。 優しい漆黒の双眸で獣を見つめて。
闇の中でも変わらずに輝く金色の波が、煌く。 眼裏の情景は二度と戻っては来ない。 もう、何処にも帰る必要はないのだ。 誰かに会うことも、狩りをすることもない。 そのことに、悲しみも、喜びも見出せないまま獣は、無感動に重いまぶたを上げる。
獣を包み込んだこどくの闇が、音を立てて崩れていくのが見てとれた。
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