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クリエイター名  桂木香椰
サンプル

 ―― 静寂 ――


 南の女神、朱の炎姫アサンの巫女は、類稀な舞い手。
 はじめの巫女から数十……数百と代を重ね、当代の娘もまた、そう呼ばれるに足る技量。
 彼の少女の名は、バティスタ。神殿に居並ぶ神官・祭司らは、アズィーシャ・バティス
タと称す。
 そして、麗しき神舞を舞う麗しきその身に冠せられし名は――静寂の神舞姫。


「バティスタ」
 低い声が、耳朶を打つ。
 南の聖都の、要。朱の神殿の最奥に在る少女は、懐かしい呼び様に朱の瞳を細めた。
 女神アサンの唯一の巫女として、神殿に上がり五年。敬意と畏怖を篭めて神舞姫(アズ
ィーシャ)バティスタと呼ぶ者はあっても、ただ少女の名を呼び捨てる者は、此処にはい
ない。
 少女は、開け放たれた窓へと近付く。渦巻く炎を模した孔雀石の柱と桟。そこに、褐色
の手がひっかかっていた。とん、ともう片方の手が現れて、数瞬。ひらり、と褐色の肌に
多色の瞳を持つ、二十歳過ぎの青年が、窓を乗り越えてくる。
「ひさしぶりだな。バティスタ」
 繰り返す声は、お世辞にも滑らかとは言えない、砂粒を擦り合せるように掠れたもの。
 数年会わぬままだった、友とも言えぬ友――だが、分かち難い記憶を共有する青年に、少
女は破顔した。
「カイ……? カイ! 本当に、ひさしぶりだわ。ねえ、本当に本物?」
「あんた、数年ぶりに会った人間に最初の台詞が、それかよ……」
 がしがし、とすっぽり被った布ごと、青年は髪をかきあげる。すとん、と座り込んだそ
の前に、少女は覗き込むように腰を屈めた。
「ねえ、本当に本物? あたしの……記憶の、幻影じゃなくって?」
 喜びと、不安と――切なさが半々。
 そんな表情を浮かべる少女は、青年はため息を吐いた。
 少女のゆるやかに波打つ長い髪が、目の前にちらつく。目の縁に残像が残るような、鮮
やかな彩。女神の色彩。
 身勝手な女神に拾い上げられた、証。
「あんたの噂は、ずっと聞いてた。世に名高きアサンの舞い手、当代の巫女バティスタは――
誰の手で爪弾かれた音とも、どんな名手が歌い上げた歌とも、合わせて踊ろうとはしない。
ただ、彼女は無音の場においてのみ、素晴らしい舞を見せる。音ひとつしない神殿の祈り
の間に、ただただ彼女はその身に纏う衣の羽擦れのみを伴に、舞う。それゆえに、彼女の
ふたつ名は――静寂の神舞姫」
「そんなの、知らない。ただ、あたしは踊るだけ。そのためだけに、ここにいるんだもの」
 しなやかな手が傍らから取った果実をひとつ、片膝を抱え床に座ったままの青年に渡す。
そして、当人はその傍らに回り、窓の桟に細腰を預けるかたち。
「喪われた音と共に踊ることは、楽しいか?」
「喪われてなんか、いないわ。いまも、ここにあるから」
 抱き締めるように両の手を己の胸に当て、少女は囁く。
「はっきり、聴こえるもの。だから、その音を濁す他の音が、邪魔なだけ。『静寂の神舞姫』
なんて、馬鹿馬鹿しい徒名だわ。あたしは、きちんと音を聴いてるのに」
「死んだ奴の声を聴き、死んだ奴の指が奏でる樂の音で踊るのは、寂しくはないのか?」
「……そんなことを言いに、こんな南の果てまで来たの?」
 ふたり、正面を見据えたまま。視線を交わらせることなく、ひどく乾いた会話を重ねる。
 カイは、無闇に受け取った果実を撫で、美味くもなさそうにひとくち、齧った。
「別に。ただ、心配になっただけだ」
「どんな、心配」
「ただ……死人に殉じて踊るあんたが、不安になっただけだ」
「それこそ、余計なお世話。あたしは、あのひとが希んだから巫女になったの。あのひと
が希んだから、こうやって踊るの。だから、踊ることに妥協はしない。踊りたいように、
踊るだけ。ただただ、ね」
 少女をこの地へ導いたあのひと。あのひとの死を同じく見取った青年。この青年は少女
にとって特別な存在だった。
 ――喪ったものの、価値ゆえに。
「踊ると、あのひとの音がよく聴こえる。こうやって腕を伸ばせばいい。こうやって足を
踏めばいい。あのひとの奏でる音は、ひどく心地好いの。だから、あたしは幸せ。あのひ
とと踊れるあたしに、他の希みなんてない。なんにも心配は要らないわ」
 にこり、と華やかに笑って、やっと少女は青年に顔を向ける。
 底なしの朱に染まった髪のように、清み切り仄光る微笑み。青年は吊られて苦く、笑み
らしきものを返すしかない。
 ふと、少女は寒々しいほど広い部屋の果て、両開きに作られた扉を見遣った。
「誰?」
「クナです。バティスタ様。あの……祈りのお時間に。早くお越し下さいませ」
 命じる者特有の凛とした少女の誰何に、遠慮がちな幼い少女の応え。
「わかりました。すぐに行きます」
 素っ気なく返して、少女は軽やかに身を起こす。
「慌しくて悪いわね、カイ。この城市には、どれほどいるの?」
「次の水の星期までは」
「ふうん……まあ、あたしの神舞を一度は見て。とりあえず、あたしは行かなきゃ」
 ひらひら、と手を振って、少女は扉へと向かう。
 その背を、青年はじっと見詰める、と。
 少女は、ひどく何気ないそぶりで、振り返った。
「神舞を舞っているときね、ひどく良くあのひとの音が聴こえる。そう言ったのは、嘘じ
ゃないわ」
 ――どんなに嘘にしたくとも、嘘になどできない。
 しわぶきひとつ聴こえない。ひとが息遣いさえも潜めてしまう、そんな息苦しいだけの
空間。纏わり着く女神への尊崇。少女の脆弱な身では扱い切れない、仰ぎ見る瞳、瞳、瞳。
 かたくかたく耳も心も閉ざし、少女は信じもしない神へ繋がる舞を、舞う。
 ただ、心はめちゃくちゃに、身体は定められた動きを、なぞる。
 そんな無為なときを、重ねて重ねて。
 踏み締める足に、鼓動が聞こえる。
 逸らした指先に、風が生まれる。
 振動は幾重にも重なり、揺らぎ――揺らぎの果てに、音が鳴り始める。
 自然、閉じた瞼を透かし、見えるのは月琴を抱えた姿。
 勘に触る余裕を含む薄い唇が、低く高く紡ぐ歌。
 ――ああ……。
 少女は、うっとりと微笑む。
 泥で充ちた沼に沈むように、ぬくもってどこかねとついた安堵の想い。
 爪の先からじわりと、髪の先の先まで熱が宿り、少女の戒めを溶かす。
 ――そこに、いたんだ……。
 幾重にも色糸と水晶を絡め、華美に過ぎる薄布で縛られた腕を伸ばす。
 神に祈るよりも余程真摯に、縋り着こうとする。
 抱き締めて、抱き寄せて。
 どちらも、以前のあのひとの前では、できなかったこと。
 ――だけど。
「でもね、舞って舞って、舞い続けているときにね、ふと……なにも、聴こえなくなると
きがあるの。糸みたいにあたしの身体に絡み付いて、あたしを踊らせてくれるあの音が、
嘘みたいに消えてしまう一瞬がある。そのとき、あたしのなかもそとも真っ黒で、虚ろで、
なにもなくなる。地を踏み拉く足も、空を抱く腕も、意味がなくなる。たぶん、その瞬間
の想いのことを―――」
 ――寂しいって、言うのね。
 言葉にならない言葉を紡ぎ、少女は重い扉を押した。
 舞の果てに在る虚無。無音の闇の底に、絶望的な明るさで光るものが、ひとつだけ。
 あのひとが、生きていたこと。裏返しに、いま、あのひとがいないこと。
 本当の希みは、ただひとつだけ。
 ――あのひとの生きた音を、あたしに返して。
 
 
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