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クリエイター名  桂木香椰
サンプル

   ――BLUE ESCAPE――



 最初の記憶の果てにあるのは、青。
 空よりもむしろ、深い海の色にも似た半透明な色彩に、繊細な絵が浮かび上がる。
 それを両手で包み込んで、日に透かすときの至福。蕩けそうに、うっとりとした心地。
 この世でいちばん綺麗な綺麗な、真槻(まつき)の宝物。
 そして傷。

        ◇◆  ◆◇◆  ◆◇

 からんからん、と背中でドアベルが間抜けな音を立てる。
 逃げ出すように思われないように、でも心は一歩でも遠くに離れたくて、半端な速さで
真槻は足を動かし続けた。
『さよなら』
 こんな時でなければ口にしない、いやに改まった別れの言葉。
 吐き出すときの吹っ切れた安堵と、胸の中身を抉り取られたような心地。代わり映えの
しない、ルーティン。
 ――これで、何度目なのか。
 数えるのも、面倒。忘れるために、嫌な思いをしないために繰り返した言葉だから、後
悔はないはず。そんなものがあったら、何の意味もない。
 真槻が好きなのは、遊びの恋愛。
 相手の仕草が鼻に付いたり、独占欲や嫉妬やその他、生臭い雰囲気がしたら、すぐ逃げ
る。それが、適当に楽しむためのルール。
 でも、いつも迷う。
 あたたかくて柔らかくて、心地の好い関係と、真槻を不安にさせる束縛。そのボーダー
ラインは、いつも見え難い。ここまでだろう、と思って別れを切り出しても、切り出した
瞬間に曖昧になる。本当に、ここまででいいのか。あと瞬きひとつ分だけでも、傍にいら
れたんじゃないのか。
 結局は繰言。でも、迷いは尽きない。わがままを通したいだけなのに、難しい。
「久地……」
 確認するように、今度の相方の名を呟いてみる。
 久地圭介(くじけいすけ)。名前が――特に、姓が好きだった。久地、という響きが、格
好良かった。
 嫌いだったのは、説教くさい台詞。真槻を、無意識に子供扱いするところ。意地悪な性
格。
 好意と、嫌悪との天秤。まだ、ぎりぎり好意に傾いていた。だから、今のうちに別れて
おきたかった。
 大学の近くの、でも馴染みのない喫茶店。
 テーブルを立つ時に、口も付けなかったアイスティのグラスに指をぶつけた。倒れはい
なかったけど、痛みが、なんとなく骨の奥に残っている感じ。
 久地のブルーのシャツが、鮮やかだった。
 遠い昔、母さんが投げ付けたブローチと、同じ色。
 結婚記念日に父さんが贈った、ブルーカメオ。父さんの顔のすぐ横の壁に当たって、砕
けて落ちた。父さんの頬には、微かに血が滲んでいた。
 床には、ばらばらになった青。
 本気の恋だったから、壊れたら傷が出来た。
 ――遊びだったら、良かったのに。
「久地」
 ゆっくりと、真槻はくちずさむ。
 本物の情なんかない。だから、いなくなっても寂しくない。要らないって決めたら、一
緒にいてほしいなんて思わない。
「久地」
 要らない。もう知らない。関係ない。もう――真槻を、好きじゃなくたって。
 『さよなら』だから。
 『さよなら』って言ったから。
 もう、誰とでも、どんな女とでもいればいい。
 なのに。
「久地ぃ……」
 こんなに胸が痛いのは――多分、ただ単にタイミングを間違えてしまったから。
 真槻が終始リードするはずのゲームを、久地は何度となく崩してくれた。
 その意外性がよかったときもある。
 でも、真槻を差し置いて他のひととキスするのは、反則。
 どちらにしても、終わりにしてみれば、所詮は遊び。すぐに忘れてしまうはず。
 大丈夫。真槻は、傷付かない。本気なんかじゃ、なかったんだから。
 好き、だったけれど。
「久地の、ばかぁ……」
 ――なのになんで、真槻は泣いているのか。
 頭では分り切っているのに、ひとりでに涙だけが零れていく。
 ぐい、と乱暴に拭っても、手の甲を伝っていじましく腕を伝っていく。
「もう……ッや」
 境界線が、揺らいでしまう。
 出会い頭に胸の内側を刳り貫かれたような、不当な喪失感。
 嫌だ。
 こんな想いは、嫌だ。
 日曜の街。たくさんの靴音。そのなかに、久地の、少し片足を引き摺るような足音を捜
してしまう。
 こんなの、違う。
 勝手に、馴染みの音を拾い上げてしまうのも、その主が真槻の背後で止まるのを、全身
で聞いてしまうのも。
 罵る言葉なんてひとつも思い浮かばずに、ただ、抱いてくれる腕に焦がれるのも。
 ぎゅう、と目を閉じて、俯く。
 すぐに振り向いて、もう一秒だけでいいから、一緒にいたい。
 そんなの、嘘。
 でも、こうやって目を塞いでいると、逃げるべき方向が後ろなのか、前なのかも、わか
らなくなってしまう。
 ――どうすれば、いい?
 久地が――真槻を、見詰めている。
 ぽっかりと見開いた瞳に映る空はひどく青くて――どうしようもなく、欠けた胸に沁みた。
 
 
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