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クリエイター名 |
哉色戯琴 |
現代・恋愛系
ちょっと精神系 ―――暗転観覚
見慣れた悪夢のジャメ・ビュ。未視感が身体中を覆っている不快感。赤い部屋の真ん中に佇む巨大な人影。子供から見たら大人なんてみんな巨人だったな。ぼんやりとそんなことを考えながら、思考を逃がす。自衛のために、状況を、認識しない。
夢を見るたびに一瞬だけゾッとして、それからすべての感覚を失う。この二十年間何度も見ているはずなのに、未だに慣れないその光景。いつも最初だけはまるで知らないモノを見るように驚かされる、それは、未視感。既視感、ディジャ・ビュとはまったく正反対のソレ。
脳が起こす記憶の錯覚というのは、不安や恐怖を減らすために現れてくれることが多いのだと言う。確かいつかの講義で習った、いや、先生が教えてくれたんだったかな。人間は普段外的な時間軸、クロノス的なそれに従って動いている。そしてそれだけが唯一の時間で、やり直しは出来ない――でも本当は内的なそれ、カイロス的な時間軸というものがこの世にはあるようで。巻き戻し、早送り、停滞、流動で不定形のそれは、歪曲した動き方をする。ただし、日常生活においてはクロノス的な時間の印象が強いために、背景に押しやられて何も判らない。 だからこうやってそれを自覚するのはいつも夢の中。七歳の俺はいつも知らないものを見るように、知っているものに対峙する。内的な時間の中で、更に起こる内的な時間の捩じれ。自分の心と比べたら一体どっちが歪んでいるんだろうか。考えて少しだけ滑稽になった。笑い出せはしないけれど。そんな風に何かを前面に押し出すことなんて、出来やしないけれど。
この時間が、俺の時間を止めた。何もかもを止めた。止めて、壊してしまった。カイロスの時計を徹底的に破壊しつくした光景は、今でも俺の中に焼き付けられる。知らないものを見るように、いつも、ドアを開けると広がっている光景を眺めるんだ。二つの身体。一つの人間と一つの死体。認識出来なかったのは、俺が子供だったから。今は違うはずなのに、いつも、夢の中の俺は子供を繰り返す。捻くれて捩れた時間に身を任せながら、赤い部屋の中央に佇む男を見る。
今は、そんなに辛くない。そんなに怖くない。昔は――先生に会えるまでは、この夢の中でも錯乱していた気がする。クロノスの中では表出されないすべての感情をここで搾り出していた。カイロスにすべてを発散していた。エネルギー保存の法則だ、溜めて行けない。どこかで必ず発散が必要になる。だから、ここで。 あの時はしなかった。泣き叫んで喚いて逃げ出したりしなかった、ただ茫然としていた。茫然と、眺めていた。滅多裂き。八つ裂き? 血塗れになったのは祖母の身体。いつも出迎えてくれるはずの彼女が出て来てくれなくて、訝って。 覗いた部屋の中に倒れていた姿。紅くて赤くて朱くて黒くて暗くて玄い。どこまでも盲い世界の中に佇む、男。それは父親。倒れた女。それは、祖母。ずたずたに。じぐざぐに。ちぐはぐに。俺はただ立っていた、逃げることもせず叫ぶこともせず怯えることもせずにただ立っていた。皺だらけの腕を放り出して苦悶の表情を深く穿ったままに固まってしまった祖母を見下ろしながら、鬼のような愉悦と狂気をその眼に宿らせた父を見下ろしながら、ただ、茫然と、呆然と。
だから今日もいつものように祖母を見下ろす。ただ記憶をなぞる、介入できない過去を。夢なのだからと割り切る冷めた自分は、もう七歳の子供ではないのだから。二十年を過ごした大人なのだから。彼に、先生に、大人にまで時間を進めてもらったんだから。
見下ろす。 赤い中。 朱い中。 紅い中。 倒れたひとを。
「――ぅ、あ」
漏れるのは声。幼い自分のそれ。おかしい。可笑しい。犯しい冒しい侵しい。転がっている。腕。皺はない、それなりに逞しいそれ。男性特有の筋肉質な骨格。よく知ってる腕。知ってる腕。知ってる、知ってるそれ。知ってる? 真っ赤になった顔。黒い飛沫が散って。眼鏡が。飛んでるよ。先生、眼鏡が、飛んでる。赤い顔。赤く染められた顔。紅く塗りたくられた顔。朱くこびりついた色。違う。オカシイおかしい可笑しい、こんなのは、違う。知らない。知らない光景? 本当に? それも錯覚ではなくて? 事切れた表情、見開かれた眼は虚ろ。瞳孔は完全に弛緩して、現世なんてこれっぽっちも見ていない。俺の事なんて映していない。死んでる。死んでる? 先生が死んでる。白衣が紅い。着物も朱い。身体中が赤い。黒い。有機的な生臭さ、充満する鉄のニオイ、込み上げてくる嘔吐感、何も分からなくて身体が傾ぐ。ぺたりと壁に背中を持たせかけ、口元を押さえる。込み上げてくるものを抑える。
死んでる? 死んでいる。死んでいるのは、先生? 人懐っこいような笑顔、一つしか歳が違わないはずなのに俺とは全然違って。笑って元気にして。一緒に。たくさん過ごして。戻してもらって。クロノス。カイロス? 二つの時計に深く入り込むほどに介入して、俺を動かしてくれた、せんせい、が。
壁が鳴る音に、部屋の中央に立っていた男がふっとその顔を俺に向けた。どうしてだか表情が判らない。ニヤリ、笑う口元。眼鏡が光を反射して奥が見えない。眼鏡? どうして? 父さんは、眼鏡なんて、掛けてなかった。誰? それも違う? 先生を。先生を殺した、のは? 血走った眼、歪んだ口元、返り血で真っ赤に染められた白衣。白衣? 着物もしとどに濡れて。着物?
ああ、もう、気が、変に。
先生が立ってる、先生が倒れてる。先生が先生を殺してる。先生が先生に殺されていた。死んで。生きて。殺して。殺されて。どっちも先生で。どっちも俺の大切な先生で。先生。先生が。センセイ先生せんせいが――
見慣れた悪夢のジャメ・ビュ。 見慣れない悪夢のディジャ・ビュ。
「か、どゃ――せんせ、ぃ?」
やっと搾り出した声は、現在の自分のそれで。 見れば俺も身体に白衣を纏っていて。 じっとりと肌に貼り付くシャツの感触が、不快で。 気持ち悪くて、吐き気がした。
「ん? どーした?」 「あ、」 「おいおい、仮眠取ってたはずだろー? 更にボッとしてるぞ、嫌な夢でも見たのか?」 「あ、いえ――なんでもありません。大丈夫、です」
ぺけぺけ、頭を叩いてくる門屋将太郎の手を軽く退け、楷巽はカルテの整理を続ける。 ――先生が、先生を、殺す。 悪いことが起きる嫌な予感を内に止める彼の事を将太郎が記憶の全てと共に忘れてしまうのは、それからまもなくの事だった。
<<"Blind Memory" over>>
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