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クリエイター名 |
北見遼 |
サンプル
「地底の海」
「貝殻を見つけたの」 彼女が嬉しげにそう言うので、その白い手に招かれるままに、彼はそこへ向かった。 天を見上げれば、真昼の太陽がじりじりと彼らを照りつけてくる。深い谷には、白い結晶が岩肌一面に貼りついていて、日を反射していっそう目映く輝いている。 眩しさに目を細めながら、彼は彼女の指差した場所を見やった。白い岩陰に、手のひらで包み込めるほどの小さな巻き貝が、ぽつんと置き去りにされたようにあった。 「ね? 本当にちゃんと形が残ってるでしょう?」 振り返る彼女は、嬉しさばかりではなく、どこか得意気な表情を覗かせていた。 「うん、珍しいね。こんなにきれいに原形をとどめてるなんて。うまくやれば結構、高い値がつきそうだ」 「どうしてそう現金なことばっかり言うのよ。せっかく海の底まで来たっていうのに」 彼の言葉に、彼女は頬を膨らませる。彼は苦笑しながら、ごめんと短く謝った。 やはり、こんなところで現金な話を持ち出したのはまずかったかもしれない、と彼は頭を掻いた。たとえそれが、法外な値のつく稀少品であったとしても。彼女が求めていたのは乾いた現実ではなく、水をたたえた遠い過去だったのだから。
唐突に海の底が見たいとねだられて、彼は彼女をこの谷に連れてきた。 古い時代、深海の底だったというこの場所は、海塩が結晶になっている以外、海らしい形跡は見当たらない。いや、今となってはどこへ行こうと同じことだろう。 世界は砂に覆われている。 かつて地表の大半を占めていた海洋は、急速に広がる砂に浸食された。そうして海は消えた。代わりに大地を席捲したのは、砂の海だった。 だから海洋生物の化石は、欠片を見つけただけでも功績となる。生活用水すらまともに供給できなくなり始めてからは、わざわざ発掘をするような酔狂な人間など激減したけれど。
彼女は恐る恐る貝殻に手を伸ばし、そっと持ち上げた。壊さないように注意深く、彼女はそれを耳にあてる。 「……聞こえないわ」 彼女はひどく残念そうな顔で、耳からゆっくり貝殻を離した。 「貝殻を耳にあてると、海の音が聞こえるって話を読んだことがあるの。でも、やっぱり聞こえなかった。風と、砂のざわめく音以外は何も」 彼女は目を伏せて呟く。岩肌の乱反射する光が、彼女の長い睫毛の下に濃い陰を生む。それが憂いに濡れているように見えて、彼は思わず瞑目する。 彼女にもわかってはいるのだろう。かつて貝殻が伝えたのは、浜辺で打ち寄せる波の音。海も、水すらも涸れたこの砂漠で、古代の音を聞くことはできないのだと。 でも、と彼は唇を引き結ぶ。 「そうじゃない。それが海の音なんだよ」 驚いて目を見張る彼女に、彼は続ける。 「確かに昔とは違うかもしれない。だけど、風と砂のざわめきこそが海の音色なんだ」 たとえ水は涸れても海はある。風に流れ、広漠とたゆとう砂の海。 彼女は小さく頷くと、視線を手の中の貝殻に落とした。 ちょうどその折、谷底に風が吹いた。 遠い海を渡り、砂とともにすべてを浚う風が、深い海の底にも吹き込んだのだ。 それはいつもの突風ではなく、肌を優しく撫でるような微風だった。だが、それでもわずかに世界の一部を砂に変えた。 「あーあ。せっかくの記念品がなくなっちゃった」 彼女はうらめしげに、風を生んだ空を見上げた。手の中の貝殻は風によって崩れ、一握の砂となっていたのだ。 「結局、砂になるのね。……みんな」 砂の塊を指先で弄びながら、彼女はうつむいた。貝殻の残骸をはじく、その白い手を取って彼は静かに告げる。 「さあ、そろそろ行こう。洪砂が来る前に帰らないと」 洪砂が押し寄せればひとたまりもない。たとえ規模の小さなものでも、洪砂が過ぎた後には地形が一変する。それほどに凄まじい威力を持っているのだ。 だから彼はそう促したのだが、彼女は小さく首を振った。 「どうせ砂になるなら、海の底で眠りたいわ」 「その時には、僕がまた連れてきてあげるよ」 大地が砂に呑み込まれてからというもの、人間の体にも礫化して砂のように剥落する症状が起こり始めた。一種の病だと言われるが、真相も対処法も不明のままだ。人間は体の内側からも砂に浸食されている。 遠からず、彼女もまた砂に呑み込まれるだろう。彼女に限ったことではない。水を主成分とする生き物は、もはやこの世界で生き延びることはできない。 すでに世界のあちこちで、砂に適合した生き物が多く生まれている。人間の中にさえ、砂に耐性を持つ種が生まれ始めているのだ。 やがて世界は砂の中に埋没する。水に支えられた旧時代の遺物は、砂とともに風に浚われ、地上から消え失せる。 その時、世界の崩壊を見届けるのが彼の役目となるだろう。それが砂から生まれた者の宿命なのだから。 彼女の痩せた肩を抱き寄せ、彼はそっと耳元でささやいた。 「――帰ったら、ゆっくりおやすみ」 砂に囲まれ、海の音を聞きながら眠ろう。いつか砂の海に溶け込む、その日まで。
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