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クリエイター名  小枝野カケス
星綱引きの犬

■星綱引きの犬


 その日までショータは、大きく力の強い者が、小さく力の弱い者を守るのだと思っていました。
 親が子供を守るように。子供がさらに小さな弟や妹を守るように。
 ショータにはお父さんがいません。
 勤めていた工場の機械の事故で、二年前に亡くなったのです。
 横たわったお父さんにとりすがって泣いたお母さんの、子供のような激しい悲しみを、昨日のことのように覚えています。妹のモモカは意味もわからず、きょとんとお母さんを見上げた後、そでを引いても振り返ってもらえない淋しさに、声をあげて泣き出しました。
 ショータは唇をかみしめて。だけど泣くことはできませんでした。この家にはもう、男は自分一人なのだから、お父さんの代わりに家族を守るのも、きっと自分の役目だと、強く思いこんだのです。
 そうして、弱音をはかずに二年。
 小学校五年生になったショータは、平均より体格もよく力も強く、しっかり者のクラスのリーダーになっていました。
「無理に笑わなくてもいいんじゃないの?」と。以前、学校を休みがちなクラスメイトに言われたことがあります。
 ショータは首を振りました。無理をしているつもりはないのです。ただいつも、頭の中に、笑っているお父さんの顔があるだけで。

 その犬に会ったのは、夕暮れの公園でした。
 仕事で遅くなるお母さんの代わりに、近くのスーパーに、晩ごはんのお総菜を買いに行った、その帰りの道でのできごとです。
 風は温み、桜が満開でした。
 まだ散るのには早いうす紅の花びらが、ショータの自転車の車輪をかすめて、道の端に溜まります。
 ショータは少し考えて、強くペダルを踏み込みました。公園の、桜並木を見てから帰ろうと思ったのです。
 少しだけ、一人になりたかったのかもしれません。
 赤やオレンジ。紫から青。上空に向かって夜の色へと、空は刻々と変化します。
 静かな公園に人の気配はありません。
 時が止まってしまったようです。…静かすぎやしないでしょうか。
 だんだんと、ショータは怖くなりました。
 花見をする人の姿も、犬と散歩を楽しむ人の姿もないのです。
 力一杯ペダルを漕いでも、なぜだかうまく進みません。出口が近くならないのです。
 背中のうぶ毛がいっせいに逆立ち、いやな汗が伝いました。
 深呼吸をしようと、ショータは大きく息を吸い込みます。
 その時です。
「ちょいと。ちょいとごめんなすって。そこの全然動かない自転車を漕いでるぼっちゃん。そいつをいったんやめて、アッシに手を貸しちゃあもらえませんかい」
「ごめんこうむります!」
 ショータは叫びました。叫びながら、自分が何を叫んだのか、覚えていませんでした。
 恐怖のあまり、頭が真っ白になったのです。
「ほっほっほっ。またずいぶんと向こうっ気の強いぼっちゃんだねえ。アッシら仲良くなれそうですね」
 バケモノと仲良くなってたまるか、とショータは心の中で決めつけました。怒りのあまり勢い込んで、つい振り返ってしまいます。
「え……?」
 誰もいません。
 ショータはぐるりと辺りを見回しました。
 今が盛りの桜並木と無人の広場、古ぼけたベンチがあるだけです。
「ここでやんす。下、下」
 しわがれた声に誘われて、視線を下に向けますと、なるほど小さな影が、広場の真ん中にポツンとあります。なおさら目をこらしますと、影はうす茶色をしていて、なにやらしきりと震えています。
「……犬?」
 ショータはつぶやきました。
「いかにもアッシは犬でござんす。柴犬で名は佐藤モンジロー。よろしくおたのもうしやす。で、ぼっちゃんのお名前は?」
 引き綱に引かれてよろめきながら、犬は目だけをこちらに向けて、笑ったように、ショータには見えました。
(うわっ…犬って笑うんだ。でもこのヨボヨボ犬、どこかで見たような…)
 逃げ出したくなる気持ちをはげまして、ショータは犬に近づきました。
 モンジローと名のった柴犬は、ひどく小さく、年老いていて、今にも倒れそうでした。
 尾はたれ下がりやせこけて、毛並みにツヤもありません。足元がおぼつかないのか、とりおりペタリと尻餅をつきます。引き綱に引かれて、やっと立っているようなありさまなのです。ダラリとたれた舌を揺らして、せわしく息をしています。
 とても恐ろしいバケモノには見えません。
「ショータ。笹岡ショータ。おまえってもしかして、5年2組の佐藤ケンイチのペット?」
 見覚えがあるはずです。学校を休みがちなクラスメイト。あの小柄な少年が、大事に散歩に連れだっていたのがこの老犬でした。
 見かけたのは一度きりでしたが、ななめに歩く犬が珍しく、はっきりと覚えていました。
「おや!ウチのぼっちゃんのお友達で?」
 嬉しそうに、モンジローは尻尾を振ります。
 ショータは返事に困りました。
 病弱なケンイチは、休み時間もみんなと騒ぐでもなく、たいてい一人で本を読んでいます。かと思うと、ときおりドキリとする言葉を向けてくるのです。ショータは苦手でした。
「それよりご主人はどこだよ?このところ学校にも来てないし。犬を木につないだままほったらかしなんて、ひどいヤツだなあ」
「いいえショータさん。ぼっちゃんはひどいヤツじゃあございやせん。今も病院で勇敢に、病気と闘っておいでだ。それに良く見てくだせぇ。アッシの引き綱の先は、木にはつながっちゃあいないでしょう?」
 モンジローの言葉に、ショータは何気なく、赤い首輪から伸びる引き綱の結び先を探しました。
 桜の木には結ばれていません。外灯も通り越しました。ベンチもフェンスも町並みも過ぎ、もっと遠く。もっと高く。空へ。
 夕暮れの空に一つだけ光る、うす紅の星に真っ直ぐに、綱は向かっておりました。
「あれが、ぼっちゃんの星でござんす」
「な なんだって?」
「人は死ぬとお星様になると言うでしょう?」
「まさか……まさか佐藤、死んだのか?」
 友人とも言えないクラスメイトの生死に、ショータの身体は凍りつきました。苦手な少年です。耳に痛い言葉ばかりの同級生です。だけどケンイチだけなのです。無理に笑うなとたしなめてくれたのは。
 モンジローは目を細めて、ショータを見つめました。そして両足を踏ん張ると、やせた背を大きく反らせます。
 まるで星と綱引きをしているみたいに。
「やっぱりショータさんは優しいお人だねえ。大丈夫、このモンジローに任せておくんなさい。星が空の真ん中にのぼりきらなければ、ぼっちゃんは戻ってこられます。アッシの目の黒いうちは、あの位置から1ミリたりと動かしませんとも。モンジは風より速く走る力持ち。若犬の頃はそんなふうに、ぼっちゃんに、誉めてもらったアッシだもの」
 ショータは星を見、それからモンジローを見つめました。この犬の、どこが老いぼれだというのでしょう。この小さな命の、どこが弱々しいというのでしょう。
「……俺も手伝うよモンジロー」
 勢いあまって尻餅をついている犬の引き綱に、ショータは手を伸ばします。
「そりゃあありがたい。そしたらショータさん。ちょっとだけアッシの代わりに、綱を持っていておくんなさい。アッシはひとっ走り綱を渡って、星を落としてまいりやす。なあに。ぼっちゃんでなくてもかまいますまい。この空には、星は一つで充分だからねえ」
「一つってまさか……ちょっと待てまさか。おまえっ…だめだ!」
 ひらりと綱に乗ったモンジローは、黒々とした優しい目で、ショータにうなずきました。
「優しいショータさん。家族想いで我慢強いところが、アッシのぼっちゃんによく似てらっしゃる。アッシはアッシにしかできないことをするのです。犬と生まれたからには、これ以上の幸せはございやせん。ぼっちゃんの代わりはいないように。ショータさんの代わりがいないように。モンジローはぼっちゃんと歩くのが大好きでやんした。どうかショータさん、たまにはこの道を、ぼっちゃんと一緒に歩いておくんなさい」
 だからそのままでいいのだと。誰かの代わりになることはないのだと、肩をたたかれたような気がしました。
 お父さんがいなくなってから、初めて流した涙が乾いたころ。
 空には星が輝いていました。
 モンジローの毛並みの色に、とてもよく似た、きれいなうす茶色の星でした。

 それは年老いた犬の話です。
 桜の花が春をよび、風が優しい季節になると、ショータは今でも思い出します。
 やせた小さな身体で、おとろえた足を踏ん張って、遠くなった耳をピンと立て、ほこらしく尾を振り立てて、風より速く空にかけのぼっていった一匹の犬のことを。
 いつか、隣を歩く親友に、聞いてもらいたいと思うのです。
 
 
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