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クリエイター名  小枝野カケス
ハーフトーン

■ハーフトーン


 卒業式といっても、特別な感慨はなかった。
 皆のように、僕は騒げなかったし、開放感もなかったし、もちろん泣けもしなかった。興奮も喪失もない。退屈とも少し違って、ぼんやりと壇上を見ている。
 卒業が、一つの季節の終わりを明確にするための儀式だとすれば、僕の卒業式は半年前に終わっていた。
 彼の背を、何もできずに、ただ、見送ったときに。

 津上は親類のガラス工場に就職するそうだ。直接彼から聞いたわけではない。僕らはあれから一度も口をきく機会がなかったし、そういう努力もしなかった。
 クラスメートの藤本明里が仕入れた情報に、「あの鋼鉄の神経で、ずいぶん繊細なものを扱うんだね」と、とってつけたように笑ってみせたのが3日前。彼女から津上のことが好きなのだ、と相談を受けた事など百年も昔の出来事に思える。

『津上くん、会うなり高瀬はムチャしてないかって聞くんだよ?卒業直前自主退学のアンタに優等生の心配なんて百年早いよってアタマはたいておいたから』

 彼女は笑って、勇ましく右手を振る。一筋の翳りもない綺麗な瞳が、嬉しくて羨ましくて眩しかった。僕はわざとらしく声を低めて依頼する。

『今度会ったら僕の分も頼むよ。利き手で。グーで。思いっきり』

 ハハハ、と。吐息過剰に笑ったが、ちゃんと笑い声になったかは解らなかった。
 なぜ自分でやらないの?と。
 疑問を口にしないのが、彼女の聡さで優しさだ。気づいたのはずいぶん遅かったけど。気づいた瞬間に終わってしまっていたけれど。キミを好きになって本当によかった。自慢できない中学三年間で、異性に対する趣味の良さは生涯自慢できるように思える。
 ありがとう。


 起立と礼と着席を、機械的に繰り返しながら、来賓の祝辞と校長の挨拶は、まったく耳に入らなかった。
 僕はいわゆる有名高校に進学し、父の言う順風満帆な人生を送る。
 そう悪い未来でもないだろう。僕の一部はもう死んでいた。きっと進んで自分で殺した。
 雨が降りそうだ。空は優しい灰色で、四角い窓からのぞいている。
 羨んでいたのではないと思う。僕と彼とは違いすぎる。そう、理性的に割り切れるものならば。
 津上は僕の絵をうまいと言った。子供のようにはしゃいで、画布に触り、慎重に絵の具の上を辿って。光に翳し、影になると身体を退き、僕の動かす絵筆の先をいつまでも目で追っていた。静かに。黙って。祈るように。
 滑稽だと、僕は思った。思った自分が惨めだった。
 才能の優劣は、残酷なほどに決していた。彼は生涯知るまいが。僕は津上が気まぐれに描き出す世界に、いつも頭を垂れていたから。
 続けていく才能。彼にはそれがある。役人になっても、悪人になっても、見知らぬ土地でも疲れ果てても、死ぬまで。彼は絵にかかわって生きるだろう。僕にはできないことだった。真っ白い紙に誰かの色を懸命にトレースしている自分に気づいたら、そろそろ潮時だろうと思う。
 僕は生涯、絵筆は持たない。


 担任の教師が、気がかりそうにこちらを見ている。僕の顔色が悪いのは、大役を控えた緊張のせいだと都合の良い勘違いをしているのだろう。
 生徒と父兄の動揺を理由に、津上の処分を決めた彼らだ。
 答辞の文面を、すっかり忘れ去って、教師と父兄と生徒一同を思いきり動揺させてやろうかとも思ったが、また津上に笑われそうなのでやめた。
 しかし、なぜだろう足場が不安定だ。身じろぎだけで踏み抜きそうだ。堆積していた青と灰色の色彩が、カサカサに乾いて剥落していく。今は世界がひどく脆い。支えがなければ竦みそうだ。
 だけど。
 僕は一枚の絵を持っている。
 青灰色に煙った街。影を振り払って走る少年の後ろ姿。細かい雨の降る街の住人。
 それは津上か、あるいは僕かもしれないけれど、僕は確かめる術を持たなかった。それは心の奥の方で、沈んで沈んで、際限なく沈んで。
 ほら、今、隠れてしまった。
 誰もが。
 思う人間にはなれない、と。津上もまた、思っていてのだろうか。
 焦がれて、いたのだろうか。
 僕は優等生のままで卒業する。彼の唇はあのとき確かに「ありがとう」と動いた。
 今なら憧れ続けたあの色を出せそうな気がしたが、やはり無理だろうか。

 在校生の送辞の後、極めて厳かに、僕の名前が呼ばれる。
 本当に謝意と感謝を述べたい人物は、今この会場のどこにもいない。
 僕はゆっくりと立ち上がった。
 これから彼が、どんな人生を送るにせよ、それは僕の人生よりも、数段豊かな色彩を誇ることだろう。
 そう思って笑った。幸せだと思った。
 折から雨。
 僕の理想は、青灰色の中に、生きている。
 
 
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