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クリエイター名  梨月ほのか
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 ふと正気を取り戻した時、周りに透き通るような闇が落ちていて、それで今は夜だと分かった。
 街灯が石畳を淡く照らしていて、闇に慣れた瞳には眩しい。虫のたかる光源に血膿色の瞳を眇めて、不意に彼は思い出す。彼は先程迄狭く黴臭い褥の中にいたはずだが、いかなる手段を用いてか、抜け出す事に成功していた。ともあれ、自由の身となったのは彼にとって喜ばしい事だった。行動は制限されないし、風を感じる事も出来る。
 酷く喉が乾いている事が気になったが、それよりも先に帰宅するべきだと足を早める。
 自分の足が望むままさ迷い歩き、彼はある建物の前で立ち止まった。
 細い細工の施された黒い門と庭師によってこぢんまりと整えられた針葉樹が見える。更に奥に視線を移すと、少々古びた雰囲気の建物の姿があり、荘重な邸宅だとすぐに悟る。
 刹那、自覚した既視感に彼は嘆息する。
 ──ここは私の家だ。
 どうして忘れていられたのだろう。帰る家があるのだから、息苦しい闇の中にいる必要などなかった。 手を伸ばせば門は抵抗なく開き、彼を迎え入れてくれた。
 滑らかな桧皮色の扉をしばし眺め、ノッカーに手を伸ばす。寸前まで伸ばされた手は、しかし、ゆるゆると下ろされた。
 静まりかえった家からは家族の気配がない。つまり、彼らは眠っているのだろう。
 彼らを眠りの世界から呼び醒ましてしまうのはしのびない。
 ──こんなに早く寝てしまうとは、皆疲れているのだろうか。
 しかし、実際には日付が変わって既に二刻が経つ。
 正常な時間の感覚を失してしまった事には気付かず、彼はそっと扉を開ける。
 一瞬鼻孔に届くのは薔薇の香り。階段の脇に置かれたエンドテーブルに一輪差されているのが見えた。この時間では花弁は窄んでしまっただろうが、残滓だけは残っていた。妹が好んで飾ったのだと、考えなくても知っている。
 見慣れた風景の筈なのに、小さな感動が胸に引っ掛かる。
 ──ただいま。
 小さく呟く声に返答はない。期待もしていない。
 不意に、彼は軽く喉を押さえた。忘れていた喉の渇きが再び潤沢を訴える。しかし、井戸の水を汲みに行くのも面倒で、階を上って自室へと向かった。
 眠ってしまえば喉の渇きがなど気にならないし、朝食の時にいくらでも喉を潤す事が出来る。
 部屋に入って、ベッドに横たわろうとした彼は、先客の姿を見付けた。
 ──父上。
 自分のベッドで寝る父に呆れながら、酔っているのだろうと勝手に結論付ける。
 しかし。
 ──違う。
 いかにも高価そうな家具で埋まる部屋の中には彼の私物はなかった。黒壇のデスクも分厚い書籍で満たされた本棚も、全て父しか持ちえない。
 ──これはどういう。
 自問しながらも、彼は無意識に父親の体に手を伸ばす。
 途端に再発した、ひりつくような喉の渇き。否、これは飢えと言っても大袈裟ではなかった。

「喉が乾いて死にそうなのです、父上」

 掠れた声で申し開きのように父親に告げる。起きる気配がないのを良い事に、彼は父親に覆い被さり、首筋に歯を埋めた。
 父親は低く唸いたが、今更声を上げてももう遅い。
 あまりにも鋭い歯は、肉をえぐりながら彼の望む『水』を汲み上げる。血液など錆臭いと思っていたが、思いの外味は甘く、後味も悪くない。
 血の出が悪くなってから、漸く彼は父親の体を離す。枯れ枝のように細くなってしまった父親は見るに耐えない。
 ──まだだ。
 紅をはいたように赤い唇を三日月に歪めて彼はまた歩きだした。
 この家にはまだ母と妹、それから住み込みで働く女が二人いる。これできっと渇きを潤すことが出きるのだ。

 ──彼の「凶気」の発露だった。
 
 
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