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クリエイター名 |
YAMIDEITEI |
ナガキトセツナ
「……魔王!」 暗い回廊の奥、玉座の間。 凛とした少女の呼びかけが、男に届く。 「ああ、君か。久し振り」 声にゆっくりと面を上げた男の顔には、些かの喜色が滲んでいる。そう呟く声は甘く、まるで愛しい恋人に向けるものかのよう。 万感が篭った対峙。 勇者。少女にとっては、待ち望んだ復讐の機会。十年の星霜を、ただそれのみに費やして過ごしてきた彼女にとって、この時に勝る望みは無い。 魔王。男にとっても、待ち望んだ邂逅。始まりは実に皮肉な気まぐれと偶然からだったが……永劫を生きる彼にとってすら、この一瞬一瞬は特別だった。 それはもう、喩えようも無い程に―― 「何時振りか。正直驚いたぞ。まさか生きているとは思わなかった」 「十年よ。貴方に、家族を、友人を、知人の全てを殺されてから――十年」 淡々と語り、冷たく魔王を見据える少女の瞳に感情の色は無い。彼は視線を受け流し、肩を揺すって笑う。 「人間は弱い。 お前を敢えて残した事も、気まぐれなイベントの一つに過ぎなかったのだがね」 たった九歳の少女が、その庇護者の悉くを失って一人生きていける可能性が、術が。一体、どれだけあろうか? この魔王の気まぐれで孤独に生き残った少女にとって、その後こそが地獄だったのは想像に難くない事実。 「だが、正解だった。まさかここまで楽しませてくれるとは」 「……」 勇者は取り合わない。魔王の軽口を流し、ゆっくりと身の丈に合わない黒い魔剣を引き抜いた。 「褒美をやろう。 ああ、例えば。世界の半分をくれてやると言ったら?」 「冗談? それともそれは、命乞い?」 言葉はにべもない。容赦なく、二人きりの空間を切り裂いた。 魔王は、そんな言葉を「まさか」と嘲る。嘲笑の対象は、その実勇者では無かったが―― 「愛すべき君への手向けだよ。 ようやく辿り着いて、一瞬で終わってしまっては面白くは無かろう?」 腰まである豪奢な金髪は、まるで絶対の魔王そのものだった。居城の玉座に一人「追い詰められて」尚、彼の自信と不遜さは僅かたりとも揺らぐ事は無い。 配下の全てを失っても、それが何事でも無いかのように佇んでいる。 「……決着を付けましょう?」 「失言だったかな」 どちらからともなく、戦いの空気を纏う。 (失言に、違いなかろうよ――) 魔王は僅かな失意と自嘲を噛んで、勇者の放った閃光を弾き飛ばした。 「号砲には、些か物足りないが……」 呟く彼は、何処か空虚。 運命等に縛られる彼ではないが、己が終末は理解出来る。 (もし、こんな偶然を設定した神なんてモノがいるのならば――) 魔王の声無き慟哭に、勇者の肌が粟立った。 捩れた因果は、誰にも戻しようが無い。 こればかりは、彼が全能の魔王であるが故に……どうなるモノでも無かった。 「殺して……いや、消してやる。塵も残さずに、ね」
「つまらない感傷と、誰が決めた――?」 磨き上げられた大理石の床に、一対の人影が映し出されている。 見上げるほど天井が高く、圧倒的な広さを抱く二人には相応しくない部屋。 底冷えのする空間には、冷たい外気が何処からか流れ込んでいた。 「そうですね。――差し当たっては、私が」 皮肉な言葉に、蒼衣が愉快そうに揺れた。 二人の立ち位置から少し離れて部屋の中央、その奥の豪華な椅子からは赤い絨毯が伸びている。石造りの部屋のそこかしこで燃える燭台が、薄暗い部屋を辛うじて暗闇から守っていた。 金髪の男と、黒髪の女。 両者共腰まで伸ばした長い髪、それに整った深い顔立ちが印象的である。男は、ゆったりとした青いローブを。女は、光沢のある漆黒の神官服をそれぞれ身に纏い。薄明かりの中、その姿を畏怖と共に置いていた。 「君、ね」 (まったく。ぞっとする位冷たい声を吐く――) 女は、一瞬だけ目を伏せてそれからもう一度顔を上げた。 ザンレグシュルツと呼ばれた石造りの古城の玉座の間。男は座っていない。向かい合って立つというそれだけの行為こそが、酷く私を寒からしめているのかもしれない、と。女は僅かに苦笑した。 「それで」 沈黙も長くは続かない。女が知る限り、有り得ない程饒舌になっている男が口を開く。 「君は意見を汲んでほしいのかね? 私に」 長い前髪に隠れて、男の碧眼が嗜虐的な笑みを作る。目で笑む。表情としてではなく、この男は弱者を文字通り射殺す事が出来る視線を持って女を縛り付けている。 そこに、サディスティックな性質の影を見て、 「どう答えればいいのでしょうかね?」 揶揄するような苦笑を女は隠さない。 一種、侮蔑の色すら視線に混ぜて。回答しようの無い質問を投げかける男を牽制する。 女は、目の前の嗜虐的で邪悪な存在の危険性を理解して尚迎合することが無い。それは彼女自身の性質であると共に、残忍な男と相対するにおいて一番安全な方法だと理解しているからだった。 「ふぅん」 男は機嫌が良いのか、女の態度を咎める事はしなかった。 主と、其の僕――それが、この男と女の関係である。これを問題とする時に、対等性の存在等というものは全く論外である。 男と女を縛る関係の上下は、金銭を介する類のものでは有り得ないし、強いて言うならばそこにある理由は生存欲求であって、これは理由や理屈を超える根源に類するものである。 非対等。 男にとってみれば、そんな「当然」は、別に彼女に対してだけという意味合いではない。世界における絶対唯一のルール、言葉にしてみれば驚くほど馬鹿げた現実を支配する存在が、この男であった。 この男の前では、全ての信心が馬鹿馬鹿しい。 曰く、全能の神と呼ばれる存在であるとか。 曰く、信望を一身に集める勇者であるとか。 曰く、万能を極めんとする文明英知であるとか。 存在として万物を超える形で定義された男は。おおよそ、彼以外の全ての存在に抵抗らしい抵抗を、そして追随すらも許さない。 絶対、そして完璧。 そんな風に生まれついた彼は、彼自身が時間潰しと称する徹底的な弱者の嗜虐、無差別な破壊の果てに魔王と呼ばれるようになっていた。 人も、それ以外の生き物も皆、理解している。 生かされる生命。其の点において、目の前の女も哀れな人間達も変わらない。そして、それを忘れた時がその世界の終焉だった。 それは、幾度の繰り返しであったか。奢った人間が、或いはそれ以外のその時代最も隆盛を極めた生物が、ザンレグシュルツを包囲して実に半径数キロという規模の統合軍を持ってこの魔王に挑み、冗長な悲劇に呑まれた事は。 それを考えれば、今更だ。とり置かれている玩具という形で、男を除いた他者の全てが成り立っている。その何処に疑う余地があろうと言うのか――? 「答えられないなら、どうしてそんな事を言うのかね?」 身命を賭して、と彼は笑う。 つまらない感傷以下の命、と。女の存在自体を嘲る様に――いや、そこにそんな感情は無い。あくまで透明に、事実を述べていた。事実、不興を買えば女の命は無い。 「魔王軍の将であるから、とでも言いましょうか?」 「義理が在る訳ではあるまいに」 「どうでしょうね。僅かに移る情位は持ち合わせているつもりですが?」 少なくとも貴方よりは、と女の言外に滲む。 「違いない」 また男は笑った。 薄い唇が笑みの形を絶やさない。男は、自覚して人を模して形作った偽の表情を繰り返す。但し彼の意図する感情は、笑みに至る愉悦ではない。 むしろ、其の逆。 「貴方は魔王ですね?」 「らしいね?」 詰問する女の口調に、男は片眉だけを上げて。かつん、かつんと靴音を立てて周囲を軽く歩き回り、部屋の側壁に寄りかかって。ようやくそれだけ答えた。 「ならば何故」 「感傷であろ。君の言う」 的を射ない答えが薄闇に溶け込んでいく。 じじ、と獣脂を焦がす焔の音だけが答えを肯定するように僅かに揺らめいた。 「彼女は」 男は両目を閉じていた。腕を組んで、楽しそうに話し出す。 「北の海域を破ったそうだ。ザンレグシュルツまで本当にもう少し――明日かな?」 酷薄な魔王が、まるきり柔和な声を出す。 彼女は僅かに、殺された、と楽しそうに語られた自分自身の部下を慮って苦笑し。 「楽しみ、と言わざるを得ないね。それ自体が理性的に本意、不本意であるかは関係ない。ただ、間違う筈の無い回答として。も っと深い根源の衝動を堪えて私はここでずうっと待っていたんだ」 女にはどうしても信じられない。口調が、声色が、態度が、今自分が無傷無事で立っている事自体までも。 どうしても信じられなかった。 「陛下は、いつからそんなにお喋りになりましたか」 女の口腔に、僅かな鉄分の味が広がる。 ぎり、と。強く噛んだ唇が僅かに破れる感覚がひどく鮮明だった。 この魔王には、迷いが無い。 だから主に選んだというのに。なんて口惜しい――いや、今夜は迷いが無いから問題なのか。 「さて、ね」 これにも、怒る事すらしない。 残忍な気性すら影を潜めているのか。有り得ない滅びを、自らから最も遠い結末を進んで受け入れたがっている。 遠く、梟の声が聞こえる。危険を察する本能故なのか、禿山に鎮座するこの城の近くまで動物が近づく事は少ない。だというのに、鳥の声。 そんな事実すらも、この男の「有り得ない穏やかさ」を示す事実といえるのかもしれない。 「次は……」 躊躇して言葉を呑むが、 「私が相手をしたく存じます」 女は強く拳を握って、男とまっすぐに視線を交わして言った。 彼女は、元々強力な土地神だった。今度の「勇者」は確かにいっぱしの魔族を討つレベルの、人間を大きく凌駕した実力を持っているようだった。しかし、その勇者を殺す事とて、彼女にとってみれば児戯に等しい程度の労力もかかるまい。 次元が違う。 群れを成す神と在り方は違えど、彼女もその昔は信仰を集めるだけの奇跡たる存在であったのだから。女は所詮人の振るう剣では傷付かず、人の操る魔術でどうにかなる程脆くは無い――筈。 「問題がありますか?」 僅かな嘲りと共に含みを持たせた言葉を吐く。 彼が何を考えているかは、彼女にとって問題ではない。彼自身にウェットな感情が向いているわけでもない。ただ、一つだけ。 自分にないパーツがある。尽きない恋慕にも似た興味だけが存在する。この魔王と呼ばれた原始の竜に対しては。 終わりには、早すぎる。 女は、直感する。このままなら間違いなくやってくる終わりを。 同時に、この質問に目の前の男が何て答えるか。好奇心が、彼女をくすぐる。 「ふむ……」 男は一瞬だけ口を閉ざして。 返答は、一瞬後に返って来た。 ぞくん、と。 前触れもなく。空間ごと削り取られたように女の腹が削れ落ちる。 「―――ご自由に?」 悪びれた風もなく、男は笑ったまま。 「……ぇ?」 女は細く息を吐き、喉をひゅうひゅうと鳴らして。一瞬遅れて崩れ落ち、それからむせぶように喀血した。 「――何、が……」 ご自由に、と男は言う。 致死に近い制裁を加えて、其の体で戦いに向かうなら好きにしろと。 まるで、死ねと言っている、もしくは勇者に手を出せば殺すと言っているに等しい。 大理石のつやめく床に、緋色の川が横たわる。 ヒトを擬態した女は、ヒトと同じ様に血を流し。身体を曲げ、手折られるように膝を折り崩れ落ちた。粘つく液体が、幾条も床に赤い筋を作りびろうどの絨毯に混ざり合って溶けていく。 「なぁ」 男は腕を組んで目を閉じ、石の壁に寄りかかったまま。一瞬たりともその姿態を崩してはいない。変わらぬ調子で瀕死の女に語りかける。 「なぁ。ナガキを理解するか? 君は」 「――」 女は、腹を抑えて言葉にならない息を吐く。質問の意図が彼女には分からない。それに、生命自体を壊すような激痛と脱力感にそれどころではない。 「長い時間を生きる君は、退屈を感じていないかね?」 「――」 「それすらもまだか。目的意識は果報だな、君は勉強熱心な性質のようであるし――?」 「――っく……」 女は唇を僅かに震わせているだけだ。 何かを言いたいと言うよりも、自然なわななき。 不思議と男は、質問に咄嗟に無意識に脳裏を過ぎっただけの女の意図を読み取って、構わず話し続ける。 「私はな」 男が目を開ける。 「――退屈ですら有り得ないんだよ?」 ふっとその姿が霞み消え、 「なぁ、君。ナガキを理解するか?」 一瞬後、在るべき玉座に現れる。 「無為に引き延ばされた時間。遥かな昔、私はずっと眠っていた。まどろみの中から、世界を見て、生き物を見て、永劫の安楽の中に居た」 男は頬杖をついて、少し遠い目をしていた。血の匂いで爛れた空間で場違いに穏やかな昔話が続いていく。 「眠りは何処までも穏やかだった。事実、私は私という生涯の大半を本当の眠りに費やしているのだから、それは心地良いものだったのだろうね」 かふ、と女がまた血を吐いた。 常に凛とした瞳が霞がかり、その瞳から全く力というモノが消えている。それでも女は顔を上げ、脱力したようにだらしなく玉座に腰掛ける蒼の魔王を睨み付けた。 「元気がいいのは結構だが。話終わるまでは死んでくれるなよ? ――ああ、そうだ。まどろみだったな。心地良いまどろみ。 永遠の安寧。分かるかね? ナガキを生きる存在というモノには、ナガキを生きる也に必要な存在を存在として守る為の防衛機構が存在する。防衛機構――そうだね。人で言えば、種を残そうとする働きが危険な状況ほど強くなる、生まれてきた子供を親が育てる。集団で生活する、英知を尽くして発展に尽力する性質――メカニズム。幾つかの共通点は、君や私にも見出すことは出来るが……この場合、私が言っているのはもっと独特なモノだ。むしろ私という『種』にのみ与えられた性質かもしれない」 「それ――が……っ……」 「急かすなよ。ああ――傷が痛むのかね?」 冗句めいた残酷が嘲る。 「眠り。眠りだ。私は、生まれた時からまどろみにたゆたっていた。まどろみという自身の状態に守られて、母体に眠る胎児のように。――親の記憶はないし、そんなものがいるのかも知らないし、興味も無いが――とにかく。 それはとても甘美なモノであったから、私にはそれを捨てるという選択肢は有り得なく。そうして随分と長い時を過ごして来たものだ。 ああ、私もね。実は老化する。永いサイクルで齢を重ね、この通り人で言う成人した姿になった訳だ」 男の口調の中には変わらぬ愉悦がある。 女の苦痛に歪む表情を楽しんでいる節すらある。同時にソレ以外の何かも。女に別の何かを理解する術は無かったが、性質上心優しいモノではあるまいと確信する。 「――っ」 先刻感じた、男の性質の変化はセツナの気の迷いである事を、彼女は思い知らざるを得ない。男は、気にした素振りも見せずに言葉を続ける。 「好奇心は猫を殺すと言うが。 どうやら、竜も殺すみたいだったね。何のことは無い、深い理由も、遠大なドラマも無い。私が私に備え付けられた、ナガキを 生きる為の防衛機構――つまり、まどろみを壊した原因、理由は、ただこの世界が気になってしまったから。それだけの事なんだよ。 数え切れない夜と昼の中で、自分の世界には有り得ないこの世界の形を横目にしていて。ふとある時気付いてしまったんだ。 空を飛ぶ。 海に潜る。 大地を滑る。 空気を大きく吸い込んで、自由に世界を動き回る。 ――どんなに爽快なものなのだろう、とね? そんな極当たり前に憧れて、私は無二の安らぎを失った。ここまでが、無為のナガキに至る私の道だ」 男は淡々と話す。 だが、口調が熱を帯び、声色がだんだんと真摯なモノに変わっていく。 「最初は楽しかったんだ。何千年も無意味な行動を繰り返して。 触れる全てが新鮮で、愉快だったさ。例えば水がしぶけば、それだけで感動出来て。 しかし、悲しいかな。ナガキを生きる私でも。磨耗せずにはいられなかったのだね。勿論、飽きっぽかった訳ではないよ。人等とは比べられるはずも無い。人がただの一度で飽きることでも私は飽きもせず、千の昼夜繰り返したろうさ。 しかし、それでもね。 悲しいかな。人より遅い速度で成長し、同じ寸法だけ長く生きる私は―― ――私でも。圧倒的に引き延ばされた時間の末に磨耗するらしい。 それもその失意は、人の比じゃない。当たり前だね。人が一度で飽きる事を、私は千篇繰り返してから飽いているんだ。考えるまでも無く、当然だ」 女の息が、弱々しい。 そんな、小さな息遣いと低く甘く――ゆっくりと響くバリトンだけが静寂を打ち払っている。残された僅かな音さえ吸い込まれるように淡く消える、この静けさに張り詰めた空気が男は好きだった。 喧騒を嫌う魔王。騒乱を伝えた幾人かの愚か者が、視線すら向けられず殺されてから、このザンレグシュルツ玉座の間には、昼夜を問わず人影は無い。 故に。 ノイズは、耳鳴りは。 相応しくない雑音全ては、自分自身を原因に置くものと言えた。 「それで」 暗闇から玉座の前にサイドテーブルが現れる。 男は、その上の赤と黒から白い象牙のナイトを一つ摘み上げ。 「後は何事も一緒、繰り返しさ。 ある時は、世界を壊して。ある時は再び眠ろうと努力をして。生き物を殺す事で『ここ最近の』時間潰しを落ち着けたのは、それが僅かに性にあったからに過ぎない。 この『魔王軍』も同じ。 自分の手を直接下す事が、私にとって『ナガキ』の中に消えたから、駒を使うことを思いついただけ。 ――いいかね? 私にあるのは、ただの退屈じゃないんだ。 無数にある、可能性、事象、選択し得る行為、やがて来る結末。その全てが。 ……全てが一つずつ『ナガキ』に沈んでいく。私の中でどうしようもなく色褪せていく、そういう感覚なのだよ。 漠然とした矛盾、現実感を伴った不安―― 世界にある全てが。文字通りの全て…… 私以外の何もかもが『ナガキ』に沈むのと、私の寿命が尽きるのとどちらが早いか―― ああ。 ああ――こんなにも永い年月が流れたというのに。 まどろみの中で過ごした数十分の一に満たない。私は人間で言う一歳すらも。歳を取る事が出来ないでいるのだから」 駒を、手の中で数度転がすように撫で。 「いいゲームだったんだがね。飽きた」 そのまま、硬度の抵抗など無いかのようにくしゃりと握り潰した。 白い粉が降り、赤い絨毯にコントラストを彩っていく。 静寂に満ちる耳鳴りすら止んだ。 言葉には魔力が宿ると言う。或いは、こんな静寂も男が為した魔術なのか。そう錯覚させるかのような、はっきりとした空間の隔離―――いや、そう思わずにいられないその感覚。 夜は、数分前と変わっていない。何一つ変わってはいないのに。瀕死の彼女が垣間見る世界は、何か別の、異質のモノに相違ない。 「……っ……」 もう虫の息になった女が一つ、息を呑む。 夜。誰もいない夜。勇者が明日にはここに辿り着く。 或いは、こうやって過ごす最後の夜。傷の痛みすらも一瞬他人事のように感じて、女は玉座の男に魅せられた。 (なんて――もう――) 霞みがかる思考と、視界の中に。在り方と根源の違う永遠の有限が在る。 「だから。誰が他に譲るものかよ。 情念と、執着の根本を。 心が沸き、身体が躍る。追い詰められて、苦しく、もどかしい。全く快感だ。 ――ナガキの中でね」 彼は、目をすうっと細める。 「初めて生まれた鮮やか過ぎる彩を―― ――もしかしたら、このナガキにすら沈む事の無いかもしれない激情を。君は私以外の誰が抱くべきだと言うのかね?」 まさに恋焦がれるように虚空を抱いて。 「それが、かの勇者。つまらない話さ。私が、人型を模したのはもういつの事だったか覚えていないが――」 碧眼が、雄弁に語る。 「つまらない話さ。コレが初恋だ。 いや、もしかしたらじゃない。――訂正しよう、確信するよ。この鮮烈な想いは私の『ナガキ』を崩し得る。理屈よりも深い部分で、そう感じるんだから今はそれで間違いない」 男は言い放ち、指をかぎに曲げる。 すうっと女の姿が空気に溶けて。 男の腕の中に現れる。 「――?」 ぐったりとした女は、もう抵抗することも無く首を僅かに傾げるだけだった。男は、その女の顎を軽く撫で、指を這わせ。視線を合わせろと言わんばかりに上を向かせる。 生命の色が薄い。致死の一撃は、見た目にも確実に彼女を打ち滅ぼすそれだった。 「今更、今更だ」 男の指先が、彼にとって細心の注意を払い、壊れ物を扱うかのように女の顎を掴み。ぎりぎりと何かが軋む嫌な音がした。 「ぁ――っ――」 女の口から微量の空気が漏れ、僅かな苦鳴が空気に消える。何かが力づくでひび割れるような微かな音が止んでいない。 つまり、男の優しげな指先は女の顎を捕らえたまま。 「人を羨ましく思った事があったよ。奴らの――君のセツナは私には無い世界の濃度なんだ。空虚でない世界の見え方、引き伸ばされない時間。文字通り刹那を抱く、瞬間瞬間の存在の在り方。実に豊かで実りある君達の生命」 ぎりぎりと、男の指先が細い女の顎を締め付ける。壊れ物を扱うかのようにやんわりと、但しこれ以上なく残酷に苦痛を与える為に。 「君達は、美しい――」 既にどうされても女に反応は無い。 「私にも、ようやくそれを抱く機会が回ってきたんだ。それを。 安心したまえよ。それを、君如きに――いや、他の誰にも邪魔はさせないさ」 指先の力が緩み、男の手が、女の腹部を撫でる。 それだけで、どうしようもない傷が塞がった。人とは根本的につくりの違う彼女であるから、これなら恐らく一命を取り留めるだろう。 「繰り返す。この私の情念の全てを、君如きに邪魔をさせるものかよ。 伊達や酔狂で情けをかけたとは思わない事だね」 男は、呆気無く女の体を冷たい床に放り捨てた。どさ、と女は打ち捨てられた人形のように重力に従って体勢を崩す。 既に彼女に意識は無かった。 「昔話も、この気まぐれも。 君が感傷と嘲笑う私の初めての情念の残りカス。決戦前夜の――」 初めての告白をし切った男は、とにかく愉快でたまらなかった。 「――つまらない余興に過ぎないのだから、さ」 ソレホドマデニフカイナガキ ソシテ アリエナイホドノセツナ (……そう。だから、彼女が私を憎んでいるなんて、些細な問題に過ぎないさ)
黒の斬撃が踊る。 攻防は、一瞬の出来事。 (ああ、成る程……) ずくん、と熱を持った衝撃が胸を貫けば、走馬灯にも似た奔流が彼の中を巡った。 「……ぁっ、はぁ……!」 荒い息を吐く、勇者の握った黒い刀身が、魔王の体を深々と抉っている。 歯を食いしばった傷だらけの彼女は一際強い力を手にした剣に込め、その一撃を除けばまるきり無傷の魔王は「ふむ」と頷いてそんな彼女を見下ろした。 感情が溢れる。 小さな背中、細い肩。無防備な白いうなじが覗いている。その頸に手をかけ、くびり殺す事は、それこそ何より甘美で容易かろうと思った。 だが、彼は魔王の御手を振るわない。 滅びには遠く及ばないごく些細な一撃を受け、それでも早々に今生を諦める。 「私は……」 言えない。 魔王だから言えない。魔王でなければ出会う事も出来なかった。だが、魔王だからこそ……! 何もかも、今までに出来ない事は、叶わない事は一つとして無かった。しかし、今言えない――叶わない。 それでも衝動は堪えがたく苛む。初めて自覚する己が惰弱に打たれ、狂おしい情動に揺すられて、彼は言葉を紡ぐ。 「……っ、私は、お前を――」 「――」 「その、目だ。私は、そんなお前が……」 両腕が、小さな肩に伸びる。 勇者は逃げる素振りもない。一層、強く力を込め、この対決に終止符を打たんとする。 「――滅べ、魔王!」 そして、言葉を遮った裂帛の気合は、渾身の叫びだった。 ……それで、全ての言葉を失った魔王は今一度「ふむ」と頷き。 「名前を」 「……っ」 「……名前を、聞かせてくれないか?」 長い沈黙が降りた。 ヒトに在らざる身。それは、不正確なヒトの擬態。魔剣に刺し貫かれた傷口から血は流れていない。超然としたその魔王の姿態は、敗北の瞬間すらもそんな惨めさを感じさせなかった。 「……リーティアル」 ぽつり声が漏れた。 「リーティアル・フィア・ラクセーション」 「ああ……」 脱力し、深く溜息を吐く。 「いい名だ。リーティアル」
――黒の魔剣の銘を「ザンレグシュルツ」と云う。 魔王が勇者に宛てた、ただ一つの贈り物。その刃を墓標に彼は眠る。 一瞬とは言え、在るべき姿を捨てて。ナガキを超えて。 (――宿敵の打倒と、勇者の栄誉。君は、幸せになれただろうか?) これが、魔王と呼ばれた原始の竜の叙情一夜の物語。
FIN
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