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クリエイター名  吟遊詩人ウィッチ
フェノミナン

 アイスクリームが溶けおちる速度よりも早く歩くつもりで、蝉時雨が頭上を降り注ぐ勾配を上っていくと、まだ一度も入ったことのない店があった。なんだろうと物珍しさ半分、足を止めると、壁面に刻まれた木目模様が放つミルク色や、ニスのつややかでやわらかい光の粒が反射してきて、思わず目を細める。熱さと詰まった息のせいか、狭まった視界の向こうで、ガラス張りのショーウィンドウが水面のようにきらきらと輝いていて、水玉の帽子を被ったからくりの道化師がこんにちは、と慇懃にお辞儀するところだった。
 奥の方では古めかしいグランドファザーロックが置かれ、中の振り子は蒸し返るような夏の時間をゆっくりと刻んでいた。どこか古めかしい情緒に目を奪われてしまい、透明ガラスの向こうに氾がる時計たちをぼんやりと眺める。
 次第にショーウィンドウ越しにちくちくと歯車が刻む音がせめぎあい、それぞれの時計の針はお互いの呼吸に合わせるように同じリズム、同じ間隔で文字盤の時間を刻もうと音を立てる。そればかりではなく、振り子や仕掛けに連動した人形の動きなどが全て規則正しく動こうとする。そうやって見とれていると歯車の噛み合う音でいっぱいになり、刺すような夏の陽射しも手伝ってか、視界がミルク色のベールをかぶせたように滲み、軽い目眩に襲われる。
 息を整えてもう一度、ショーウィンドウを覗き込もうとするが、二重写しになった向こうで、熱い陽射しを受けたアスファルトを歩く、日傘を差した女性と、薄茶色の飼い犬が散歩する姿が浮かび上がり、舌を垂らしたブルドッグが、陽炎の沸き立つ透明なブルーの空に湿った鼻を持ち上げるものだから、そのしわくちゃな、いかにも気怠い表情に目が誘われてしまい、同じ空を振り返ると、入道雲は熱にやられてしまったバターみたいにじっとしていて動かず、ただ宙で寝そべったまま都会の街並みを見下ろしている。
 遠くでは銀色を反射させるビル群がそそり立ち、その隙間を行き交うトラックのもうもうと吐き出される排気や、夏休みに入っても働き続けるホワイトシャツの人達が放つ、つんとした臭いが下町の方まで漂ってくる気がして、神無城・衣緒(かんなぎ・いお)は気後れする。まだ始まったばかりなのに夏休みがもう終わってしまう、そんな訳の分からない錯覚が、急に襲ってくる。
 深々と溜息を吐く。
 しばらく立ち尽くし、ショーウィンドウに頬をべったりと押し付けながら、アイスバーの棒きれを噛んでいると「よ、ネズミ君」と聞き慣れた声がしてふいに両肩を掴まれる。「あるいはリス君」驚く暇もなく髪の毛をくしゃくしゃにされてしまう。
「え、あっ」
 唐突だった上に、手で目隠しされ、不覚にも棒きれを噛んだままだったので、舌を噛みそうになりながらの反応。当然、抗議の声を上げ、手を振りほどく。
「何ですか」
 振り返ると、何ですかとは心外だ、といった苦々しい表情を浮かべ腰に手を当てている、明日香(あすか)先輩がいた。
「あ、先輩、こんにちは」
 その出で立ちはいつも着ている新崎高の制服、ではなくて、Tシャツに迷彩柄の短パンといったラフな格好だった。去年まで伸ばしていた髪も短く切ってしまい、同級生から羨望の眼差しを受けるくらい艶やかな黒髪だったのに今は薄い茶色に染めている。身だしなみ程度に整髪剤を使っているせいか、よく焼けた彼女の表情は益々凛々しい少年らしく見えた。
「似合ってますよ、それ」
 衣緒がやや大袈裟な意味を込めて言うと、やめてくれよと片方の手を振り、もう片方の手の甲で口元を宛がう。先輩が笑うときの特徴で、腰に手を当てながら笑うものと、腕組みをしながら笑うものと二通りのバリエーションがある。いずれにせよ、真似したくなるほど鮮やかな身のこなしで、繊細な仕草だった。
「君というやつは全く」明日香先輩は肩をすぼめてから切れ長の眉をつり上げる。「何をおごって欲しいんだ、言ってみなさい」と茶目っ気たっぷりに笑ってみせた。
 いわれたからには何か甘えなければならない気がしてはい、先生と挙手して真面目に答える。「アイスクリーム。それかソーダバー」
 それを聞いた彼女は呆れ顔で例の腰バージョンで笑う仕草をやる。そっぽを向いて溜息を吐き、感情表現豊かな指揮者のようにひらひらと手を振った。
「君のお腹のことを考えたらこれ以上の冷却はよろしくない」
 昨日、トイレで起こった惨事をやんわり言い当てられてしまったので、反論しようにも言葉が見つからずうんとかぐうとかよく分からない声を漏らしていると、明日香先輩がはいはい、後ろがつかえてるから行った行ったとイオの肩を操縦桿みたいに掴み、体ごとアンティークショップの扉に押し出そうとする。無理矢理歩かされたイオはひさしのついた軒下で足を止め、何で? と頭上を仰いで肩越しに訊ねる。
「何でって」今更そんなこと聞かないでくれよと物臭な表情を浮かべる友人から解放され、彼女の前に、気をつけ、の姿勢で立たされる。衣緒は店の前にある花壇――観葉植物やバナナの木が植えられた――の脇にある休業中と書かれた看板を指差す。
「ああ、ここ、うち」そういってから腕組みしてから思案するように瞳を上に向ける。ぱちんと手を叩き、指の銃で衣緒の額を射抜く。「いってなかった?」
「もちろん」聞いていないし、彼女に連絡をもらったときは坂を上ってすぐそこだという、方向音痴にとっては救いようのないメールだけしか残されていなかった。にも関わらず、この友人は自分の住所は後輩には分かったものだと公言してはばからない。だいたい地図があって、何度来ようとも毎回アミューズメントパークで迷ってしまうという経歴の持ち主にいってなかった? なんてあまりにも素敵すぎる言葉だ。
 呆れてそのことを身振り手振りで告げると明日香先輩はまた心外だといわんばかりに衣緒の目先に手を持ってきて指で軽く弾くのが見えたのも束の間、弥次郎兵衛よろしく一瞬だけ意識が左右に揺れ、何が起きたのか分からず目を回していると触覚を垂らした蟻たちがバナナの葉脈一枚隔てて行列を作っている様子や青臭い葉っぱのごわごわした毛や甘い匂いが撫でるように鼻先を掠め、木漏れ日を注ぐ太陽の目映い光が弧を描いては鬱蒼と並んだ枝葉の間に氾がる群青色の地平線へと流れていく。干し立ての綿から漂う太陽の匂いやシャンプーの香りがして、友人に抱き竦められていることに気づいたイオは友人の背中の上で手をばたつかせて、「タップ、タップ!」とうめき声を上げる。
 胸元から頭を上げるなり人様の体を見下ろして、スリー・カウントを勝ち取ったレスリング選手のように笑みを浮かべる明日香先輩は「細いし小さい」と胸を張りながらにべもないことをいうものだから、これは何かの宣伝活動なのだと思い、抗議の意を表すために頬を膨らませる。
「いえいえ、これは! 大器晩成ですから」
 先輩は笑いを含ませながら答える、「お腹がですか」
 聞き捨てならない返答をよこされてふて腐れていると急にまた手首を掴まれて「さあ、行こう」と引っ張り、颯爽と店の扉を潜ろうとする。何となく反論の余地を逃した気がして苦い思いをしながらもお腹の虫は正直であることに越したことはなく、要するに昨日もそうやって正直になりすぎたためにお腹の虫は悲鳴を上げるのだと知った。熱い陽射しを受ける勾配に響き渡る蝉時雨を聞きながらアイスクリームが溶け落ちる時間と蝉の生きる長さについて考える間もなく無数の時計が奏でる歯車の音に吸い込まれそうになり、衣緒は息を止める。

 
 
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