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クリエイター名  吟遊詩人ウィッチ
退廃した世界より伝達

 ベッド際のテレビに砂嵐が映っている。薄暗いグレーと白の、白光が、ときおりふわりとざらついた無機質な点描を作り、薄い陰影のある透明の泡を孕んだ粒状の、岸に打ち上げられかけたさざ波のようにうねり、重く閉ざされたカーテンが蠕動する蛞蝓のように形を変えていく。ベッドの上には一人の男が、頭を抱えるようにして、スチールのマガジンラックがある横のベッドに腰掛けている。マガジンラックには、音楽雑誌、経済誌、ファッション誌などが並んでいるが、読みかけの雑誌などはいっさいなく、どの家具もまるで彼と彼の存在と同位置、あるいは彼自身の影と同化するように、頭を擡げ、固く口を閉ざしたまま蹲っている。たとえばビンテージ物のジャンパーやアメリカンフットボールのヘルメット、ゴリラを象った置物、並べられた葉巻、空気清浄機、一眼レフのデジタルカメラ、OA機器、こういった物の数々はある一定の経済力と職業的な特色を兼ね備え、一つの物語を語る上では些末な、あるいは彼の内面を物語る事物として配置された一種の予備的なファクタであるかもしれない。けれども、こういったファクタのひとつひとつは彼との関連性を全く持たないかもしれない。そういった対をなす無限の想像力は常に、僕たちの傍らで、鎧を着た兵士のように槍を携え、彼という人柄を一切の想像力から排除しようと、待ち構える。想像力と事物の解離は、彼という人間そのものを語ることさえ許さないある種の深いプロテクトでもあり、ブラックボックスでもあり得る。
 彼は僕なのか、あるいは他の誰なのか、まだ分からない。けれども、ただ一つ言えること、すなわち彼は今、社会から断絶されている。それはあらゆる意味で、孤独な人間のひとりとして堅牢な城の、薄暗い地下牢に閉じこめられている囚人と同じかもしれない。
 彼はいま大きく息を吸い、それから腕時計を見る。あるいは僕も、そうして、現在、おかれている立場を確認するために時間を確認するだろうか。そう、今は午前3時48分だ。寝るには遅すぎるし、かといって、朝にはまだ至っていない。夜という原始的な獣は、来るべき朝の理性へとゆるやかに覚醒していくのだ。その隘路に立たされた彼は、今や足首に括り付けられた深い闇の鎖を引きちぎり、来るべき時間へ向かって、つま先立ちをして、短距離走のランナーのように、刻一刻と迫ってくる時間を内なる鼓動と共鳴させ、今か今かと待ち構え、走ろうとする。ゆっくりと身を前屈みにして、立ち上がり、鍵も財布も取らずに玄関へと向かう。立ち去る瞬間、彼は拳を握りしめ、ノックするような動作をする。それが彼の何らかの意志を表すものなのか、今はまだ知る必要がない。彼の足音とテレビの砂嵐だけが、異質な世界に取り残された残滓のようにそこに立ち止まり、誰もいなくなった部屋の中を映し出している。
 3時50分。電話の電子ベルと男の残していった携帯電話が同時に鳴る。サイドテーブルの卓上に置かれた電話機が留守番録音に切り替わる。録音に切り替わった瞬間、遮断機の轟音と風の空気がスピーカーの電子音に無理矢理変換され、けたたましい物音に変わる。相手側はしばらく何も話す気配はない。あるいは遮断機の音が消えるまで待っていたのかも知れない。45秒ほど立ったところで男の声で「聞こえているか」と、そこにいるべき人間に問いかける。しかし、そこにいるのは砂嵐の音と、時計が音を刻む音だけだ。ひどく興奮したような、荒い鼻息が無機質なデジタルテープに記録されていく。聞こえているか、聞こえているか、と二度繰り返し、政治的大量殺戮を犯した死刑囚が、息絶え絶えになりながらも、その正当性を主張し、歴史的権威を自らのもとへと還元する儀式が、今ここで阻止され、あるいは、昇華されようとでもいうかのように。聞こえているか、そう何度も、全世界の人間に向けて、電話からの主は一つの終わりを宣告する。
「君は何ともつかない物事から逃げだした。これは明白な事実である。私はいつだって君を見ている。君の傍にいる。逃げるのか? 大いに逃げるがいい。君の家族のことも、知人のことも、よく通う書店の位置や君がどういった本を読むのか、ありとあらゆる情報は私たちの手の内にある。私は今ここで君を見ているぞ」
 そこでテープは終わる。砂嵐が再び我が領土を取り戻し、静寂の王国が戻ってくる。
 
 覚醒。枕元の目覚まし時計は夜中の三時三十三分を示していた。感じの悪い汗が体中に張り付いていて、顔の表皮は脂ぎっている。就寝する前に服用した三種類のトランキライザーのせいで、意識は白濁としている。目頭が重い、米神がずきずきと痛む、口の中は乾ききっていて、舌が別の生き物のように思えて、早く、煙草の苦い煙を吸いたい、そう思った。
 しばらく茫然自失となる。あのときの悪夢が、僕の睡眠を阻害する。今となっては記憶という広大な砂丘は、砂のようにさらさらとその残滓を残すだけで、いつも思い出せない。けれども胸に手を当てれば、まだ心臓が早鐘を打っているのが分かる。
 ベッドを降りて、廊下を出ると、小型の蛍光灯が足下を照らしていて、その先の冷蔵庫が見える。歩こうとすると、倒れ込みそうになり、何度か壁に手を当ててしまう。喉がからからだった。
 やっとのことで、小さな冷蔵庫のあるキッチンへと倒れ込むように背を向けて座ると、冷蔵庫の上に置いてあった灰皿を手にとって、タイルの床に投げる。冷蔵庫の上にぞんざいに置かれたマルボロの箱を握り、ライタを取り、一本取り出して、それを銜える。ライタの火打ち石を打つと、震える手と狭いキッチンの様子が一瞬だけ現れる。
 壁に背を預けて、煙を吸い込む。ニコチンが血管を縮めて、体がかなり冷えていて、一層脳の血管を締め上げる。頭がくらくらした。
 冷蔵庫からペットボトルを取り出して、それと一緒にトランキライザーを飲み干す。
 しばらく頭を振り、深呼吸し、薬の効果が脳へと到達するのを待った。
 暫くしてから、体の力が抜けていく。細胞一つ一つが鉛と入れ替わったみたいに、ずるずると体の重心が下へと引き摺られていく。手首を回そうとするが力が入らず、そこに傷痕があることを指先で確認する。
 自殺を図ったのは、十六歳のときだ。
 彼は少年だった。そして、あらゆる意味で、凶暴で怜悧で、葛藤と絶望を抱えて、生きようとし、死のうとした。何が彼をそうさせたのか、分からない。今となっては僕にその理由が分からない。十六歳の彼と、二十六歳の僕は何ら変わっていないように思えるし、あるいは、別の人間ではないかと思うこともある。十年という月日は、確固とした境目のように見えて実は曖昧模糊とした虚のような時間だ。その間に、イギリスの王妃は死んだし、旅客機がビルに衝突し、そして新しい黒人大統領が生まれた。
 朝は優しい。そして残酷だ。平等に人々の頭上へと昇っていく。ビルの隙間に朝靄がかかっていて、それを裂くように橙色のヴェールが楕円状に広がっていく。その光が鉄格子の隙間からキッチンの黴で汚れた黒ずんだタイルを静かに伝い、灰皿に添えられた僕の手首へと這っていく。冷たくなった血液がじわりと温められ、呼吸を僅かに狂わせる。陽に当てられた皮膚が暗闇という水中でふやけてしまったみたいに、無抵抗のまま光を受けて、じりじりと痛む。
 手の平でひさしを作ると、皮膚の間の血管が透けて、ピンク色に染まった血が微動しながら細胞へ還っていく様子が見えて、暫くそれをじっと眺めていた。
 何本目かの煙草に火をつけて、煙を吸い込む。それから立ち上がろうとして、よろめく。キッチンテーブルの上に片腕を滑らせ、並べられた空っぽの缶詰やペットボトルといったものがころころと転がり、タイルの床へと落ちていく。
 立ち上がるのを諦めて、シンクの下に背を預けたまま、歌を歌った。何の曲を歌っていたのか、分からなかった。そして、ある女のことを思い出した。病院で働く臨床心理士の女で、歳は僕と同じか、あるいは年下か、精神科医に三十、四十代が多いのに比べて、臨床心理士は皆、若かったように思う。目の下に黒子があり、化粧は薄く、肌は白く、髪は黒い。互いに対面したまま心理テストを受けている最中にそんなことを考え、あるいはもっと別のことを考えようとした。彼女が次々と白い紙の上に絵の具で何かを描いた抽象画を何枚か僕に見せて、それが何に見えるのか、ということ訊ね、僕はそれを見て、動物か建物と答えた気がする。
 テストが終わると、彼女はお疲れ様と言って僕に握手を求めた。その抽象画を床に置いたバッグへ仕舞い、それから顔を上げて日本人なのか? と訊ねた。僕は正直にハーフだ、と答えた。
「やっぱり」彼女はやや職業的な目つきを和らげ、口元を緩ませた。口紅はしてない。唇は乾いていて、動くと口の端で白い涎の塊が見え隠れする。「鼻が高いし、背も高いし、目尻が何となく日本人と違う。中性的というか」そう言ってから彼女は打ち消すように首を振った。「差別的な意味はないの。ただ、ちょっと違うかなって思っただけ。だから深い意味で捉えないでね」
 僕もそのような意味で彼女が言ったようにも思えなかったので、頷き、無理に微笑もうとした。その試みが上手く言ったかどうかは分からない。もしかすると怒っているように見えたのかも知れない。彼女は短くごめんなさい、と言った。それきりで、会話も続かなかった。
 

 
 
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