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クリエイター名 |
やまかわくみ |
再会
「よし、もう上がってもいいよ」 常連さんに熊さんと呼ばれている、体格の良い口ひげの店長の言葉に、翔子は少し間延びした返事をしてテーブルを拭く手を止めた。 住宅街の中にある、レトロと云えば聴こえは良いが、古めかしいの方が似合う喫茶店。四人掛けの五つのテーブルには、今は誰も座っていない。お世辞にも流行っているとは云えないこの店で翔子がバイトを始めてから、一週間が経とうとしていた。 元々店長とその奥さんの二人でやっていたこの店に、翔子が客として来た事は無い。 大学を卒業してから就職もせず、至極中途半端な毎日を送っていた翔子は、親の小言を避ける為に近所をぶらぶらしていた。そしてこの店入り口のバイト募集の張り紙に、履歴書も持たずに面接を願い出たのだった。 詳しくは聴いていないが、奥さんが入院したらしい。すぐに人手が必要だとの事で、明日から来てくれと即決して今に至る。 バイトの経験が無い訳ではない。しかし元々引っ込み思案な翔子が、何を思ってこの店のバイトをしようと思い立ったのか、翔子自身にも判らなかった。 客が少ない分楽な仕事で、別段苦にはならない。どうせ奥さんが退院するまでの短いバイトだ。時給も安いが、家で親にいつも冷たい視線を浴びているよりはましだった。 拭きかけのテーブルを綺麗に拭いてしまって、翔子は私服であるTシャツとジーパンの上に着けたエプロンを外す。窓から見える店の外は、まだ明るい。 「お疲れ様です」 「お疲れさん。今日もありがとね」 「はい」 店長が毎日くれる感謝の言葉が、翔子は好きだ。実際がどうであれ、自分が何かの役に立っている気がするから。 人の良さそうな笑顔に、翔子も笑みを返して店の奥にあるドアに向かう。 と、カラコロとベルを鳴らして表のドアが開いた。 「済みません。この間バイト募集の」 入って来たのは若い男だった。翔子が反射的にいらっしゃいませと云う前に、彼は早口でそこまで云うと、不意に口をつぐんだ。 その目は翔子を捉えていた。酷く驚いた顔をして、翔子を見詰める。 翔子も、彼を見詰めていた。 知り合い、ではない。ただ、何故かとても懐かしい気がした。 「いらっしゃいませ」 店長の声に小さくあ、と声を上げて、彼は翔子から視線を外す。 「あ、ええと。この間、バイト募集の張り紙してましたよね。もう、決まっちゃったのかと思って。決まっちゃったみたいですけど」 「ええ。こちらがその決まった娘ですよ」 店長は右手を広げて翔子を指した。その先の翔子に、二人は目を見張る。 翔子の目からは涙が流れていた。口元に手を置き、彼に視線を向けたまま嗚咽も漏らさず泣いていた。 「どうしたの。大丈夫かい」 店長の呼び掛けで我に返った翔子は、自分の頬に流れる涙を慌てて拭う。 「大丈夫です、済みません。お疲れ様です」 翔子は軽く頭を下げると奥のドアを開け、鞄を掴んで店を出た。少しの間に、辺りは随分暗くなっていた。 ゆっくり歩きながら星の見え始めた空を仰いで、翔子は一つ息を吐く。 どうして自分が泣いたのか、自分でも判らなかった。彼に過去酷い扱いを受けた憶えは無い。どころか一度も逢った事が無い筈だ。そもそも再開して涙する程の別れを、翔子は経験した事が無い。 それなのに、失くしてしまった大切なものを、ようやく再び見付けた気がしたのだ。 道路に目を落として、翔子はもう一つ息を吐いた。 「待って」 不意にした背後からの声に、思わず肩をそびやかして振り返ると、彼が居た。 「ごめん。驚かせた」 彼は苦笑しながら翔子に並ぶ。翔子は首を振った。 「こちらこそごめんなさい。いきなりあんな、恥ずかしいとこ見せちゃって」 「そんな事無いよ」 いきなり目の前で泣かれて、驚かなかった筈が無いだろう。しかし彼は、翔子に笑いかけた。 「僕もきっと、君と同じだから」 意味を図りかねて翔子が眉を寄せると、彼は視線を前方に投げた。 「君を見て懐かしく思った。逢った憶えも無い、何の記憶も無いのに」 翔子は瞠目する。そんな事があるのだろうか。知らない者同士なのに、互いを懐かしく感じると云う事が。それとも彼は、嘘を吐いて翔子をからかっているだけなのだろうか。 立ち止まった翔子に気付いた彼が、そちらに体を向き直した。 「こう云うと、何だか嘘っぽくて口説き文句みたいに聴こえるね。でも嘘じゃない」 彼は、真剣な面持ちで翔子を見る。 「出来れば少し、話がしたいんだけど。帰り道で良いから」 翔子は頷いた。彼の顔が綻ぶ。 「ありがとう」 歩き出した翔子の後に続き、彼は名を名乗った。野上健と云う聞き覚えの無い響きに、矢張り翔子は懐かしさを感じた。 年齢は同じ。しかし通った小学校も中学校校も高校も大学も、全て違っていた。住んでいる場所が近いので道ですれ違った事が無いとは云えないが、その位で再会に涙する事は有り得ない。 彼も翔子の経歴を聴いて、首を捻っていた。 「どこかに接点があると思ったんだけど。本当に初対面なのか」 「そうみたい」 「じゃあ、きっとあれだ」 楽しそうに笑った彼に、翔子は怪訝な目を向ける。彼はお構い無しに続けた。 「何とか云う童話にあるんだけど。小さい子供の頃って、大人じゃ意思の疎通が出来ないものと会話が出来たり、大人には行けない処に冒険に行けたりするんだ。成長するとそれが出来た事さえ忘れてしまうけれど」 翔子にもどこか聞き覚えのある話だった。 「小鳥や赤ちゃんと話が出来たり、空が飛べたりする。でしょう」 「そう」 彼は星が瞬く空を見上げた。 「きっと僕達は、まだそんな事が出来ていた頃に出逢って。成長して互いの事を忘れちゃったんだよ」 そんなおとぎ話の様な事があるだろうか。普通なら馬鹿馬鹿しいと一蹴するだろう。しかし、それは出来なかった。どうしてだか解らないが、彼の云う事を信じる気になった。 きっとその時に、彼をとても大切だと思えるだけの体験をしたのだと。 再び立ち止まった翔子を追い越した彼は、今度は踵を返さずただ歩みを止める。 「ここが君の家か」 「ええ」 「じゃあ、話はここまでだね」 どこか元気をなくした様なその声に、翔子は眉を寄せた。 「ごめん」 何に対する謝辞なのか判らずに何も返せないでいる翔子に、彼は続ける。 「僕は約束した筈なんだ、その時に。君を二度と泣かせないって。なのにいきなり泣かせて。ごめん」 「どうして謝るの。あれは私が勝手に。多分嬉しくて。あなたにまた逢えた事が」 「うん。ありがとう」 このまま、また逢えなくなる不安が過ぎる。背中を向けたままの彼に、翔子は云った。 「思い出せないなら、また新しく思い出を作れば良い。でしょう」 「そう、だね」 だったらまた、と、二人の声が重なる。咄嗟に口をつぐんだ翔子をようやく振り返って、彼は言葉を続けた。 「また、逢えるかな」 翔子は笑った。もう謝られるのはご免なので涙を堪えながら。 「もちろん」
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