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クリエイター名 |
吉坂梓 |
サンプル
炎がくすぶっていた。かつては樹木であった灰が雨に打たれて、灰色の波紋を広げると地に落ちて散華する。 腐敗のような色をした雨が止んだのは先程のことだ。 闇が終わりを告げたのもそれと重なる時刻。 地平線いっぱいに広がった夜が終りを告げるべく、暁を迎えようとしていた。 徐々に失われていく薄いもやのかかった紫の色。代わりに覗くのは緋色の陽。 そうして何事も無いように光が堕ちる。 薄汚れた、混沌とする廃墟に。 ……こうして一つの国が消えた。 緑豊かな、平和を象徴するかの如く美しく、誇り高くあったその国は僅か一夜で形を無くした。 国王以下全員死亡、生存者はその城の惨状から察すると絶望的。 戦争国との同盟を拒んだのが攻め込まれた理由と言われるのは、そのずっと後のことだ。 国の名はファリル。
何処まで逃げても炎が追ってくる。 私を捕まえようと、追ってくる。あの燃え盛る赤い色が。 「……っ!!」 少女が、駆けていた。 泥に汚れた素足から血が滲み、夜着のような薄いワンピースも泥とすすと血で汚れていた。 それでも少女は身なりを、痛みを気にすることなく、走り続けていた。 少女のその真紅の相貌に浮かんだ色は、恐怖。ただそれだけ。 心が駆られる。強く強く潰されそうになる。それから耐えるように、逃げるように少女は足を動かし続けていた。 「…………はぁっ」 漆黒の髪を風に遊ばせて、逃げる。 周囲は日も差さぬ森。夜も手伝い、状況は余計に解らない。 しかし、少女が駆けた方向からは煌々と光が見える。 追いかけるように道を照らす。 ――炎の、色。 「いやっ……いやぁっ!」 耳を両手で塞いで、けれど足は止まらない。苦悩に満ちた叫びがその森に木霊した。 夜はまだ、始まったばかり。 少女の恐怖も始まったばかり。 「……っ」 不意に、少女が、その歩を止めた。 足から血を流して、すすに塗れた顔を背後、つまり自分が逃げてきた方向へ向けた。睨みつけた瞳に映った赤い色――燃える炎の色だ。 その頬を、涙が伝ってすすを流す。 小さく唇が動く。 震えているのは決して薄着だから、寒さのせいだけではない。 「許さない。……私はこの世界を許さない……!!」 零れた言葉はまるで呪いのようだ。瞳は相変わらず背後の炎に向けられたままだった。 まるで、その色を自身の真紅に埋め込むかのように。
血の匂い。鉄臭く、生暖かくて、痛い。 普通に生活しているなら事故でもない限り、こんな大量の血に出会うことは無いのだろう。 趣味の悪い装飾がびっしり施された絨毯をじわじわと赤い血が染めているのだが、漆黒の闇夜のおかげでそれを視界に入れることは無かった。 もっとも視界に入った所で、自分は動じる事を忘れてしまっている。 きっと、自分は人間である事を辞めてしまったからなのだろう、と失笑にも似た吐息が零れた。 吐息の色は白い。暦では春のはずなのにまだ、冬の季節だとそう訴えている。 こんな風に頭の中が真っ白になってしまえばいいのにと思う。 誰かが目の前で殺されても生暖かい血を全身に浴びても、何も感じず、ただ白亜に包まれていたい。 無理だろう、静かに悟ると顔を上げる。 深い海のような蒼の瞳が凛と闇に輝く。 頭の中が真っ白になったとしても、自身を覆うように被さったこの紅が許しはしないということは解っている。 自分が重ねてきた命を奪うという行為の代償。 もう、何も感じはしない。 誰が死のうと、自分が傷つこうと、何も。 感情というものが欠如したのかと言えばそういうわけでもない。 ただ、死というものに対して考えすぎる余りに、感情というものが大分薄れてしまった、といえばいいのだろうか。 それもこれも全て、自分を育てた城の教育方針や、独特の空気が……何よりもあの男が起こしたことだ。 ――あの城を包み込む狂気と欲望と。 その狂気は毒だ。触れた途端に壊してしまう、何もかも。 自分もそれと変わらない。 城という、あの男という牢獄から逃げ出すことは出来ない。自分はあの男から見たら籠の中の鳥に過ぎないのだ。 何時でも遊べて何時でも始末できる。逃げ出すという選択をとることは出来ない。 鎖が全身にまとわりついて砕いても砕いても無くならない。 叫んでも叫んでも声が届かない。砂漠のように空虚で水のように音が消える。悲鳴にならない心の軋みが日増しに精神を蝕んで、人でなくなっていく。 縛り付けるのは、あの言葉だ。非道く哀しく、非道く強く、鎖と言えばそれまでだが、錆びることも軋むこともなく、緩むこともない。 絨毯に染みをつくっていた影が「う…」と声を漏らす。まだ生きていたのか、と容赦なく今度は確実に――細身の男の胸に剣を降ろす。びちびちと細かい赤い液体が顔に降りかかった。 影は全く動かなくなった。まもなく瞳孔が開いて、体から熱がなくなって、死体に成り果てる。 今日もまた血が流れる。 新月なのでそんなに視野が効かないのだが、一つのものが目に入った。胸がほんの少しざわめく。 ――国章。 つまり、この人間は国という組織を担う人間の一人。その人物を殺めた者に下される罪は――考えたところで無駄なのかもしれない。 何人殺したか覚えてもいない。自分の命で罪が償いきれるわけも無い。 全ては、あの男の狂気が、薄汚い欲望が起こした物語。 「プレア。今夜もよろしく頼むよ。君なら簡単さ」 黙れ。お前の濁った口から、脳から、心から、私の名を呼ばれたくない。 お前に、私の、存在を、認識されたくない。 「君の攻撃的で全てを砕き凍らせそうな、その目は嫌いじゃない」 なら、なぜお前は砕けないのだろうな。私が砕きたいのはお前だけなのに。 「愛しているよ、プレア」 狂気を秘めているのはあの男、それとも私、なのだろうか。 夜が来るたびに、私は何か大切なものを一つずつ失くしてゆく。 砕けて、壊れていくのは、私の方だ。
「何か……呼ばれた気がする」 唐突にその言葉が、唇から零れた。 視線は周囲に走るも、何も捕らえはしない。生物の影も形も。ただ、本が瞳に映るだけだ。本棚に寄りかかっていた背を離して部屋に視線を巡らす。 ――常と変わらないその光景。 諦めにも、嘆息にも似た溜息が一つ。 「……誰かの声が聞こえるわけないだろう? だってココには……オレしかいないんだから」 半ば苦渋の滲んだ声音。 暗がりでよく見えないが、揺れた髪は新緑の色。外で輝く緑の色。 大きな黄金の瞳が太陽の如く一瞬煌いた。 その強烈な煌きが消え入る一瞬に視界の端で何かを捉えた。 おもむろに足を踏み出して、本棚へと歩み寄る。 床が軋んで悲鳴のように一声あげた。そのせいで歩みが遅くなる。 そうして、手を本棚に重ねた。 何度か瞬きを繰り返すと本棚から一冊の本を引き出す。 掃除しているはずなのに埃が舞う。古書独特の香が鼻腔を満たす。 表紙を軽く手ではたいて、何度目かも解らぬ溜息を再び零した。 「まだ始まったばっかり。何もかも……」 そう、全ては始まったばかり。
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