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クリエイター名 |
ヨル |
【piass】
庭を覆っているのはカスミソウのように白くて儚い雪だった。 陽光に、キラキラ砂糖の粒のように光っている。
台所で忙しく動き回っているネスの後ろで、ドゥカは机を爪で弾いていた。 「なぁネス聴いてくれよ。今度入荷した本で超おすすめのがあるんだよ」 少し舌足らずな声で落ち着かないようにその背中に話しかける。 構って貰いたいのはやまやまなんだけど、夕飯の支度にそれどころではなく眼を閉じる自分にイライラしてくる。いつもならちゃんと忙しい事を分かってくれるのに、本の事となると節操なしなドゥカにもイライラしてくる。 ネスはじゃがいもの皮を剥きながら顔を引き攣らせていた。 どうすればいいっていうんだよ。 「なぁネス〜」 椅子から立ち上がりネスの腕にピタリとくっ付き隣からその手元を覗き込む。 「あれ、ネス、怒ってる?」 少し震える包丁を見て、ドゥカは軽くネスの顔を覗き込んだ。 「あはは、悪かったよ。あ、じゃがいもの皮剥き手伝おうか?」 眼を閉じているその睫毛を大きな青い眼で見つめながら、誤魔化すようにドゥカは笑った。 こうしてる間にも、彼の温もりがどんどん流れ込んでくるのだ。 ネスは軽く溜め息をつき、じゃがいもと包丁を置いた。 「?」 そしてドゥカの肩を掴みくるりと回すように扉に向ける。 そのまま無言でドゥカを廊下に追い出し、ネスはピタリと扉を閉めてしまったのだった。 「―――おい!」 閉まって何も言わなくなってしまった扉に、ドゥカはツッコむように言い捨てた。 (このヤロ〜何も追い出さなくても――――) その扉に凭れるようにずるりとうな垂れる。 ふと、隣でアオがじっと自分を見ていた。腕には紙の束が抱えられている。 「……………」 ドゥカは無言で、不躾に自分を見ているアオをさも脱力という感じに睨んだ。何とも複雑な気分だ。 「何か、用かよ」 低くやっと押し出したような声で、気だるく言う。 アオは虚ろな眼であまり反応を示さず、淡々と口を開いた。 「貴方ではなく、ネスに」 ピシ…。 アオは、やはりつくづくムカツク野郎だった。 扉の前にドゥカがへばりついているからか、その場で微動だにせずドゥカを見つめているアオに次第に苛立ちは増してきて、ドゥカは次の瞬間思いっきりアオの腕を引っ張った。 「!――――――」 抱えていた書類が、雪のように舞った。 「来いよ」 「え……」 「いいから来いって」 手首を掴まれドゥカに引かれるがまま、アオは素直にドゥカに着いていくのだった。 (雪に埋めてやる。雪に埋めてやる。雪に埋めてやる) そんな魂胆を露知らずに。
それは、記憶。 夜の色に溢れた、少し不安を纏う温かな記憶。 やがて残酷に打ち砕かれてしまう希望でキラキラしていた。 君に繋がれた手の温もり。大切で大切で堪らなかったのだ。 アオは咄嗟にドゥカの手を振り払っていた。 ドゥカが、両手を胸で祈りのように握り締め俯いて立ち止まってしまったアオを少し眼を見開いて見ていた。彼の名を呟こうとしていた口を、慌てて制した。 「おい……」 アオがそろそろと顔を上げる。少し虚ろな陶酔してるようなその綺麗な顔。滑らかな肌はあまりにも白くて、気分が悪いのかですら分からない。 そうやって真正面からじっとその闇夜のような眼で見つめられてしまうと、ドゥカの時は奪われてしまう。その少女のような儚げな姿に、ごくりと唾を呑んだ。 アオは少しだけドゥカから眼を背け、そして小さく口を開いた。 「………外に行くのなら、コートをとってきます………雪は…冷たいから…」 アオはそっと、ドゥカに背を向けた。 その頼りない程華奢なワイシャツの後姿を少しだけ、少しだけ見ていた。 本当はその眼が、その真っ黒な瞳が、 この世で一番嫌い―――――。
雪を掬って、思いっきりアオに投げつけてやろうとすると、その度に勘付くようにこちらを見るから、もう既にどうでもよくなってきて、ドゥカは玄関の扉の前の石の床にべたりと毛布を羽織って座り込んでいた。 少し遠い眼で、雪に溶け入るような真っ白いコートのアオを見ていた。 (俺……何してんだろ…) 何だかとてもアホみたいだ。ネスに追い出されたからって何もアオと一緒にいなくてもいいではないか。 「嫌いだ………」 ぽつりと無意識のようにその姿に呟く。何が楽しいのか、アオは幼い子供みたくじっと雪を見つめたりその上をゆっくり歩いたり触ったりしていた。 少し傾きかけた太陽は淡いオレンジ色の長い影を作り、まるで風の中を、水の上を歩いてるようにアオを幻想的に彩っていた。 元から現実の、生き物ではない。見惚れているその知らぬ間に魂を喰われてしまう。 ドゥカはグっと毛布の端を握る手に力を込めた。 ああイヤだな。どうしてこんなにも過去の面影を孕んでいるのだろう。 どうしていつまでもこんなにもこんなにも無防備で、綺麗な、ままで…。 眼を、伏せたくなる。
優しくされると拒絶してしまうくせに、 冷たくされると切なくなってしまう。 やがて空が、疼くように真っ赤に染まり始める。 雪で覆われた色のない大地を、狂おしい程の強さに染めていく。
「ドゥカ…」 名を唱えられて、ドゥカはハっとして顔を上げた。少し寝てしまっていたような錯覚がある。頭が少し傍っとしていた。 「――――な、何だよ…」 アオが大きく眼を開いて自分の姿で光りを遮っていた。顔が近過ぎる。顔を上げた時危うく唇が触れるかと思った。ギクリとして微かに潤んでいた眼も擦れずドゥカは這うように後退った。 少し距離を持つと、寒さでアオの頬が仄かに薄く染まっているのが分かった。白い肌に際立ってまるで固い頬の人形のようで、さも触れてみたくなる。 ドゥカは呆れるように眼を細めて、ぼそりと呟いた。 「止めろよそうやって顔近づけるの…」 アオはきょとんとドゥカの半分瞼に隠された澄んだ眼を見つめていた。 彼の形の良い薄い唇は、凍えて紫色。健康的な肌の色は、少し濁っている。 そっと眼を細めて、やんわり顔を傾けてゆく。 「!」 刹那ドゥカは思いっきりアオを突き倒した。ぐっと眼を閉じて、そっと開いていくと、ドゥカが上から険しい顔で自分を見下ろしていた。 「――アンタそうやってまた…踏み躙る気かよ」 あ…泣きそう…とか、酷く冷静に眉根を歪めたドゥカの顔を見ていた。その少し開かれたアオの唇があまりにも淫靡だから、余計胸が締めつけられるのだ。 そんな顔で、そんな眼で、睨まれるのが何だか一番怖いと感じ、アオは微かに眼を逸らした。 「…館内に戻りませんか……酷く、寒いでしょ…?」 その声は酷く淡々としていて、まるでこの唇のように冷たかった。 ドゥカは無言で、握り締めていたアオの腕から力を殺していった。
ただ冷たいものを温めてみようと思った。 ただそれだけの事―――。
夜は静かに鳴く事もせず、ただ淡々とそこに在り続けた。 ボタンを拾った。白いパールのような綺麗なボタン。 アオのボタン。 ドゥカは乱暴にズボンのポケットにそれを押し込み、展覧室の扉を三回ノックした。だが返事など待たずに扉を開く。 ヤナギが、自分の薬指をペロリと舐めていた。 「……アンタ何やってんだよ」 「あらドゥカ。応答くらい待つ余裕を持ったらどう? 夜中に乙女の元を訪ねているのよ」 「ケっ…何が乙女だ」 相変わらずの乱暴な言葉と態度で、遠慮もなしに部屋に入るとドゥカは傍の椅子にドカリと座った。 ヤナギがやんわり向かいの椅子に座る。 「温室で育てていたバラを活けていたら、指を刺されてしまったわ」 ちらりと壁際を見やると、そこには淡いピンクの小さな可愛らしいバラが一輪、そっと静かに佇んでいた。 「バラなんか何処がいいんだか。あんなベラベラな花弁とまるで人を遠ざけるように葉も茎も刺だらけ」 「あら、そこがいいんじゃない。危険なもの程美しくそして酷く妖艶だわ」 「俺はあの匂いが嫌いだね」 思わず咽かえる程にうっとくる。冷たい花弁と淫猥な女の匂い。 でもまだ、匂いがあるだけマシかも知れない。 「貴方から訪ねてきてくれるなんてもう終わりそうな今日が一気に輝いたわ。待って、今お茶を煎れるから」 るんるんとのんきに薄手の長いスカートを揺らし席を立とうとするヤナギに向かって、ドゥカは抑揚なく言い捨てた。 「いらねーよんなもん。俺はアンタなんかとのんびりお茶する趣味なんかねーんだ」 ヤナギがピタリと止まり、そしてドゥカに向き直る。 「あら…あんまりな言葉ねドゥカ。ならさっさと終わらせて頂戴。さもないと、貴方ベッドで温かな夢など見れなくなってしまうわ」 なにせ今は、全てが意識を容易に手放してしまう夜ですものと、ヤナギは妖艶に笑った。 ゾクっと背筋に冷たいものが這っていくのを感じた。 ああやっぱり、苦手だ。この女。 「まぁ言わずとも、貴方が私を訪ねてくるなんてたった一つしかないでしょうけど…」 何もかもお見通しという彼女の微笑をこれ以上見ているのに嫌悪を抱き、ドゥカは不躾に眼を伏せた。 「……アイツは、キス魔か」 「え?」 ドゥカの顔が少し赤くなっていくのが分かる。 「アイツは誰にでもキスをするような野郎なのかと訊いてんだよっ」 ヤナギが素っ頓狂な顔をして口許に指先を当てた。 「アイツって、アオよね」 「他に誰がいるんだよ!」 ドゥカは吐き捨てるようについて、そして横を向いたままムスっとしていた。 その真っ赤になってしまった顔を眺めながら、ヤナギがクスリと笑う。なんて、可愛いのだろう。このまま犯してしまいたくなる。 ヤナギは足を組み素っ気なく笑いながら言った。 「それはとても心外だわ。少なくとも、何か想いを表す行為であるキスを彼が容易に行うワケがないし、彼がそんなに無防備な姿を人に晒す事などないわ」 いつも冷たい、眼をしていた。あどけないその愛しい時も。 「無防備だろ…アレ」 ドゥカがそっと、ヤナギに眼をやる。ヤナギは不適に笑って、既にこちらを見てはいなかった。 「なら彼を犯してごらんなさい?」 瞬間その言葉の意味にドキリとする。ドゥカが怪訝に硬直してしまったのが、ヤナギには可笑しくて堪らなかった。 「彼の堪らない喘ぎ声や愛しい息や綺麗な涙を得る事が出来ても、彼が自分からその細い腕を絡ませてくる事などないわ」 ドゥカはじっと、睨むようにヤナギの微笑を見ていた。 「でも―――貴方には違うのよね」 一人納得するように口許を手で覆い、そしてその緑の眼だけを、ドゥカに晒し、口を開く。 「求められたら、突き放したりしないであげてね。冷たくしては、あのコがあまりにも可哀想だわ……」 ゆるゆると、ドゥカは眼を伏せて、小さく呟いた。 「………何を勝手な…」 彼女の眼をまともに見てしまっては、もう何も、何も言えなくなってしまうから。 胸が苦しくなってしまう。あまりにも、彼女のアオに寄せる眼が、優し過ぎて…。
ふと物音がして、アオは眼を開いた。 眼を開くと、辺りは驚く程暗くて、無理やり飲まされた血に拒絶反応を起こしたようだ。眼が泳ぎそして身体が、震え始める。 丸めた身体を殺すように力を入れ、眼をグっと閉じた。 この感覚、自分でもよく分からない。でも何かに、何かに怯えている事は確かだった。震える唇がそっと気づかれぬよう、蓋を閉めてしまったおもちゃ箱の中から無意識に紡ぐ。 「……ドゥカ………」 こっそり、ただ姿を見られぬようこっそり彼の忘れ物を机に置いてさっさと立ち去る気だった。少し甘ったるい幼稚な囁きに、不信感を抱いた。 覚悟をしていれば暗闇も少しは大丈夫だった。手には三又の燭台。救いのような三つの緩い灯りを携えドゥカはずかずかとアオのベッドに近づいていく。怒鳴り声も些か小声を意識していた。 「テメー変な夢でも見、て――――――」 アオの愛らしい上目遣いな眼と、ばっちり眼が合ってしまい、ドゥカは声を忘れていく。そのいつもとは様子の違う酷く潤んだ大きな眼に、束縛されてしまったような感覚。 「―――……泣いてんの?」 これが本当にアオなのだろうか。いつもの、客人にただ淡々とプログラムを遂行していく冷淡な彼とは別人ではないだろうか。 その眼は、あまり空虚に見えなかった。濡れているからだろうか、ドゥカの姿をゆらゆら蝋燭のように仄かに映している。暗闇の中で燭台の灯りなど好まず、何て深い青を纏っているのか。 何て、眼をするのか。これは――――――――怯え? アオがゆっくり上体を起こすけど、ドゥカは微動だにしなかった。ただじっとアオを見つめていると、彼は何か俯きがちに呟き、そっとドゥカの腰に抱きついた。 儚いくらい弱い力で。 ヤナギの言葉が、頭を掠めた。少しビクリとしたが、彼を振り解く事など出来なかった。違う、ヤナギの言葉など、今この状態で効力などない。 振り解かない。けれど手を添える事など出来ない。 触れられない。 触れる事など出来ない。 このアオが独りっきりの夜を怖がる存在ならば余計――――。 触れたらそれは、最高の罪。 ドゥカはただじっと、薄い腹に頬を寄せているアオのサラサラな髪を見つめるしかなかった。 やがてゆるゆるとアオはドゥカから離れ、少し俯いたまま顔に手をやった。 「……すみません…少し気が動転してて………」 ああいつもの、抑揚のない硝子のような声。 細い手首をもぐように強く強く握り締めている。 何だか少し、切なくなってくる。 ドゥカが出ていくのを待ってるように、暫くそうやって俯いたまま自分に眼をやらないアオを暫く見つめていたが、やがて堰を切るようにドゥカは乱暴にアオのベッドの端に座り込んだ。 「!……」 アオが驚いたように眼を見開いてドゥカを見た。ドゥカはアオを見てはおらず、彼の横顔は少し眼を伏せていた。そしてぶっきらぼうに呟く。 「……寝つくまで、いてやるよ…」 睫毛が少し、震えている。 アオは口を開きかけるが、そして何も言わず口を閉じ、そっと横になって、 ――――眼を閉じた。
今夜だけ―――そう今夜だけだから―――――…………。
だって彼の隣なら何も躊躇わず、 ……眼を閉じる事が出来る。
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