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クリエイター名  ウメ
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――放課後。



要は晴れない気分のまま午後の授業をやり過ごし、ようやく待ちわびた放課後を迎えた。

春と言えどもまだ日は浅く、陽は既に遠く西の山稜にさしかかり空全体をオレンジ色に輝かせていた。

校舎の外に出てみればそれがいっそう良くわかる。この場所は街よりも空に近い。

小高い山の中腹に設けられた校舎は、斜陽に照らされ地面に大きな影を落としている。校舎を出て坂道を下る生徒の足元にも同様に、斜陽に照らされ大きく育った影法師。

陽が傾いたとはいえ、それでも春の日差しは暖かく心地いい。グラウンドや敷地に設えられた専用のコートからは、部活動に精を出す生徒の掛け声が聞こえてくる。

要の通う学園はこの地方でも有数のミッション系の学園として名が知られている。

市街地から離れた場所に広大な敷地を有し、十数年ほど前までは全寮制を敷き世間から隔絶された環境で教育を行う、いわゆる上流階級の子弟や子女のみが通うような有名私立校というやつだ。

だが最近では、少子化と教育制度改正のあおりを受け全寮制も廃止し、身分を問わず広くその門戸を開いている。どこにでもある普通の学校。

要としては、このまままっすぐ家へ帰り、どうにかして昼間から胸の中でモヤモヤとしているこの憂鬱な気分を晴らしたいところだが……なかなかどうして、そういう訳にもいかない。

なにしろ今日は仕事の日だ。しかも彼女の予想が確かなら今日は徹夜仕事になるかもしれない。面倒なことこの上ないが、サボったりしようものなら、ひねくれ者の相棒に何を言われるか分かったもんじゃない。

脳裏に浮かぶ、まるで鬼の首でもとったかのように居丈高にふんぞり返る黒いスーツと帽子にサングラスの相棒の姿。

額に手をやり、それを思考の外へ追い出すようにニ三度ブンブンと頭を振って、空を見上げたまま止まっていた歩みを再開する。

この坂を下りたところにある学校もよりのバス停から、バスを二本乗り継いで駅前で降りる。駅を中心に広がるこの街で一番の繁華街。すれ違う人はその大半が人目でこの国の人間であるとわかるが、中にはその肌の色や言葉から外国人と思しき者もチラホラと見られる。

要はその巨大な繁華街を人の居ない方へ居ない方へ居ない方へと、人の流れに逆らうようにして進んでゆく。そして辿り着いたのは繁華街の裏手の裏手、そのまたさらに裏通り。少なくともここ数年は『築25年』という振れ込みが続いている古びた雑居ビルの前。

空きビル……と言う訳では無いのだが、何故かテナント名を示す看板らしきものはビルの周囲壁面どこを見回しても見つからない。

辺りを見回せば、そこにあるのはどれも似たような古びた……あえて言おう、うさんくさい建物ばかりだ。周囲に人影は無いにもかかわらず、そこかしこのビルの影から人の息づかいが聞こえてくる。

このあたり……本来ならば要のような若い女が独りで来るような場所ではない。

いかにこの街が人口100万に満たぬ地方の小都市と言えど、こういった……文字通り社会の“裏側”に属するの部分の危うさというものは、人口1千万規模の大都市と比較してもさして変わりはない。

“裏側”即ち、人の目が届きにくい場所というものは、常に犯罪の温床となり、自然とそこに住まうべき者が集まってくるものだ。適材適所――というと、それはまた違うような気もするが、まぁ概ねそれで間違いないだろう。

もちろん世界有数の危険地帯と称されるN.Y.のブロンクスやL.A.のサウスセントラルなどとは比べ物にならないが、それでもここが一般常識からいって『危険な場所』であることに変わりは無い。

そんな場所に、なんの力もない若い女が独りで来たりすればどうなるか。それは推して知るべしである。少なくとも面白いことにはならないのだけは請け合いだ。

ならば何故、要は少しも臆することなくそんな場所にいられるのか。

答えは簡単。要が社会の“表側”よりも“裏側”の方に深く属する人間であるからである。この辺りに棲む人間なら誰でも知っているだろう。『彼女に手を出せばどうなるか』と言うことを。

――まぁ、それ以上に私がアイツの“身内”だと思われていることの方が原因なんだろうけどな……。

そして、彼女の相棒もまた当然ながら“裏側”の方に近い人間だ。しかも年季が入っているだけあってソコソコ名が売れている。

ふと、自分に悪態をついて去っていった昼間の男子学生の態度が脳裏をよぎる。

「なるほど……。こんな場所に出入りしているのを誰かに見られたりすれば、そりゃ変な噂が立つのも道理ってもんだよな」

目の前の雑居ビルを見上げ呟く。火の無いところに煙は立たぬ、と言うのはこういうことを言うんだな、などと少し感心した。

彼女は別に他人にどう思われようが、どんな噂を立てれれようが、気にもならないし痛くも痒くもないのだが、彼女の父親や母親ならその噂に腰のひとつも抜かすかもしれない。

曰く、アイツは“売り”をしている。曰く、ヤバイ薬をやっている。曰く、アイツは妙な連中と付き合いがあり、事務所にも出入りしている。などなど……彼女に対するあらぬ噂の数々。

よくよく考えてみると微妙に事実を含んだものもある。だが、彼女はそんな噂を肯定もしなければ否定もしなかった。ただ、

――よくも熱心に他人の事を騒ぎ立ててくれるよな。

そう思うだけ。彼女には噂を広める連中の心理は理解できなかったし、理解しようとも思わなかった。



そんなことを考えながら、要は目の前の雑居ビルへ足を踏み入れる。目指すは5階建てのこの雑居ビルの三階にある彼らの“事務所”。

蛍光灯が備えられているにもかかわらず、スイッチを押しても灯りの点かない薄暗い階段。ジメジメとして湿度が高く、そこかしこの壁には謎の赤黒いシミがあったり、隅のほうには蜘蛛の巣が張られている。

そんなビルの外見どおりに薄気味悪い階段を二階分上り、三階の踊り場にある八割方その機能を放棄した扉をくぐると、今度は汚れが天然の曇りガラスと化した粗末なアルミ製の扉にぶち当たる。

「……ったく、掃除くらいしろよな」

要はこの扉を目にするたびに思う。これでは何のテナントだかもわからない。

本来なら扉のガラス部分に黒字で『相馬探偵事務所』と書かれていたハズなのだ。……少なくとも、去年の冬ごろまでは。

まぁ、扉の掃除はあとでやらせるとして、とりあえず今は中に入ろう。

要はアルミ本来の色とはかけ離れた薄汚れたドアノブに手をかけ、ひねると同時に勢いよく開け放つ。

――酒臭い。

扉を開けた瞬間、廊下のカビ臭い空気と扉の奥の空気とが交じり合い……それでもなお強烈な自己主張を放つアルコール臭が、これでもかと言わんばかり盛大に要を迎えた。

「おい勇大! どこだ! 居るんだろ!」

事務所の中に居るであろう、このアルコール集の原因となったはずの人物を、要はそのハスキーな声には似つかわしくない大声で呼びたてる。

「……んぁ……綾瀬か?」

「私以外の誰が来るって言うんだよ、こんなボロ探偵事務所!」

要に勇大と呼ばれたその人物は、いつものように応接用のソファーで眠っていた。呼びかけに応えて気だるげにヒラヒラと手を振ってみせる。

実は奥の部屋には彼専用のベッドもあるのだが、勇大がそちらのプライベートルームを利用することはほとんど無い。基本は毎日このソファーだ。

本来ならば依頼人(クライアント)との交渉の際に用いる立派な調度机も、いまは無数の酒瓶と肴の残りカスに占拠され見る影も無い。惨憺たる有様というのはこういうものを言うのだろう。

酒瓶の種類は、上等そうなウイスキーがあったかと思えば、表通りのディスカウントショップで1缶98円の発泡酒もある。和洋中と何でもござれ、その種類は実に多種多様。毎度の事ながら、この男の酒豪っぷりには恐れ入る。

「ボロとは何だボロとは……」

ぶつぶつと何事か呟きながらも、勇大はよろよろと頼りない足取りで立ち上がると、

「あ〜、スマン。水一杯もらえるか」

額に手を当て身勝手な注文を口にする。どうやら軽い二日酔いのようだが……これもまた勇大にとってはいつものことだった。

要は何度言っても変わらぬこの男の態度に半ば呆れながら、溜息をひとつ吐いて台所へ足を運ぶ。いっそバケツいっぱいに水を汲んでブッ掛けてやろうかとも思ったが、床が汚れるだけと思い止まり、注文どおりコップに一杯の水を注いで戻ってくる。

「ほらよ!」

だが、ただ渡すだけというのも気に入らない。そう思った要は手にしたコップを勇大の目の前に力いっぱい突き出した。こぼれた水が服や顔にかかったがそんなことまで面倒見てはいられない。

一方の勇大もそれに頓着した様子は無い。ただ「うぇ、これ水道水じゃねぇか」などと文句をこぼしつつ、一気にコップの水を飲み干した。

「ウチのはな、ボロじゃなくてアジがあるってんだ。それに、オマエ以外にも来るヤツはいる」

水分の補給でどうにか醒めてきた頭を振り、独自の感性と理論に基づいた反論を展開する。無論、説得力などは欠片もない。

勇大の就寝スペースとなっている、部屋の中央の調度机とソファーは言うに及ばず。窓際に置かれた『所長』の机とその周辺には、報告用の資料や各種請求書が山を成し、壁紙も張られず放置されたヒビ割れだらけのコンクリ壁は、誰もタバコを吸わないはずなのにニコチンでほのかに黄色く色づいている。

これではとてもじゃないが「味がある」とは言えない。勿論そんなことはこの部屋に住んでいる本人が一番良くわかっているのだが、勇大としてはあまり認めたくない。

「へぇ、私は『味福』のツケの取立て以外に『客』なんか見たことがないけどな!」

自活能力ゼロの勇大が生きるために必要なカロリーは、そのほぼ全てがアルコールと表通りにあるラーメン屋『味福』とに依存している。そう言えばそろそろ一か月分のツケの集金に来るころだ。

ちなみに『味福』一番のオススメメニューはラーメン屋のくせに何故かカレーだ。スパイスも効いていて美味いし、そのうえ安いし盛りも十分。ビールと一緒に食べるそれは勇大の好物のひとつだ。

……もしかするとこの部屋の壁が黄色いのは、ニコチンに拠るものではなくカレーが原因かもしれない。

「いやいや、きっといつの日か、俺の助けを必要とする深窓のご令嬢がだな……」

――ついにアルコールで脳がイカレたか?

まだ日も暮れないうちから素敵を語ってくれる勇大を、要は可哀想なものを見る様な目で見詰める。まぁもともと寝起きのこの男とマトモな会話が成立するとは思っていないが……。

要はそんな勇大を捨て置いて、窓際の、この事務所の中の一等地に設えられた『所長』のイスへ腰掛け、あたりに散らばる請求書の束をひとまとめにして机の中に放り込むと、机の大部分を占めているパソコンの起動スイッチに手をかけた。

社会的な通信インフラが整備され、『IT』という言葉も市民権を得て定着してきた最近、依頼人(クライアント)とのやりとりはもっぱら電子メールなどを介して行われることが多くなった。

『信頼性』と言う面では依頼人(クライアント)と直接会って面識を持っていたほうが良いのだが、中には素性・素面を知られたくないと言う、いわゆる『訳アリ・傷アリ』の連中も居たりする。そんな手合いを相手にすることも多い要たちにしてみれば、この電子メールというツールは実に便利だ。

もちろん要たちとて馬鹿ではない。注意を払うべきところには細心の注意を払うし、面通しが必要と思われるような場合はそちらを重視する。

パソコンの起動を確認し、さっそくメールプログラムを立ち上げる。ポーンという軽い電子音が鳴り新着のメールが表示される。その数は…6件。

「なんか着てるか?」

ようやく『朝』の身支度をはじめた勇大が、右手に持った電動シェーバーを口元に当てながら洗面所ひょこっと顔を出しそう訊ねる。

6件中、愚にもつかない広告メールが3件、依頼と思しきメールが3件。うち一件は宛名も件名も書かれていなかった。

「ああ、依頼のメールが3件」

勇大の質問に答えつつも作業する手は休めず、それぞれのメールの内容を確認する。件名を読んでそれとわかる広告メールは、内容を確認するまでも無く削除。それから残った3件のメールにそれぞれ目を通す。

依頼のメール一件目。『〜〜と言うわけで、主人の浮気調査をお願いしたいのですが、依頼料はいかほど〜〜』

そこまで読んで問答無用でゴミ箱に叩き込む。気の毒だがそういう俗な依頼は街の興信所にでも行ってくれ。勇大はどうか知らないが、要はこの手の尾行だとか身辺調査だとかがあまり好きではないし得意でもなかった。

二件目。『うちのリリーがまいごになってしまいました。さがしてください。おねがいします』

「ほうだ(どうだ)、はにかへごろなひらい(何か手ごろな依頼)、ひてるか(着てるか)?」

今度は歯ブラシを口にさしたまま洗面所から顔を出す勇大のセリフはとりあえず無視。

文体から想像される小さな依頼人の姿に少々気が咎めたが、二件目のメールもゴミ箱に放り込んで次に移る。

そして……三件目。『 ―― am1:30 』

ただ本文に短く時間だけが記され、ほかには何も書かれていない、いかにも不審なメール。宛名も件名も差出人の名前も書かれていないが間違いない“いつものやつ”だ。

「ビンゴ……だな」

いつの間に戻ってきたのか、背後からパソコンのディスプレイを覗いていた勇大が軽快な口調でそう呟いた。振り向くと、顔の下半分にキメの細かい泡を塗りたくり、その手にはハンドシェーバーが握られている。どうやらまだ身支度の途中らしい。

「案の定、今日は徹夜だよ……」

今日あたり来るだろうと予想はしていが、いざやるとなるとそれはそれで気が重い。

「なに言ってんだ、大事な上客じゃねェか」

そんな要の愚痴をたしなめつつ、勇大は手鏡を片手に無精ひげの手入れに余念がない。曰く『剃り残し』は男の美学に反する……らしい。

「私はあの連中が嫌いなんだよ。実入りが良いから断りはしないけどな」

要は、いつも黒づくめで現れるうさんくさい連中の姿を想像して毒を吐く。

こいつらから“依頼”を受け始めて、もうかれこれ一年の付き合いになるだろうか。

だいたい月に一度の間隔で舞い込む“依頼”。はじめのうちは要も勇大も、簡単で実入りの良いこの仕事を歓迎したものだが、未だに名前はもとより素性も全くわからないこの不気味な依頼人(クライアント)に、要は嫌悪感と不信感を持ち始めていた。

「綾瀬、仕事の選り好みしてるうちはプロとは言えないぜ」

パソコンの画面を見詰めたまま黙り込む要をそう言ってたしなめる勇大。

手に持った手鏡を見詰めながら剃り残しがないかを入念にチェックし「よし、今日もオレ完璧」と鏡に向かってウンウンと頷く。

勇大が言ったことは当然だ。要にだってそれは判っている。自分たちがすべきことは、受けた依頼を確実にこなすことのみ。そこに疑念を持つことは勿論、余計な詮索をしてはならない。

訊かず、探らず、関わらず。規則ではない、鉄則だ。

「それにだな……」

ソファーで寝ていたせいだろう。勇大はヨレヨレになった一張羅の黒いスーツのシワや襟元を気にしながら、要へと向き直る。

「この仕事の報酬をいただかんと……」

「いただかないと?」

一瞬の間をおき沈痛な面持ちとともに溜息ひとつ。

「家賃が払えず、コワイ人が取り立てに来たり、オレ達は最悪ココを追い出される」

机の引き出しに放り込んだ請求書の束に目を落とす。家賃の滞納は既に三ヵ月を超えている。これではいつ叩き出されても文句は言えない。

要はこの事務所とは別に自宅アパートを所有しているので問題はないが、この事務所に住んでいる勇大にしてみれば大問題だ。ココを追い出されれば一気にホームレスに転落である。

プロ云々は別にしても仕事を選んじゃいられないというワケだ。

「……『浮気調査』と『迷子のペット探し』が着てる」

勇大のその言葉に、要は漏れ出そうになる溜息をこらえつつ、先刻ゴミ箱に捨てた依頼のメールを回収し、身支度を終えたらしい『所長』に席を譲る。

「明日にでも依頼人(クライアント)と連絡……取っとけよな」

そう言って席を立ち要を立った要に代わって席に着く勇大。パソコンの画面に表示された三件の依頼メールに目を通し「……へいへい」と、さも面倒くさそうな返事をよこす。

とりあえず今夜の仕事は決まった。準備に取り掛からなければならない。

席を立った要は、事務所の奥に設えられた専用の部屋へと向かう。今日の仕事は“アレ”を準備しておかなければならない。

奥へ向かう途中、部屋の隅に置かれた時計に目を移すと、そこには二本の針で6と12を指し示す大きな木時計。外装や文字盤など随所に細緻な模様が彫りこまれたアナクロな外観を備えたそれは、この部屋にはなんとも不釣合いで不自然だ。

――ボーン、ボーン、ボーン……

ちょうど長針が最後の一歩を刻み、刻を知らせる鐘の音が6度、日の光とは縁遠い薄暗い部屋の中で静かに鳴り響く。

「6時か。急がないとな……」

依頼人(クライアント)が指定してきた時間まではまだ6時間以上の間があるが、だとしても悠長なことは言っていられない。「どんな依頼でも全力を持ってあたれ」とは勇大の弁。簡単な仕事だからといって手は抜けない。

こういった点に関して『だけ』は要も勇大を信用できると思っていた。

「なぁ、この『浮気調査』の依頼人(クライアント)、美人だと思うか?」

事務所の奥へと去ってゆく要に届く声。視線を向ければ、にやけた顔でパソコンの画面を眺める勇大の姿。何を考えているのかが手に取るように判ってしまうのは、付き合いの長さゆえだろうか。

「知るかッ!」

――前言撤回。

要は事務所の奥に設えられた専用の部屋へと姿を消す。荒々しく開け放たれ、そして閉められた扉が、ギィ、と不満げな軋んだ音を立てた。
 
 
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