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クリエイター名 |
大河渡 |
BABY SMILE(ラブコメ)
■題名「BABY SMILE」 ■400字詰め原稿用紙30枚
■本文 ――お母さん。あたし今、とっても幸せだよ――
真冬にしては、暖かな早朝。 前日までに降り積もった雪が水となって流れ出ている。 その日、高校の日直だったあたしは、同じ日直当番の慎【しん】を引き連れて朝早く登校した。 あたしと慎は小学校からの腐れ縁、いわゆる幼なじみだ。 慎はお姉さんがいる弟にありがちな、おっとりした性格。身長が低く、ガクランが全然似合わない。対して、あたしは身長が高く、バレー部に所属する体育会系の人間だ。 あたしたちが並んで歩いていると、姉弟みたいだとよく言われる。 正門前まで来たところで、あたしたちは雪に囲われた奇妙な箱を見つけた。 「なに、これ?」 やや大きめのサイズ。中には分厚い毛布が敷かれたバスケットが入っている。そして、そのバスケットの中では、ある物体がばたばたと盛んに動いていた。 子猫や子犬ならまだわかる。イグアナやヘビだって許容範囲内だ。でも……。 焦点が定まっていない、真っ黒な瞳。 毛糸の帽子やセーターに包まれた体。 紅葉のような手。 「ふみゃあ」 そう。紛れもなく箱の中にいたのは、人間の赤ちゃんだった。生後五ヶ月ほどのまだ歯も生えそろっていない小さな赤ちゃんだ。 『名前はまどかといいます。この子をよろしくおねがいします』 そう書かれたメモが箱に添えられている。 「捨て子だね」 慎が半分寝ぼけた、のんびりとした口調で言った。しかし、あたしはあ然と口を開けたまま、箱の中の赤ちゃんを見ていた。 ふと赤ちゃん――まどかと目が合う。 「ふえ……」 あたしと目が合った途端、まどかの顔が、みるみるゆがんでいき、いきなり泣き出した。 あたしは耳をふさいで正門まで逃げると、顔だけ出して慎に言った。 「ちょ、ちょっと慎。何とかしなさいよ。お姉さんの子供の面倒見てるんだから、こういうの得意なんでしょ?」 「もう。悠希ってば、こういうときばっかりぼくに頼るんだから」 「あたしは赤ちゃんも子供も嫌いなの! 知ってるでしょ?」 慎はため息をつきつつ、慣れた手つきでまどかを抱き上げた。根気よくあやすと、まどかは次第に泣きやみ、うって変わって顔いっぱいの笑顔を広げた。 慎もまた、まどかに頬を引っ張られながら、しまりのない笑顔を広げていた。 あたしはどっと疲れてため息をついた。
あたしたちがまどかを連れて職員室に行くと、職員室はパニックを起こした。 生徒指導の先生があたしたちの言い分も聞かずに一方的に怒鳴りまくった。 どうやら、まどかをあたしと慎の子供だと勘違いしたらしい。 担任の芹沢小夜先生が間に入ってくれたおかげで、誤解は解けたけど、ようやく帰った教室でも、騒動を聞きつけたクラス一同から祝福の言葉を投げかけられた。クラッカーを持ち出すやつまでいた。 「だから、違うって。違うって言ってるでしょ! あたしは慎なんかタイプじゃないし、子供は嫌いなの!」 あたしは大声で否定したが、クラスメイトはまるで信じていない。 それにしても、まどかはなかなか度胸の据【わったお子さまだ。周りで大騒ぎしても、慎の手の中でぐっすりと眠っている。 あたしの顔を見て大泣きしたのが嘘みたいに、代わる代わるクラスの女の子たちがまどかを抱いても嫌がらなかった。なんか腹が立った。 さすがに授業中は、ベテラン保健医の田村【たむら】先生にあずかってもらったけど。 「誰かに抱いてもらって安心したんだね」 「なんで、あたしの顔を見て泣いたのよ?」 「そりゃあ、怖い顔してにらまれれば泣くよ。すっごく怖い顔してたよ」 ころころ笑いながら慎は言う。 「どうせ、あたしは怖い顔してるわよ。別に好かれたくもないから、いいわよ」 「そんなむくれてないで。ほら、悠希も抱いてみたら? かわいいよ」 「絶対やだ!」 あたしの子供嫌いにはいろいろとわけがあったが、一番の原因はあたしの母がまだ幼いあたしを残して家を出たことだった。 大人の事情なんて、あたしにはわかるわけもないし、わかりたくもない。 どうせ捨てるくらいなら、最初から産まなければいいんだ。
放課後。一年四組のホームルームの時間。 「ということで、まどかちゃんのお母さんが見つかるまで、穂波悠希【ほなみ・ゆうき】さんにまどかちゃんをあずかってもらいたいと思います!」 小夜先生が声高らかに宣言すると、クラスから、わあと喝采が上がった。 「ちょっと待って! そんな勝手に……」 あたしが異議を唱えて立ち上がると、クラスメイト全員が一斉に、しーっと人差し指を唇に押し当てた。あたしは、慎に抱かれているまどかを憮然とした表情で見てから、声を押し殺して言った。 「なんで、あたしが面倒を見なくちゃいけないんですか? あたしはその子を拾っただけであずかる義務なんてありません。さっさと警察か施設に送り届けた方がいいんじゃないんですか?」 「冷たいよ、そんな言い方」 慎にしては、珍しく怒ったような口調。 だけど、あたしも腹が立っていたので、もっと怖い顔でにらみ付けてやった。 「だったら、あんたがあずかりなさいよ。あんたに懐いているみたいだし」 「さとみ姉さんが昨日から風邪を引いてるんだ。代わりにぼくが姉さんの子供の面倒を見てるんだ。この子まで面倒を見る余裕はないよ」 「あたしだって、クラブの大会が近くて大変なのよ。そんな子にかまってる暇はないわ」 あたしたちが言い合いをしても、クラスメイトは誰ひとり止めるものはなかった。 あたしたちのけんかは日々平穏な証らしい。 「まあまあ。二人ともケンカしないで」 しばらくして、小夜先生があたしたちの間に入った。 「まだまどかちゃんのお母さんが帰ってこないと決まったわけじゃないし、二、三日もすれば、きっとお母さんも見つかると思うの」 「この子は捨てられたんですよ? 見つかるはずありません。もし母親が見つかっても引き取らないって言ったら、どうするんですか?」 「だからこそ、あなたにあずかっていてほしいのよ」 「………?」 小夜先生は、あたしににっこりと微笑み、それから声高らかに言った。 「じゃあ、いつものように困ったときは挙手で決めましょう。悠希さんがあずかるのに相応しいと思う人は、手を挙げてください」 小夜先生の問いかけに、あたし以外のクラスメイト全員手を挙げた。 お祭り好きのうちのクラスが手を挙げないはずがないのだ。 「だから、あたしはその子をあずかる気なんかないって――」 「悠希さん忘れたの? クラスで決めたことは、絶対よ」 小夜先生はいたずらっぽく微笑み、かわいらしく人差し指を立てた。彼女は、その凶悪な笑顔でクラスを何度も黙らせてきた。 あたしはがっくりうなだれ、そして……。 「わかったわよ。あずかればいいんでしょ。その代わり、二日間だけだからね!」 やけくそになって叫んでいた。
あたしの家は閑静な住宅街にある。古びた木造家屋に、大工職人の父と二人暮らし。 父はいつも朝早く出掛けるが、帰宅は夜遅い。 頑固な父がまどかを見つけたら、先生たち以上に暴走するのは必至だった。号泣するか相手の男を捜すと怒り狂うか……まあ、娘に甘いから殴られることはないから、いっか。 小夜先生やクラスメイトがカンパと称して、ほ乳瓶やおむつなど赤ちゃんに必要なものは一通り用意してくれた。担任が担任だけに、こういうノリだけはいい。 茜色の空に薄紫の雲がたなびく頃、あたしはまどかを抱いて夕食の材料を買いに、商店街を歩いていた。 あたしは慎から引き渡されるとき、また泣かれるんじゃないかとビクビクしていたが、まどかは泣くどころか楽しそうにしていた。 その分、しゃぶっていた手で顔や髪を引っ張られて、ベタベタにされたけど。 夕暮れの商店街は多くの人でごった返している。その中で、女子高生が赤ちゃんを抱いている姿は、やっぱり浮いていて、何人もの人にジロジロと見られた。 ただでさえ沈んでいた気分が、ますます沈んだ。 「まったくみんなあんたのせいよ。あんたのせいでクラブにも出れないのよ。レギュラー落ちしたら、どうしてくれるの? こら、何とか言いなさいよ」 腹が立って、まどかのほっぺたをつねる。 思ったより、ぷにぷにとして気持ちいい。 「なんか、ちょっとかわいいかも……」 そうつぶやいてから、あたしは自分が子供嫌いだと思い出し、頭を振った。しかし、今度は抱きしめたい衝動に駆られ、強く抱きしめてみた。すると、まどかは手足をばたつかせて、いやいやした。 かわいすぎる……! あたしは頭がくらくらして、額を押さえた。 「悠希さん、道の真ん中で何をしているの?」 声をかけられ、振り返った。 「み、美崎【みさき】先輩!?」 あたしは素っ頓狂な声をあげた。 美崎先輩はあたしが所属するバレー部の二年生の先輩だ。彼女は親元を離れてバレー部で名高いあたしの高校に通い、一年生のときからエースとして活躍していた。 あたしの憧れであり、目標の人だ。それだけに、夏ごろ、彼女から体を壊してクラブを辞めると聞かされたときは泣いてしまった。 「こ、こんにちは」 緊張して、腰まで頭を下げた。 「その子が噂の赤ちゃんね? 大変ね。いきなりこんな小さな赤ちゃんの面倒を見なくちゃいけないなんて」 美崎先輩の優しい言葉に、あたしはついうれしくなって、 「本当ですよ。今は地区大会に向けて大切なときだっていうのに。今回はかなり練習しないと、負けちゃうかもしれないんです」 「なら、どうして、その子をあなたがあずかっているの?」 「ほら、うちは母がいないじゃないですか。父も職人気質だから子供の世話なんてろくにできないし、あたしが面倒を見るしかないんですよね」 「そういうことじゃなくて……あなた、誰よりもクラブでがんばってたじゃない。それを投げ出してまで、どうしてその子の面倒を見ているか、ってこと。子供、好きになったの?」 「まさか! 担任の小夜先生に押しつけられて、仕方なく――」 「でも、あなたとっても楽しそうな目をしていたわ」 あたしは「え?」と短く言葉を発した。 楽しそうな目をしている? 嫌で嫌でたまらないのに? あたしが困惑していると、その横で、美崎先輩がまどかを微笑みかけていた。 それはホットココアのような甘く、見る人を安心させる微笑みだった。その微笑みを見て、あたしは胸がギュッと絞られた。 お母さんとよく似てる……。 あんな笑顔をあたしは見せられない。 きっと美崎先輩の勘違いだ。 「そうだ。先輩もこの子を抱いてみます? 先輩に抱かれたら、きっとまどかも喜ぶと思うんです」 「でも……」 いきなりの申し出に、美崎先輩は戸惑っていた。 「大丈夫ですよ。今なら眠ってますから」 美崎先輩はためらっていたが、やがておずおずと手を伸ばした。しかしそのとき、まどかがまぶたを擦って目を覚まし、手を伸ばしかけた美崎先輩に甘えた声を出した。 美崎先輩はビクッと体を震わせ、思わず手を引いた。すると……。 「ふえ……」 まどかが急にくしゃくしゃと顔をゆがませて、声を上げて泣き出した。鼓膜を震え上がらせ、周囲の人たちが思わず耳をふさぐほどの大声だった。 「ご、ごめんなさい。わたしのせいで……」 美崎先輩は自分が驚かせたせいだと思ったらしく、おろおろとしていた。 あたしは「気にしないでください」と笑顔で言いながら、泣きやまそうとあやしたが、いっこうに泣きやむ気配はなかった。 「なんかこの子、疲れたみたい。あたし先に帰りますね」 あたしは一礼して美崎先輩から離れた。 帰り道も、まどかはますます声を荒げて泣いた。さっきまで好奇の目で見ていた人も、今は苦々しい表情であたしたちをにらみ付ける。 「おむつ? それとも、おなかが減ったの?」 逃げるように帰った家でも、田村先生に教わったとおりに世話をするが、それでもまどかは泣きやまなかった。 「お願いだから泣きやんでよ……」 あたしまで泣きたい気分になってきた。 「やっぱりお母さんが恋しくなったのかな?」 泣き叫び続けたまどかは、時折、げほげほと苦しそうにせき込んでいた。 あたしはまどかを見ているのが辛くて、苦しくて、とうとう逃げ出した。 「勝手に泣いていればいいでしょ!」 あたしはまどかを放って自室に駆け込み、布団を頭からかぶった。
ふと気がつくと、まどかの泣き声が、ぱたりと止んでいた。 重いまぶたを擦って柱時計を見ると、針は九時半を指していた。眠っていたらしい。 部屋を出ると、父はまだ帰っていないらしく、家は静まり返っていた。 よかった。やっと黙ってくれた。 きっと泣き疲れて眠ったんだろうな。 あたしはホッとしながら、まどかが眠っているだろう、ベビー用のかごをのぞき込んだ。 「まどかっ!」 あたしは心臓が止まりそうになった。 まどかが赤くはれぼったい顔をし、ぐったりとしていた。慌てて抱き起こすと、体が燃えるように熱かった。 さっき泣いていたのは、きっと体の具合が悪いことをあたしに訴えていたんだ。なのに、あたしはまどかの助けを呼ぶ声を無視した。 あたしは、頭が真っ白になるほど混乱して、どうしていいかわからず、ただまどかを抱き、心の中で助けを呼ぶことしかできなかった。 「ごめんください」 神様があたしの祈りを聞き届けてくれたのか、慎の声が玄関から聞こえてきた。あたしは声が聞こえるやいなや、玄関へ駆けだした。 「ど、どうしたの? 悠希」 今にも泣き出しそうなあたしを見て、慎が目を丸くした。 「お願い、慎。まどかを助けて……」 あたしは泣きじゃくりながら、まどかの状況を説明した。途端に、慎の童顔が引き締まり、あたしの両頬を両手で叩いた。 「泣いてちゃダメだ! 今は悠希がまどかちゃんの母親なんだから、落ち込んでる場合じゃないよ。今医者を連れてくるから、それまでぼくが言うことをしていて。いいね?」 あたしは普段とは違う慎に圧倒されながらも、おずおずとうなずいた。 あたしは彼が指示したとおり、氷を砕いて小さな氷のうをつくり、汗まみれのまどかの体を拭いたりとせわしなく動いた。 しばらくして、慎が近所の小児科医の先生を連れてきてくれた。 まどかは軽い風邪だった。 急な環境の変化が原因らしく、先生が注射を打ったら、すぐに落ち着いた。 だけど、あたしはまどかが無事だと知った途端、人目もはばからず、声を上げて泣き出してしまった。 そんなあたしの顔を、まどかが、あーあーと言いながら撫でたり、キスをして慰めてくれた。 よだれでベタベタになったあたしの顔を見て、慎は苦笑していたが、あたしはうれしくて、泣きながら頬をまどかに寄せた。 父が帰ってくるまでの間、あたしと慎は一緒にまどかの面倒を見ていた。 「もし悠希が辛いのなら、まどかちゃんの世話、ぼくが交代しようか? 先生がどうして悠希を選んだのかわからないけど、やっぱり嫌なことを無理してすることはないと思うんだ。今日はそれを言いに来たんだ」 慎の申し出を、あたしは首を振って断った。 「どうして?」 「だって、あんたにできることが、あたしにできないなんて悔しいじゃん。あんたの面倒を見たのは、このあたしなのよ。この子の面倒くらい見られるわ」 「いじっぱり」 そう言って、慎は目を細めてあたしを見つめた。あたしは気恥ずかしくなって、まどかの風邪がうつったみたいに顔を赤くした。
あたしは、もうまどかの面倒を見ることに抵抗はなかった。 翌日は、まどかと共に大変だけど、楽しい一日を過ごすことができた。 夜遅く帰宅した父は、やっぱり暴走しそうになったが、小夜先生からの連絡を受けて事情を飲み込んだ。それから、実の娘か孫のようにまどかをかわいがった。 まどかは母親を恋しがって夜中や明け方に泣くことがあった。だけど、慎と同じように、一生懸命に微笑みかけると、あたしでも我慢して眠ってくれた。 小夜先生の強い要望もあって、翌日も学校にまどかを連れて行った。 ほとんど一晩中まどかの世話をしていたので、授業中は眠くて辛かった。けれど、放課後になって保健室に引き取りに行くと、まどかは笑顔で迎えてくれた。 それだけであたしは元気になれた。 夜。小夜先生から電話がかかってきた。 『は〜い。まどかちゃん元気してる?』 「はい。さっき少しぐずってたけど、今は父と遊んでます。熱も引いたみたい」 『ふうん。なんか、ずいぶんお母さんらしくなったんじゃないの?』 「やめてください。あたしまだ十六になったばかりですよ?」 電話口からクスクスと笑う声。 『明日で約束の二日間は終わりよ。おめでとう。やっとふつうの学校生活に戻れるわね』 「そっか。もう約束の二日間が終わっちゃうんだ……」 『どうしたの? 寂しいの?』 冗談、とはね飛ばす気になれなかった。 「でも、どうするんですか? 結局まどかの親は名乗り出てこなかったじゃないですか。やっぱりまどかはどこかの施設に……」 あたしは心の中で、もうしばらくあずかってもいいと思っていた。 それで、もしまどかの両親が名乗り出なかったら、父に相談して、うちの子として引き取ったって……。 子供を引き取るのは、そんな簡単じゃないって、わかってる。わかってるけど……。 受話器を手にうつむいているあたしを知ってか知らずか、小夜先生は明るい声で言った。 『まどかちゃんのお母さんなら見つかったわ』 「見つかったんですか!?」 あたしは思わず聞き返してしまう。 『あら? 見つかってほしくなかった?』 「そんなことは……」 最後まで言い切ることができなかった。 『まどかちゃんのお母さんね、まどかちゃんを捨てたことを後悔してるって。できれば、もう一度引き取りたいって言われたの。明日の朝七時に校門前に迎えに来てくれるよう頼んだけど、それでいい?』 まどかを捨てた母親に会える? あたしの中で複雑な想いが渦巻いた。 『どうしたの? 何か都合が悪い?』 黙り込んだあたしに小夜先生が聞く。 「い、いえ、そんなことないです」 『じゃあ、まどかちゃんを連れて、必ず七時に学校に来るのよ』 あたしは受話器を置いた後、まどかの小さな体を力いっぱい抱きしめた。
早朝の吹きすさぶ風は冷たかった。 お母さんと別れたのも、こんな寒い朝だったっけ……。 あたしはまどかの入ったかごいっぱいに毛布を敷き詰め、風から守るように抱きかかえて歩いていた。 その間、あたしは何度も震えてくる唇を押さえ、まどかに微笑んだ。 付き添いの慎は、あたしを心配して何度も振り返ったが、声はかけなかった。 結局あたしたちは一言も会話を交わすことのないまま、学校の正門まであと百メートルという場所まで来た。 そこで、あたしの足が動かなくなった。 「どうしたの? 悠希」 急に立ち止まったあたしを心配して、慎が振り返る。 あたしは歩かなくちゃと思いつつも、足が前へ踏み出すことを拒んでいた。 まどかの無邪気な寝顔を見ていると、心臓がどくどくと高鳴った。 夜遅くまで泣いて寝かせてくれなかった。 だっこしないとすねて、ほ乳瓶を投げた。 あたしの髪が好きでいつも触っていた。 それらの思い出を振り返っていると、急に思いがけない言葉が口から飛び出した。 「やっぱりこの子を返すなんて、嫌!」 あたしはベビー用のかごを抱きかかえたまま、その場に座り込んだ。 「今さら何よ! この子を捨てた母親がのこのこ出てきてどうしようって言うの? この子を捨てたくせに、母親を名乗るなんておこがましいわ!」 慎は座り込んだあたしの側まで歩み寄り、あたしの両肩に手を添えた。 「気持ちはわかるけど、まどかちゃんがお母さんに会いたがっているのは、悠希が一番知っているじゃないか」 あたしは、ぶんぶんと首を横に振る。 「母親にならあたしがなる。まどかを本当の母親に返しても、どうせ、またこの子を捨てるに決まってる。だったら、あたしが母親になって、この子を守るの!」 「悠希は、たった二日間しかまどかちゃんの面倒を見ていないんだ。それで、母親を名乗るなんて、それこそおこがましいじゃないか。ちゃんとまどかちゃんの母親に会って話をするべきだよ」 「子供を捨てた親の気持ちなんて、知りたくなんかないわよ!」 あたしはみっともないくらい、ぼろぼろと泣き出した。そんなあたしの顔を、まどかが心配そうな表情で撫でた。 「まどか……」 あたしは堪えきれず、かごからまどかを取り出すと、決して離すまいと抱きしめた。慎はかける言葉に困っていた。代わりに、彼の後ろから現れた人影が、声をかけた。 「ありがとう。そんなにも、まどかのことを想ってくれて……」 顔を上げると、美崎先輩が立っていた。 「……美崎先輩? どうして、ここに?」 美崎先輩は一瞬のためらいの後、言った。 「悠希さん。その子の……、まどかの本当の母親は、わたしなの」 「えっ?」 あたしは始め何を言われたのかよくわからなかった。だって、憧れの美崎先輩が、生後間もない赤ちゃんを寒空に捨てるなんて信じられない。信じられるはずもない。でも……。 「本当よ。間違いなく、まどかはわたしひとりで産んだ子供なの」 「ひとりって……」 「好きな人と結ばれてできた子供のはずなのにね。あの人は、わたしに子供ができた途端にいなくなっちゃって……。もっとわたしに勇気があれば、いろいろと道を選べたんでしょうけど……あのときのわたしには、親にも内緒にして産むしかなかったの。元々お腹が大きくならない体質みたいだったし、大丈夫だと思って……」 「じゃあ、クラブを辞めたのは……」 「うん。それが原因。でもね、それでも納得して産んだつもりだったのよ。だけど、大好きなバレーを辞めて、子供の世話に追われて、あなたやクラブのみんなが練習している姿を見ていたら、なんでわたしだけって……」 「そんなの、先輩の勝手じゃないですか!」 あたしには、美崎先輩の姿が、幼いあたしを捨てた母の姿に重なって見えた。 「そうね。勝手ね」 美崎先輩は自嘲的に笑った。 「でもね、悠希さん。わたし、あなたに感謝しているのよ。この二日間、あなたを見ていたおかげで、もう一度まどかを育てようと思ったから……」 「ど、どういうこと?」 「驚かないで聞いてね。実は二日間、まどかをあなたにあずけるようわたしに提案したのは、芹沢先生なのよ」 「さ、小夜先生が!? でも、小夜先生、先輩のことなんて一言も……」 「芹沢先生は、前々からわたしに子供がいるって知っていて、気にかけてくれてたの。今度のことも、まどかを育てることに自信がないわたしに、『思い切って、悠希さんにあずけてみたら?』って……黙っていて、ごめんなさい」 あたしは全身から力が抜けていった。 考えてみれば、あたしがまどかを見つけたこと、母親が見つかるといってまどかをあたしにあずけ、約束の二日間で母親が見つかったこと、あまりに都合が良すぎた。 だけど、それが小夜先生の仕業なら、すべて納得できる。 「この二日間あなたを見ていて、一つだけわかったの」 美崎先輩の細い指があたしの手に触れる。 「子供嫌いのあなたにできるのに、母親のわたしができないなんて悔しいって。だから、もう一度だけくれないかな。わたしがまどかの母親になるチャンスを」 あたしはまだ迷っていた。 「あーあー」 そのとき、まどかが美崎先輩に向かって腕を伸ばした。それは、あたしには見せなかった、チョコレートのように甘い笑顔だ。 その笑顔を見たあたしは、大きく息を吐いて、顔を上げて言った。 「一つだけお願いがあります。さっきの言葉、訂正してください」 「えっ?」 「もう一度だけじゃありません。この子とずっと一緒にいるとあたしとまどかに約束してください。あたしは、もうこんな泣き虫をあずかるなんて嫌です」 美崎先輩は胸に手を置いて笑った。 「ええ。約束するわ」 美崎先輩は包み込むように、まどかを抱き上げた。それは、たった二日間の母親だったあたしなんかに比べて、ずっとずっと様になっていた。 なんだかとっても悔しかった。 美崎先輩は、あたしたちに一礼してから、学校の正門に向かって歩き出した。 「ああっ!」 そこには、諸悪の根源である小夜先生が立ち、美崎先輩を学校の中へ迎え入れた。そして去り際に、いたずらっぽい笑顔で、人差し指を立てた。 「やられたね」 慎は笑っていたが、あたしは目にいっぱいの涙をためて、口をへの字に曲げていた。 美崎先輩があたしの一生懸命な姿を見て、心を揺り動かされたのはうれしい。それに、小夜先生も美崎先輩から、あたしが母に捨てられた過去を知らされたからこそ、あたしにまどかをあずけたのだって、今ならわかる。 だけど……、だけど……。 小夜先生は困っているあたしを見て、楽しんでいたに違いない。絶対にそうに決まっている。 「ねえ、悠希。子供、好きになった?」 楽しそうに慎は問いかける。 あたしは胸いっぱい息を吸い込み、思いっきり叫んだ。 「子供なんて、大ッ嫌い!」 だけど、なぜか冬の朝日を見上げるあたしの顔は、ほころんでいた。
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