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クリエイター名 |
緋翊 |
サンプル
<サンプル1>
―――――どう、と衝撃音を聞いた瞬間。僕の身体は宙を舞っていた。 「フィアレ!?」 慌てた気色で叫ぶ仲間の声を聞いたけれど、それが僕の浮揚を止める言霊を秘めた呪文であったはずもなく。どすん!と大袈裟な音を響かせて、僕の身は壁に叩きつけられた。 「ぐ」 中途半端な悲鳴が口から漏れる。そのまま僕の身体は、力なく崩れ落ちた。 ああ。頭がくらくらする。 胸が気持ち悪くて吐き気がするし、全身が満遍なく痛い。 茫洋とした意識は今すぐにでも己の制御を離れそうで、しかし依然として生きている。 幸か不幸か。ボロボロの身でありながらも生きている自分の境遇を、一瞬ではあるが呪ってしまった。 「かはっ……」 込み上げてきた「それ」を抑え切れずに、恥も外聞も無く咳き込んでしまう。 びしゃ、と口から床に吐瀉されたそれは、赤い色をしていた。 「くそ……」 全く、なんて性質の悪い現実だ。 「フィアレ、大丈夫か!?」 「ああ……大丈夫」 投げかけられた野太い声になんとか答えながら、身を起こす。 「大丈夫だよ、アルスト」 かしゃりと、身に着けた甲冑が音を立てた。軽く頭を振り、意識を明快化させる。 「ちょっと、フィアレ!生きてるんならさっさと働きなさいよ!」 次いで、トーンの高い少女の声が聞こえてくる……こちらはとても五月蝿い。 金切り声に顔をしかめながら、僕は獲物のバスターソードを手に持ち直し、前を向く。 そこには壮年の古強者といった感じの男の騎士と、いかにも駆け出しといった風情の若い女魔術士が立っていた。 そしてまた、その向こうには―――― 「分かってるさ……クレア。頼むからもう少しおしとやかな声で喋ってくれ。育ちの低さが『そちらの御大』にも露見してしまうよ」 「なっ―――――余計なお世話よ!」 軽く茶々を入れながら、僕は走り出す。その先に在るのは、仲間である老騎士アルストと女術士クレア…………否。更にその先に居る、「魔獣」だ。 「アルスト!二人で同時に仕掛けるっ!!」 「承知!」 そう。相棒と共に駆ける先。そこに在るのは宝でも栄光でもない。 おそらくは、このダンジョンの主。僕やアルスト、クレアといった―――冒険者の天敵。 ゼェゼェと厭らしい息を紡いでいる、強大な身体を持つトカゲの化物だった。
………目の前に居るその獣はドラゴン、魔竜と呼称される人外。 強固な肉体と強大な膂力。そして魔術運用能力まで待ち合わせている素敵な生物だ。 「せあぁぁぁぁ!!」 僕は雄叫びを上げながら竜へと加速する。その隣には、僕の意図を正確に汲み取ってくれた相棒が併走していた。 「……………ふっ!」 鋭く息を吐きながら、僕は極端な前傾姿勢もそのままに竜の太い脚に斬りかかった。ざくり、と小気味良い音がして盛大に血飛沫が上がる。 「アルストッ!!」 「うおぉぉぉぉぉ!」 その一撃で竜の動きが鈍った隙に、アルストが跳んでいた。 彼は飛翔騎士もプロの運動競技者もかくやといわんばかりの豪快な飛び上がりを以って竜の頭部近くまで到達し、勢いを殺さずに剣を振るう。 巨大な竜の眉間が、見事に爆ぜた。 「やったか!?」 「いや……この程度で倒れては魔獣とは言えぬ。その矜持と暴性は呆れるほどに堅牢で強固だ。彼の者の再生能力も、まさか衰えてはおるまい………来るぞ!」 歓声を上げる僕に、アルストの警句が響いた。はっとして見やれば竜はその口を開き、猛っている―――火炎を吐く気だ! (甘かったか!?) 己の浅慮を呪いながら、炎を耐え切らんと全身を固める。もう、到底回避も間に合わない。 竜が豪快な吐息に乗せて、灼熱を僕等に吐きかける………瞬間。
「無粋なる威よ、我等を侵すこと能わず!“Het overweldigen demon muur”!!」
凛、としたクレアの声が空間を支配する。それは力を持った言葉であり、暴力を圧倒する純粋な知性の顕現。それでいて尚、美しい音色。 その彼女の呪文が場に浸透するのと同時、僕とアルストを守るように光の壁が出現した。 儚げな壁が竜の炎、その無粋を丸ごと飲み込んでしまう。 「クレア、助かった!」 再び構えを取りながら、後ろにいる彼女へ向けて礼を言う。どういたしまして、という声がやや遅れて聞こえた。 「しかし……どうする、アルスト?やはり三人だけじゃ無理があるぞ」 「そうだな。奴の再生能力の方が上手だ……俺とお前の体力、そしてクレアの魔力とて無限ではない」 アルストが嘆息して、ちらりと後方のクレアに視線を投げかけた。 「素直に応援を待ってからダンジョンに入れば、結果はまた違ったんだろうが」 「な、なによぅ………私の所為にするの!?」 「数分の遅れを理由にダンジョンへの強行を主張したのは君だろう?」 「アルストだって反対しなかったじゃないの!?」 「…………」 ああ。アルスト。クレア。親愛なる友人たちよ。 竜が。恐るべき魔竜が目の前に居るんだよ、二人とも。 「とにかく、こちらを見逃してくれそうにもないんだ。やるしかないさ……!」 二人の喧嘩を聞いている余裕はない。僕は地面を蹴り、驚異的な加速で竜へと疾駆する。こちらの痴話喧嘩を好機と見たか、目前の人外は人語ではない内容の呪文を――――攻撃魔法か! 「Attacco di fucilazione del ghiaccio」 きぃぃんと、大気が凍った。 クレアのそれとは微妙に違う言語が竜の口から漏れた瞬間、数十の氷の槍が僕へ降りかかる! 竜がこちらを見て、嘲笑した気がした。 「……舐めるなっ!」 迫り来る一つの死の形。僕はそれを見て恐れず、むしろ昂ぶる。精神は集中し、あまつさえ高まって。練り上げられた己の気が、剣へ通うのが感じられた。 ―――僕にも戦士の矜持がある。 「紅蓮刃!」 叫びと共に、剣から豪快な炎の刃が現出する。竜へと進むそれは頼もしく。 目前の氷の矢を容易く消し去り、鎮座する竜を切り裂いた! 「グァァァァァァァァ!」 「………まだまだ!」 悲鳴を上げていても相手は最高クラスのモンスターだ。安心はできない。 僕の目の端に同じく竜へ攻撃しているアルストの姿が映る。だが彼の浮かべている表情は、おそらく僕のそれと同一だったに違いない。 すなわち。 (まだ、攻撃の絶対量が足りない!) そう。足りないのだ。最上級の剣士二人と魔術士一人、何するものか。 竜は、だから嗤うのだ。 その程度か人間。その程度なのか人間風情。滑稽なりと。哀れなりと。 彼の者はその強さ故に竜。人を凌駕するが故に竜である。 ああ、竜と出会ったならば逃げることは無い。ただ、己が不運を呪い祈るべし……それが、この世界の常識である。 (どうにもならないのか!?) 半ば焦燥を胸に、幾度と無く竜の脚へ刺突を放つ。そのどれもが傷口を作り、広げるけれども決して決定打には成り得ない。それに対し、竜は存外に俊敏な挙動でこちらを薙ぎ払わんと四肢を振り回す。 「ちぃ………」 危うくその初撃を回避し、次いで繰り出される攻撃をすんでの所で避けてゆく。 僕に注意が向けられた分、アルストが攻撃するが――――それは先刻までの僕との役割を交換したに過ぎない。クレアの攻撃魔法を含めてみても、状況は好転していなかった。 「フィアレ!まだ動けるか!?」 「ああ………だが、僕も君も天井知らずじゃないんだよな、残念ながら!」 手数が足りない。既に幾度と無く達した結論に歯噛みしながらも動き続ける僕達へ、声が掛けられたのはその時だった。 「………そこの二人。一度離れて下さい」 「!?」 一瞬面食らってアルストと視線を合わせるが、迷っている暇も無い。だん!と強烈に大地を蹴って後退した。 呪文と共に強大な魔力が膨れ上がるのを感じたのは、その数瞬後である。 「至上の白刃を。この場に慈悲を。或いは秩序を。我が望むは、苛烈の力。………来い、“Etincelle de ciel superieur”」 それは静謐な言霊。されど、込められた威力は凄まじい。 その呪文が発動したと同時、極太の白い光の槍が無数に虚空から生まれ―――その一本たりとも外れることなく、竜へと突き刺さり、爆発した! 「ガァァァァァァァァァァァ!?」 クレアの攻撃呪文も、僕やアルストの剣技も問題にはならないくらいの暴力。それをまともに浴びた竜は、目に見えて痛痒を感じさせる絶叫を上げる。 「なっ………」 「今が好機だ――仕掛けるぜ、御両人!」 唖然とする僕とアルストを、知らない誰かが駆けて行く。向いた先に見えたのは長髪の美貌。刺突用のレイピアを提げて疾走する、若い騎士だった。 「………応援か!?」 「ええ」 そしてまた、不審げに呟くアルストに返答する声がある。 後ろを振り向けば。髪を肩辺りで切り揃えた美麗の女性がクレアの傍に立っていた。 「君達は……加勢かね?」 「肯定致します、アルスト殿。今日皆様とご一緒させて頂く予定だった者です………私はリィン。あちらの馬鹿がロイスです。遅れて申し訳ございません」 ぺこりと、彼女は頭を下げた。状況を鑑みての行動ならば、大した度胸だ。 「私の相棒が、定時に待ち合わせ場所に来ませんで。結果、あなた方との待ち合わせにも遅れてしまった次第です………その分挽回はさせて頂きますので、どうか許して下さい」 「仕方無ぇだろ!?親戚の葬式が急に入ったんだよ!」 前方で既に竜と戦闘を始めている(僕とアルストも走り始めていたが)男―――ロイスとやらが、抗議の悲鳴を上げた。 「こちらが先約だったのですから、こちらを優先するべきでしょう?相棒の私にさえ知らせない貴方の対応は、杜撰としか言い様が無い」 「顔だけ見せてこっちに急げば、間に合うと思ったんだよ!」 ロイスが、思わずこちら側……リィンを見てしまう。 ああ、疑問を感じずにはいられないのだが。彼等はいつもこんな調子なのだろうか? …それは、致命的な隙であるのに。 「来るぞ、ロイスっての!」 「ち………!?」 僕の怒鳴り声を聞いて、自分を狙った尻尾の攻撃に気がつくが、遅い。 舌打ちして僕とアルストが両者の中間に割り込む。そして息を継ぐ間もなく剣を振り被り、同時に振り下ろした。 切断されてのた打ち回るのは、竜の尾だった物体。 「気をつけて欲しいな、前衛の君には」 「ああ……悪い悪い」 荒れ狂う攻撃の嵐をそれぞれかわしながら、嘆息する一人と謝る一人。 「遅刻の件も含めて、悪いと思ってるよ……汚名は返上させて貰うさ!」 言うが早いか、身軽な青年騎士が攻勢に出る。そのトップスピードは僕を超えるもので、その後に突き出された攻撃も的確に生物の急所を抉っている見事な代物だった。 「は………その程度じゃ俺を捕捉することは出来ないな、魔竜殿!」 どうやら相応の技量は持ち合わせているようだ。これほどの技量の味方が増えたのは、まあ、素直に喜ぼう。 「僕等も一気に仕掛けよう、アルスト」 「了解した!」 僕とアルストが竜に攻撃を始め、ロイスと合わせて総計三つの攻撃者が竜を襲う。 もう、妙な計算はいらない。全力で僕とアルストも竜の退治に専念を始める。 一撃の無駄も無く、僕とアルスト、そしてロイスの攻撃が容赦なく竜の身体を苛んで行く。 「やるじゃないか、フィアレ!それとアルストさん!」 「剣の道ってのはね、日々の研鑽がものを言うんだよ!」 口笛を吹きながら、ロイスが感嘆する。僕は威勢良くロイスに叫び返した。自分の実力を褒められて悪い気はしない。 「同胞を守る幾許かの盾を。“De barriere van de hulp”」 「同胞を鼓舞する火神の加護を!“De bevordering van de schok”」 後方から聞こえる援護の言葉も、この上なく頼もしい。比喩ではなく、身に力が満ちる。 良い兆候だ。新しく加わったロイスとリィンは勿論、僕とアルスト、そしてクレアもまだ戦う余力が残っている。 (好機は逃さない!) 胸中で一人ごちながら攻撃を回避して転がり、再び走り出す僕の前で。 竜がアルストの瀑布の如き一撃を右足に、ロイスの正確無比な一撃を左目に受けて身をぐらつかせた。再生もリィンの高位干渉術のお陰で全く行われていない(これには素直に脱帽する程の術だ) 「これが、好機か!」 叫び、両手でしかと握った剣を意識しながら、僕は竜の前へと全力で跳んだ。 ―――それは剣技と云うよりは、槍使いの豪快な杭打ちに近い。 僕は雄叫びと共に走り、跳んだ勢いをそのままに、竜の心臓部へ突進した。 ざぐ、ではなく、ずぶり、と言う音がする。僕は竜の身の内に進入させたバスターソードを何の遠慮も無く更に押し込み、ぐいと捻った。 「GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!?」 竜が、啼く。その激痛如何程のものか。想像するだに恐ろしい。 そして。 「………まだ、終わらん!」 「これで詰みだな、魔竜殿!!」 それだけでは終わらずに、アルストとロイスもまた己の獲物を胸の傷口に滑り込ませた。 竜の。耳を劈くような絶叫を聞く。 ず、と僕等が剣を引き抜くのとほぼ同時に、竜の巨体はついに崩れ落ちた。どぉん、と倒れ伏す音を耳にして、僕は安堵の溜息をついた。 「なんとか……なったか」 「そのようだ」 僕の呟きを聞いて、アルストが微笑みながら頷く。表情が半ば固定化している感のある彼が笑っているのを見るのは、本当に久し振りだった。 「………加勢が丁度良く来たのは、不幸中の幸いだったな」 「う……それについては、悪かったよ」 半眼でアルストに見詰められたロイスが苦笑する。 「その代わり、これからはバリバリ働くからさ!これを最後と見限らずに、また誘ってくれよぅ」 「………本当にそう思うのならば、遅刻癖を直すのですね。その様だから、二回目以降にパーティーを組んでくれる人たちが居ないのです」 いつのまにかこちらに歩いてきていたリィンが、付き合わされる私の身にもなって下さい、と恨めしそうにロイスを睨んだ。 「いつになったら私以外の仲間を作れるんですか、貴方は?」 「まあ良いじゃないの。結局竜は倒せたんだからさ。これで、かなり名声アップだよ、私たち!」 そう言ってはしゃいでいるのは、リィンの後ろを歩いてきたクレアだ。………どうやら、彼女にも人並みに名誉欲というモノがあったようだ。僕とアルストが人知れず肩を竦めた。………そりゃあ、気持ちは分からないでもないけれど。 「そうだね……とりあえず、成功を喜ぼうか。目的は無事達成されたんだ」 そう、締めの言葉を紡いで僕はこの場を納めようとする。 「やることはやったんだし、皆で外へ―――――」 その僕の瞳が、「それ」を見てしまった。ぎくりとして、その場に固まる。 「どうしたフィアレ?竜が、どうか…………」 次いでアルストが、僕の視線を辿ってしまう。無論。身を強張らせた。 他の面々も流石に不審を感じてそちらを見る。そして、全員が息を呑んだ。 「………許さん」 そこには、竜が。死体ではなく、まだ竜が「居た」のだ。 「許さん…………」 その目には紛れも無い知性と、底知れぬ憎悪の光。 ゼェゼェと聞こえる息は、何故だか―――――不可思議な言葉で綴られる呪文のように感じられた。 (こいつ………喋って!?) 「許さんぞ…………この」 ゼェゼェという喘ぎが、止まる。そのあと場にあったのは、今にも爆発しそうな魔力の塊だった。雀の涙ほどしか魔術の才能の無い自分にも、はっきりと分かるほどの。 竜が、怒気を孕んだ声で怒鳴り散らした。 「この、下等生物がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」 「皆、逃げ………」 逃げろ、と云うことすらままならない。 その竜の雄叫びと共に、大規模な魔術が形を成し、現界して。 「ひ………」 誰かが悲鳴を上げることすら許さず、爆発した。
……目の前が真っ暗になる。 僕の視界は漆黒の闇に包まれた。何の痛みを感じることも、ないままに。 ゲーム・オーバーというやつだ。きっと…………
「はぁ……終わっちまった、か」 僕は真っ暗になった画面を見ながら、そう呟いて嘆息した。 正確には真っ暗ではなく、中央に「GAME OVER」と赤文字が浮かんでいるのだが――――それはどうでも良い。 「おっかしいな……ドラゴン族のモンスターで自爆の魔法を使うやつなんて、居なかったはずだけど」 僕はそうこぼしながら、机の脇に寄せてあった本を開く。本の表紙には、「ドラゴンハンターオンライン・公式ガイドブック」という名前が躍っていた。 ボスの項目を探して、ぱらぱらと本をめくって行く。やがて、先ほど戦った魔竜の項目が見つかった。やはり自爆の術を使うとは書いていなかったが、次のページに「特記事項」なるものが載っているのを見つけてしまう。……う、完全に見逃していた。 「げ………戦闘開始より25分以上経ってから倒すと自爆するので、早めに倒すこと、だって?」 大仰な仕草で天を仰ぐ。僕を含め全員が知らなかったのは、素直に情報不足だろう。 「でも……あの二人が最初から戦列に居れば、もっと早く勝てたのにな」 諦めきれずにぽつりと呟く。 画面を見やるとダンジョンの外の風景と仲間達が移っていて、【Royce】と云う名のキャラクタが僕とその他二名に申し訳無さそうに謝っていた。 文面から「見捨てないでくれ」という感じがありありと見て取れる。本当に友人が少ないのだろうか、と小首を傾げた。 「まあ、今更言っても仕方ないよなぁ」 僕は苦笑しながらパソコンに向かって、「準備を整えて、後日改めて挑戦しましょう」という旨を打ち込んだ。ついでに、「もう遅刻しないで欲しいな、ロイス」とも。 人付き合いの大切なオンラインゲームだ。大人な対応は、してしかるべきだろう。 「それにしても………惜しかったな」 そう愚痴りながら、時計を見る。もう学校の部活動へいく時間だった。 もう一度だけ嘆息して部屋の片隅にある竹刀袋を手に取り、パソコンの電源を落として部屋を出る。 軽快に階段を下って、居間のドアを開けた。 そこでは中学生くらいの男子がゲームをしているところだった。見慣れた光景にやれやれと嘆息しながらも、僕はそいつに向かって声を掛ける。 「祐樹。俺、これから部活に行って来るよ。もしかしたら、遅くなるかもしれない」 「ああ、兄さん。居たの?」 くるりと少年――――弟の祐樹が振り向いて、半眼で答えてくる。 ……と云うか、酷い返事が返ってきた。 「まあ、了解したよ。なんなら、もうそのまま帰ってこなくても良いよ?」 「………そうかい。その台詞、お前にそのまま返してやりたいと思うよ」 はぁ、と嘆息する。ゲームで意気消沈している自分に、コイツとの会話は難しい。 それを見越したのか、悪戯めいた笑みで祐樹が僕を見てきた。 「あ。さてはオンラインゲームで失敗したんだね?兄さん、今日は朝から竜を狩るんだって意気込んでいたのに」 「………見当がついているなら、わざわざ言わないで欲しいな」 不貞腐れた口調で僕が答えると、祐樹は苦笑しながら肩を竦めた。 「はいはい、そうですか。それではフィアレさん、剣道の部活頑張ってね」 「ああ………」 「…そんなに疲れてるなら、今日くらい休めば良いのに?」 「そんなことは出来ない。剣の道ってのはな、日々の研鑽がものを言うんだぜ」 「へぇ。まあ、僕は剣士なんかやってないから分からないけどね……」 言うだけ言って、祐樹はさっさとゲームの画面に向き直ってしまう。何か小言を言ってやろうと思ったが、面倒なのでやめた。 それじゃいってきます、とだけ言って玄関を出る。 ……うだるような暑さが、一気に僕を襲った。 「さて……今日も頑張ろう」 そう自分を励まして、自転車に乗って学校へと向かう。慣れたけれども、本当に異常な熱さがこの世界には満ちている。 ああ、今日も汗だくになりそうだ――――――。
「ああ!しまった!?」 人気の無い部屋に、幼さを残した叫び声が響き渡ったのは彼が家を出てすぐのことだった。 家に残された彼――――祐樹と云う少年は、「GAME OVER」の文字が浮かぶテレビ画面をうらめしげに睨んでいる。 「ちぇ……これじゃ兄さんのこと、笑えないや」 そう漏らして、背中からソファに倒れこんだ。 もう何時間ゲームをプレイしているだろうか?いい加減、疲れてきた。そろそろこの辺りで休憩を取るべきだろう。 「うん…そうだな。そうしよう」 一人で頷いて、祐樹はゲームをやめる決心をした。兄には笑われそうだが、まあ、それは別段問題ではない。あちらだって、ゲームを半日もやれば休憩を入れるはずなのだ。 自分の健康を考えて、味気の無い―――本当に味気の無い現実世界で身を休めるのも無難な判断だろう。 (本当につまらない現実だけどさ……なにがコンピュータ技術の躍進だ。外で満足に遊ぶ場所すらない現実なんて、どれだけ価値のあることか) 子供ながらにそう考えて、祐樹は軽く鼻を鳴らした。世の中は何かが間違っている。 確かに。確かに技術の発展は素晴らしく、快適な日常を体験する場を作り出したのだが。 ああ、今考えると、異常な発熱を伴ったコンピュータが跋扈していた二十一世紀とやらが懐かしい。少なくとも。地球温暖化の影響下にあっても、外に出て自由に遊ぶことくらいは出来ただろうに。下手をすれば、現在は外で遊んだだけで熱中症だ。余りにも異常な夏、余りにも異常な気候が、自分の知る世界のデフォルトだった。 「まあ……昔だってあったんだろうけどさ。熱中症くらい」 そうこぼして、よっこらしょ、と掛け声をかけて立ち上がる。休憩の時間だ。 祐樹はふらついている自分の現実の身体を意識しながら、気だるげに告げた。
「プレイヤー名、室井・祐樹。ログアウトします」
そう言った瞬間――――――ひゅん、と言う音と共に彼の姿が虚空に消え失せる。 テレビゲームの電源を切り忘れたが、まあ、兄があとで自分を怒る程度だろう。何も問題は無い。 (……そうだろう?) 祐樹は皮肉交じりに思う。そうだ。 ………本当に。ヴァーチャル世界の中でやっているゲームの電源を切り忘れたからと云って、どうだと言うのだ。 ゲームの中でプレイしているゲームのことなど、知ったことではない。
誰も居なくなったその家の居間にはもう、祐樹の消えた場所に「プレイ終了。お疲れ様でした」という文が浮いているだけだった。
…………確かなものは。
最早、何一つ、無い。
<END>
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