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クリエイター名 |
羽鳥日陽子 |
サンプル
竜王国リュインの城下町──その中央広場に立つ時計塔には、二つの鐘がある。 一つは、時刻の移り変わりを告げる鐘――毎日決まった時刻に鳴っているので、リュイン国内で一日を過ごせば否が応でも聞かされる羽目になる、いわば人々にとっては馴染みの音だ。 そしてもう一つは、時刻を告げるそれよりも高く細く遠くまで響き渡る音色。 国中に知らせるべき祝い事の折に人々の耳に届けられる──祝福の鐘だ。
すっきりと晴れ渡った空を淡く染め上げたレーナ・ティーラの子ども達が、一足早く地上へ祝福を贈っているようだった。地上を廻る風もどこか心を躍らせているようで、人々の頬を擽りながら笑みを引き出している。 時の節目である一年の始まりの日は、世界と神々の誕生の日──他の国々にとってそうであるように、リュイン王国にとっても重要な意味がある。 この日のために住民は数週間前から祭りの準備に追われ、年の瀬は慌しく過ぎていく。各地から人々が訪れ、宿はどこも──裏通りの寂れた三流の宿までが閑古鳥の巣を払う。 国中が色とりどりの鮮やかな装飾を施され、一年で最も華やかな姿で年が移り変わるその瞬間を迎える。時計の針が真夜中の十二時を指すのと同時に二つの鐘が打ち鳴らされ、重なり合った音がどこまでも響き渡るのだ。明け方まで人々は眠ることを忘れ、これから始まる新たな年と最初の祭日を祝う。祭りの期間は一週間だ。 深夜であるにもかかわらず、広場や周囲の家々の屋根は大勢の人で埋め尽くされ、その鐘が鳴り響く瞬間を今か今かと待ち侘びていた。
「……だめ、やっぱりはぐれちゃったみたい」 辺りを見渡しても、見覚えのある金の髪は見えなかった。噎せ返るほどの熱気に酔いそうになりながら、傍らに立つ青年の袖を握り締める。そっと見上げると、そこには不思議そうにこちらを見下ろす眼差しがあった。すぐに困ったような笑みに変わり、握り締めた袖とは反対の手が、ミーナスのそれを掴んだ。 「この人込みだもんな……まあ、姉貴にはペミナーラさんがついてるだろうから、心配はいらないと思うけど」 その“人込み”に浚われてしまわないようにという意図があったのかもしれないけれど、容易く抱き込まれてしまえば身を強張らせるしかない。鼓動が高鳴るのを感じて恨めしそうに見やってもどこ吹く風──飄々としているクンラの姿に、ミーナスはそっと溜め息をついた。 「恥ずかしがることなんかないよ。どうせ誰も見てない」 確かにそれはある意味では正しい。周囲を覆う人々の目線は真っ直ぐに上空──過ぎ行く時を刻む塔の頂上に向けられていて、その群集に埋もれながら抱き合う恋人達の姿を目に留めている者はいないと言っても過言ではなかった。 そんな些細なことを気にしている場合でもないのだろうけれど、時と場合というものがある。抱きしめてくれる腕に力強さを感じながら、ミーナスは堂々巡りになりそうな思考の輪を解いて、大人しくクンラに身を委ねることにした。兄や両親達に冷やかされるよりはずっといいのかもしれないし、この祝うべき節目に憂いを抱えていては、楽しむべきことも楽しめない。
時計の針が、その瞬間まで後五分であることを告げた。普段ならばあっと言う間に過ぎていく時間だが、今日はとても長く感じられるだろう、今年最後の五分間。
「──新たな年を迎えるその前に、皆に伝えておきたいことがある──」 予定外の出来事に、ミーナスはまず自分の耳を疑った。遥か頭上の高みから響き渡ったのは、鐘の音ではなく人の──聞き覚えのある声だった。 ざわめきが一瞬声を潜め、広場に集った何千何万という人々が一斉に声の主を探し出した。 探すまでもなく、彼はそこにいた。ミーナスは自分の目をも疑った。おそらくクンラもまた──ミーナスと同じように自分の目と耳を疑ったに違いない。
あれは。 ──時計より下、展望室となっているバルコニーに見える人影は。
「……兄さん……?」 「……姉貴……?」
二人は同時に呟いた。だが、その声は再び溢れた喧騒の中に飲み込まれた。彼らの視線の先にいたのは、間違いなく彼らが呼んだ二人だった。 ミーナスの兄ペミナーラはリュイン王国の騎士団に籍を置く身であり、城下でもちょっとした変わり者として名を馳せている。 対するクンラの姉リスリィーアは、リュイン王国に二つある内の片割れの神殿、大地母神フィリア・ラーラを祀るフィスタルテ神殿の現祭司長として、こちらも──ペミナーラとは違った意味で有名だ。 リュインに住む者ならば誰もが一度は見たことのある二人の姿に、ただでさえ新年を間近に控え高揚していた人々の心は、さらに湧き上がったようだった。
見れば二人とも、はぐれる前と服装が変わっていた。着ていたのは普段着のはずなのに、ペミナーラは儀式の折にのみ特別に着用する騎士の正装に身を包んでいるし、リスリィーアも祭司長としての正装の上に、花の飾りのついた白いヴェールを被っている。ペミナーラはともかくリスリィーアのほうは──言うまでもなく、無理矢理着替えさせられたのだろう。 はぐれたとわかった瞬間に、こうなることを予想しておくべきだったのかもしれない。遠目に見ても戸惑っているとしか思えないリスリィーアの表情を見ずとも、彼らがあの場所にいることはペミナーラの独断によるものだろう。祭りの騒ぎに乗じてこれくらいのことをやってのけてしまうのが彼であるということを、早く思い出すべきだったのだ。 「……やるなあ、ペミナーラさん」 「感心している場合じゃないわよ、クンラ」
「──あー、あー……さて、間もなく新しい年を迎えるわけだが、この一年は皆にとってはどうだっただろう? ユーライア・レーアが踊るような喜びに満ち溢れていたかもしれない。エルの息吹が頬を撫でてゆくような悲しみに満たされていたかもしれない。だが、世界は大きな混乱もなく、静かに緩やかに新たな年へ歩み出そうとしている。これぞまさしくフェーラ・シースとフィリア・ラーラの加護に他ならないだろう!」 力強く張りのある、それでいて爽やかな声がリュインの空を彩った。それを追いかけるかのように、歓声が広場を満たしていく。 ペミナーラの手に握られている百合の花のような形をした白い宝石は、魔術士ギルドの秘蔵の品だ。音を増幅させる仕掛けが施されており、主に国王やギルドの上層部の者達が演説の際に用いる道具なのだが、ギルドから持ち出すことは決して容易ではない。ギルドに彼の幼馴染がいるということを加味しても、借りるにはそれ相応の理由と書類が必要になる。 つまりは、今日のこの日のこの瞬間のために、ペミナーラは事前の準備を怠っていなかったということだ。 「……さて、長いようで短い一年の中で、俺はリージャスにも負けない美貌を持つ女神と結ばれることが出来た。今日のよき日に同じ時間を共有することの出来た同胞達に、紹介する必要はないかも知れないが紹介しよう──フィリア・ラーラの祝福をその身に受けた金色の女神の使い、リスリィーア・セイクリッド!」 ペミナーラがリスリィーアの肩を抱き寄せ、リスリィーアが何事か呟いているのが見えた。おそらくは抗議の声だったのだろうが、すぐにペミナーラの唇が吸い込まれるように彼女のそれを塞いでしまう。さらに勢いを増す人々の声。囃し立てる指笛の音色までがそれに追随する。 「いつ見ても恥ずかしい人よね……」 「まあ、姉貴の心を射止めたってだけでも、俺は尊敬するけどね」 「射止めたと言うよりは……兄さんの粘り勝ちって感じもしないでもないけれどね」 「……同感」 いつもならば頭痛の種がそれはもうとても綺麗な花を咲かせるところだが、今回ばかりはそうでもなかった。これから彼が何をするのか、ミーナスには手に取るように理解できたからだ。おそらくは、クンラも同じだろう。声音から感じ取れる表情は──今のミーナスがそうであるように──喜びに溢れているに違いない。 「アイリス・ラーラの左手に、俺は──生涯リスリィーアを愛し、護ることを誓う──」 アイリス・ラーラの左手は──彼女が夫となる人の頭に左手で触れたという神話から、そのまま、夫婦としての誓いを意味している。フィルタリアではプロポーズの常套句だ。
辺りを埋め尽くすのは、盛大な拍手と、祝福の言葉。 ペミナーラの言葉と同時に二つの鐘が打ち鳴らされ、頂上の高みから幾筋もの光が飛び出した。ペミナーラやリスリィーアには、このような芸当は出来ない。彼らの後方、見えないところに、魔術士ギルドの精鋭達が控えていたのだろう。周囲を旋回したそれらは白く小さな花弁の群れへと姿を変え、さながら星のように地上へ降り注いだ。 花弁の間を縫うように、交わり合った鐘の音が通り抜けていく。遥かウィンディアの彼方までも届きそうな雄大な音色が、新たな夫婦の誕生と年の始まりを告げた。
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