|
クリエイター名 |
真知 |
前触れ
――尾行られている。
日頃そんなものに縁遠い生活を送っている自分が、遭遇するなど思っても見ないから、今まで気に留めていなかった。 しかも日曜の真っ昼間。 駅周辺の繁華街で。 春休みに入ったこの日、街は人で溢れ帰っている。 そこかしこで“フレッシュマンセール”やら“入学のお祝いセール”やら、親子連れとか若者のグループを引き込もうと、春らしいパステルカラーの看板が出迎えている。 穏やかになってきた気候と相まって、人々は街へ繰り出し賑やかな雰囲気に包まれながらショッピングと洒落込んでいた。 橙子もその中に紛れていた。 しかし彼女の場合、連れはなく独り気ままなウィンドウショッピングであった。 ここのところ季節柄祝い事が重なり、この先もまだまだ使い込む予定があるおかげで、気晴らしに外出したのはいいものの、ここで雰囲気に呑まれて出費するわけにはいかなかった。 周りを羨ましく思いながら、店頭に並ぶ商品を眺めつつぶらぶら歩いていた、そんな時だった。
いつからだかは全くわからない。 ふと気づいた時には視線を感じるというか、居心地の悪さというか、妙な気分が全身を苛んでいるかに思えたのだ。 そう感じてから三十分ほど経った今も、その気分が消えない。 後ろを振り返ってみようにも、もし眼が合ったらとか思うととても実行できなかった。
ちょうど横断歩道に差しかかった。 いつもなら後方でぼーっと立っているのだが、今回は同じように信号待ちをしている人たちの間をぬって先頭に立った。こうすれば自分の後ろにはすでに人がいることになる。まさか相手も人ごみをかき分けて自分の後ろにつくなんてわかりやすい行動はしないだろうと、単純にそう思った。 眼の前には、最近リニューアルオープンしたショッピングプラザのビルがそびえ建っている。渡った先はその入り口。 (とりあえず中に入ろう。人が多いと簡単に近づいて来れないだろうし、撒くこともできるかもしれない) 頭の中でビル内の見取り図を思い浮かべるが、リニューアルされてから一度も来ていないことに気づき、思わず舌打ちをした。 (あんまりお店の配置とか変わってないといいんだけど。出入り口は同じよね) とにかく人気のないところには出ないように、できれは状況を把握できるよう相手を窺えそうな店舗を探してみようと考えた。 本当はさっさと帰宅するべきかと思ったが、一直線に家に帰ろうとするのは、逆にまだ知られていない住所を知られることになるかもしれず、それは避けたかった。帰りたいのは山々だが、この場で撒くよりほかない。 (ああっと、そういえばここら辺に交番ってあったかしら?) 信号が変わるのを今か今かと見据えて考え込んでいたせいか、周囲の気配が動いたことに気づかなかった。 ここまで不信感を抱いていたというのに、橙子はまだ楽観していたのだ。 まさか自分が何かの事件に巻き込まれるはずがない。 今まで一度も痴漢や窃盗に遭ったこともないし、対象にされるほど容姿がいいとかつけ込まれる隙があるとか思ってもみない。 だからそんな連中に遭遇するわけないと頭から排除していたのだ。 相手の趣味、嗜好、目的などは千差万別なのだということを、橙子はこれから学習することになる。
トン、と右肩に何かがぶつかった。 橙子の右側に人が立ってきたのだ。 まさかと思いつつも、さりげなく左に寄ると、今度は左腕が当たった。 軽く当たっただけだが、敏感になっていた橙子は反射的に見上げてしまい「まずい!」と思ったが、相手は今気づいたかのようにこちらを見た。 若い男の子だった。橙子より少し背が高いくらいの、まだ十代に見える。おそらく学生だろう。 彼は笑みを浮かべてぺこりと頭を下げた。謝罪の意味だろうと、戸惑いながら橙子も軽く頭を下げる。 しかし不安は拭えなかった。 彼の笑みはあまりに自然だった。こんな愛想のいい学生がいるだろうか。いやいるかもしれない。でも見知らぬ人にちょっと腕が触れ合ったくらいでこんな態度をとるだろうか。さも当然な、知っている相手に対しての行動のような――。
「今日は人出が多いですね。お天気もええし。あのですね、お手間は取らせませんから、このまま前のプラザビルに入ってもらえます?」 (!!) 突然、のんびりした関西訛りの言葉が聞こえてきて、橙子は再度左隣を振り返った。 そこには先ほどと同じように笑顔のままの少年がいた。 思わず身体が引きそうになったところへ、今度は右側から背中に手を添える感触が伝わってきた。 瞬間、ぞわっと鳥肌が立った。 (まずい、まずいっ、まずい!! これマジでヤバイかも!!) 橙子の頭の中では『変質者』、『誘拐』、『人身売買』、『殺人事件』etc……、ニュースになりそうな単語ばかりが浮かび、身体はというと逃げ出したいのに硬直して動けないでいた。 なぜ自分がこんな目に遭うのか、理由などまるでわからない。 しかもどうして周囲の人々は自分を見て何らかの異変を感じないのか。自分は恐怖を感じ始めている。傍から見ても怯えているのがわかりそうなものなのに。 このときばかりは昨今の地域社会で問題視されている無関心さをつくづく思い知った。 (もういい。他人なんかあてにしない。自力で逃げてやるわ!) ここで自分を取り戻した橙子の精神力はたいしたものだった。 気の強さ、反骨精神は並より有している彼女だ。理不尽な行いに黙って屈するなど自分らしくない。かといって相手と正面切って戦うなど分が悪いことは考えない。今はとにかく逃げることが先決だ。 (駅に行こう。交番があったかどうかわからないけど、駅員さんに痴漢とか何とか言って少しの間保護してもらおう。うん、そうしよう) 信号がようやく青に変わった。人が流れ始める。 流れにそって、両側の男たちも、おぼつかながら橙子も歩き始めた。 ふっ、と背中に触れていた手が下がったかに思えた。 橙子は直感だけで行動した。 瞬発力が勝負だった。 横断歩道を様々な速度で歩く人波の中、橙子の五感すべてがひとつの行動に集中し、両隣とのリズムを狂わせた。 前に出かかった右足のつま先が着くや否や、すぐさま身体を反転させ下げていたバッグを振り回すようにUターンダッシュをかけたのだ。 半瞬の差で、右側にいた男が咄嗟に橙子のバッグをつかもうとしたが、勢いづいた彼女の行動について行けなかった。 (走れ!! どこでもいいから早く離れなきゃ!!) バクバク鳴る心音が頭に響いてくる。青信号が点滅する。いきなり逆流しだした橙子を周囲の人たちが奇異な眼で見ている。 そんなことはお構いなしに、橙子はプラザビルとは反対の、さっき通り過ぎた大手百貨店の入り口へと一目散に駆け込んだ。
その後ろ姿を見送りながら、少年のほうが感心した声を上げた。 「あらら、逃げられてもうた。けどすごいなあ。躊躇なしに振り切りよったで」 そう言って、隣に立つ男を見上げた。 彼らはまだ横断歩道の中間点に立ったままだ。 まだ人は流れている。信号は青のまま。あまりにも長い時間が過ぎているはずなのに、誰も慌てなければ不信に思う者もいない。横断者は平然と渡っているし、停車している車のドライバーは根気よく待っているわけでもない。 この状況を当然のように受け入れている感じだ。 人々は立ち止まっている彼らに気を払わず通り過ぎる。 少年より頭一つ背の高い男は(こちらは二十代くらいの青年に見える)、橙子が消えて行った方向を見つめていたが、無言で歩き始めた。 「追うんか? もうええんちゃうの? あんまり怖がらしてもかわいそうやん。俺ら仲良うせなあかん立場やろ?」 少年は引き止めようとしたものの、応じるわけないし、と心中で溜息を溢しつつ兄である青年の後をついて行った。 そうして彼らが橙子と同じ元いた方向へと、横断歩道を渡りきった後で。 人々の思考は正常に働き始めた。
その後、橙子の家にある一通の手紙が届く。 それは橙子たち家族を、“日比宇家”に迎えたい旨を記した《招待状》だった。
完。
|
|
|
|