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クリエイター名  真知
息もできない



“なあ、あんた。
俺がもし、明日の朝、死体となって道端に転がってたとしても、誰か悲しんでくれると思うかい?
親もいねえ、妻も子もいねえ、友人もいねえ。
他で慕ってくれる女もいねえ。
こんなちっぽけな俺でも、死ねば誰かが悲しんでくれるかなあ?
どう思う? あんた。
……あんたは、思い出してくれるかい?
あの時、飲んでいた男だと”


 やわらかく弾むような低音。
 吐息のように甘くかすれる高音。
 ゆるやかにスイングするベースとピアノの旋律がその声を取り巻いて、急かせるようなギターがからかいながらまとわりつく。
 楽しそうに、気持ち良さそうに、彼は歌う。

 時には落ちぶれた男の悲劇を。
 時には愛に裏切られた女の末路を。
 時には孤独に打ちひしがれる老人の嘆きを。

 そんな暗くて惨めな内容の歌を、彼は意味も知らず無邪気に笑う天使のように、幸せそうに歌う。
 表情はいつも薄く微笑んで、少しだけ上がった口角は見ている者を誘っている。
 時折流される視線は、長い睫に覆われて切なげに細められる。
 艶めいた声は、眩暈を起こしそうなほど翻弄される。
 堪らない。
 堪らなく惹き込まれて、いつも息すらできずに見つめてしまう。
 声に聴き入ってしまう。
 堪らない。
 あたしはひと目で彼の虜になった。

   *   *   *

 入り口は、繁華街から外れた灯りが乏しい通りの一角に、飴色に光る電灯ひとつ掲げられただけの、“BULE JAZZ”と書かれた扉だった。

「手が足りなくて困ってるそうなんだ」
 ある日、練習後にコーチに呼ばれて何の話かと思ったら、バイトをしないかということだった。
 すでにあたしで五人目らしくて、ことごとく振られたんだそうだ。
 そりゃそうだろう。
 スケジュールを聞くと、週に三回とはいえ、どれも練習日に当たる。時間的に言うと、通常練習は九時に終了することが原則となっているので、七時開店という店なら当然間に合わない。ところが、営業時間の後半に出てくれればいいという話で、問題はないらしい。
 しかし、練習で疲れきった身体を引きずってまでバイトしようなんて子は、そりゃいないだろう。
 いくらスポーツに身を投じている豪傑ぞろいでも、みんな二十代という女ざかりだ。昼間は仕事をして、夕方からクラブに精を出して、さらにバイトするなんて、女として生まれたことをムダにしているとしか思えない。せめて夜くらい遊んだり恋をしたり楽しみたいものだ。
 だからみんなが断ったのは当然。あたしだって、身体に鞭打つようなことはしたくない。そりゃあ、帰って何があるわけでもないけど。彼氏もいないし、夜な夜な飲み歩くわけでもないし。
 それでも一人で好きなことをする時間は多少の癒しになる。
 あたしにとって、夜はそんなものでいい。
 なのに……。
「一ヶ月、いや、二週間でいい! 次が見つかるまでの臨時でいいんだ。何そんな面倒な仕事じゃない。ちょっとだけの給仕と片づけ程度だ。マスターは俺の知り合いでな。温厚でいい奴だ。仮にも女の子に危ないことだの怪しいことだのさせるわけないから。なっ、頼むよ! その間、練習は早めに上がって構わないから。ちょうど今中休みだしな。次の大会まで間があるから。な?」
 懇願されて、結局押し切られるあたしって、どうよ?
 でも、運命ってあるんだね。
 あたしは初めて、苦しいくらい誰かに惹かれる、そんな強い想いに占められた恋に堕ちた。


 相手は、バイト先のジャズ・バーで歌っている青年。
 十時半から十一時半までの一時間だけ、ベテラン奏者のジャズメンたちを従えて、堂々と自由気ままに歌い流す、華奢な人。
 あの細い身体のどこに、あんな深い音色を紡ぎ出すのか。
 顔つきはまだ幼さを残しているから、客のオヤジたちには『坊主』呼ばわりされているけど、逆にそれを楽しむように薄く微笑んでいる。
 密かに根付いた評判は着実に常連客を増やし、こんな隅っこにある店なのに、彼が歌いに来る日は満席どころか、すし詰め状態になる。ただでさえ狭い店で身動きが取れなくなるから、この日はカウンターの外に出なくてもいいらしい。
 ラッキーなことに、あたしが当番に当たっている日のうち二日、彼が歌いに来る日だった。
 水曜と土曜の夜だ。

「あんた、新入り?」
「あ、はい」
「ふーん」
 びっくりした。初めて声をかけられた。
 バイト初日から彼が歌っている場に出くわし、早々に着替えて店長の説明を受けていても、完全に眼と耳はステージに釘付けだったあの日から、すでに二週間が経った頃だった。
 あたしはただ、見ているだけ聴いているだけで満足だったから、彼にお近づきになろうなんて全く考えていなかった。
 その彼が、閉店間際の閑散とし始めた店内で、ぼちぼち片づけを始めていたあたしに、帰り支度をした格好で話しかけてきたのだ。
 思わず店内を見渡してしまった。お客は誰もいなくなっていて、店長もついさっきコンビニに行って来ると出かけたばかりだ。そういえば、『Close』の札を出しておくとか言っていた。
 彼は手近のテーブルに腰掛けて、タバコに火をつけた。肩に下げていたギターケースがずり落ちたけど気にせず腕に絡ませたまま、灰皿を引き寄せるとタバコを軽く弾いた。洗ったばかりの灰皿にぽろぽろと灰が落ちる。あたしはモップを手にした格好で、ぼんやりとそれを見ていた。
「珍しいと思って。店長がホールスタッフに女雇うなんてさ」
 視線は、あたしを通り越したカウンターのほうへさまよわせて、彼が話す。
 何でいきなり声をかけてきたんだろう。
 未だに店長は人を雇う気配もなく、あたし一人でホールをウロウロしていたっていうのに。今日で四回は見かけているはず。少なくともあたしは四回、彼のステージを見ている。
「あの、店長さん、うちのコーチと知り合いだから。……頼まれて」
「コーチ?」
「あ、うちの会社、アマチュアのサッカークラブ持ってて……そこの」
「へえ。じゃ、あんた、もしかして選手?」
 あたしは小さく頷いた。
「どおりで。でかく見えると思った」
 鈍いオレンジ色のサングラスの向こうで、形のいい眼がくるっと見開かれた。長い睫が瞬かれる。
 思わず見惚れていると、彼はどう思ったのか、苦笑して視線を下げた。
「ああごめん」
 でかく見える、と言ったことを謝ったのだろうけど、あたしは全く気にしていなかった。そんなのは言われ慣れてるし、あたしは見た目、男の子っぽく見えるように意図してやっていることだから別に構わなかった。サッカーをやるにはそのほうが楽なのだ。
 あたしは、ふるふると首を振り、思わずぼそっと言ってしまった。
「あなた、が、細いから」
「ちっちぇからな、俺」
「あっ、いえ、そうじゃなくて、悪い意味じゃなくて、えっと」
「別に。慣れてるから気にしてねえよ」
 “慣れてる”。
 その言葉は何となく自分と共通しているみたいで、ちょっと嬉しくなった。
 彼と私は目線がちょうど同じ高さで合う。あたしは170センチ近くあるから、あたしが大きいのであって、彼は別に標準くらいだ。細いから小さく見えてしまうんだろうけど。
 ほんとに、あたしなんかより細くて色気がある。
 手だって、タバコを持つ指が細くて綺麗。爪はきちんと切られている。ギターはピックでしか弾かないのかな。ギタリストって、右手の爪は伸ばしてるって聞くけど。まあ彼はボーカリストだし。
 そんなことをつらつら考えていると、いつの間にか彼の視線が自分に注がれていることに気づいた。
「スポーツやってんじゃ、でかくもなるよな。面白いの?」
「え?」
「サッカー」
 見られている緊張から頭の中はぐちゃぐちゃだったけど、ぎこちなくもあたしはしっかりと頷いていた。
「へえ」
 すると彼は眼を細めて笑った。愉快そうに。
「んじゃあ、俺帰るわ」
 灰皿にタバコをギュッと押し付けて、ギターケースを抱えなおすと、彼は足を出口へと向けた。
 反射的に手を伸ばそうとしたあたしは、慌てて引き戻した。引き止めてどうするつもりなんだ、あたし。
 ふいに、彼がこちらを振り返った。
 踏み出していた一歩分戻って、あたしと向かい合うと、すっと手が伸びてきて……気がついたら彼の親指があたしの唇に触れていた。
「口紅つけねえの? スタッフでもそれくらい飾ったって怒られねえだろ?」
 硬直してしまったあたしは、それでも何とか頷いた。
「つけてみれば? 言われてつけたからって、からかったりしねえからさ。普段サッカーやってたらつけられねえんだろ?」
 彼はあたしの下唇をゆっくりと撫でて、視線を唇から眼へと移した。サングラス越しにあたしを見つめる瞳には、からかいと興味の色がちらついている。
 すべてを絡め取られそうなほど、甘美で息苦しい空気が流れる。眩暈がする。
 意識を保つのに必死で、固まっているあたしを気にするでなく視線を逸らせると、彼は踵を返した。
 唇に触れていた指はもう、彼のライダースジャケットのポケットに収まっている。
 そのまま何を言うでもするでもなく、扉の向こうに消えてしまった。
 あたしは、立ち尽くしたまま動けなかった。
 とっくに店を閉める時間を過ぎてしまったというのに、店長はまだ帰って来ない。


 翌日、急かされるようにデパートへ駆け込んだ。
 散々悩んで、流行の新色よりもベージュに近い、肌に近い色の口紅を選んだ。
 つけても目立たないように。周りにばれないように。
 ただ、彼だけが気づけばいいと願って。

Fin.
 
 
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