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クリエイター名  夙川
二番目の日々


 最期って、案外悪いものじゃない。そう思えたのは、それの足音が私の前で止まった直前までだった・・・・・・。

 白くて清潔なリネンに、四角い窓にかかるレースのカーテン。家具なんてほとんど無い生活感のない部屋のベッド、これが私の世界の全てだった。傍らのパイプ椅子では、看病に疲れたのか明俊が船を漕いでいた。
 ああ、本当――それなりに幸せなのかな。もうこれが最期だなんて、信じられない。でも足音はどんどん近づいてくる。カーテン越しにうっすらとわかる青空の下、今がその時だなんて、ロマンスの欠片も無い。
 できたら、そうだな。夕焼けの中最期を看取られるなんて良いかも知れない。
 感じるのはひどい疲労感だけ、痛みは無かった。アレだけ酷かった咳も――今は。腕をほんの少しだけ顔の上にかざした。節くれだった手、病的に衰えた体――。
 でももうそれで良いのかもしれない。明俊は私に尽くしてくれた。返す当てもないこんな女に、多分相当な馬鹿だ。姿は見えないけれど、ああ、足音は止まった。いよいよ、だった。
 酷い疲れが全身を覆っていた。まぶたを閉じてしまえば、もう二度と明俊の姿を見れない気がした。だから、必死にその姿をまぶたに焼き付けなおす。
 今更ながらに、恐怖が沸き起こる。だけどもう体は鉛を仕込んだかのように動かない、脱力感が先端から中心部に染み込んでいくようだった。まぶたが勝手に閉じていく、どんなに抗ってもそれは止まらない。死から私が逃れるすべが、私にはもう無いようにそれは不可逆に進行していく。
 嫌だって、叫びたい。死にたくなんて無いって、泣き叫びたい。けれども喉からはかすれたようにか細く空気が抜けていくだけだった。やがてまぶたが閉じてしまうと、もう外がどうなっているのか確認もできなかった。
 まるで疲れ果てて、眠るように全ての意識はすっと絶え、後には何も残らなかった。

 次に目を開いたとき。そこは見慣れた四角い窓に白いレースのカーテンが掛かった部屋じゃなかった。体も私のものじゃない事に気がつくのに、それからしばらく掛かった。
 輪廻転生なんて言葉を知らないほど私は無知でもなかったけど、信じるほどオカルト好きでもなかった。結局私はそれから数日をかけて、今私がどういう状況なのかをまず把握した。
 まず第一にこの体は私、久遠 和美のものではなく、藤沢 蛍のものだった。場所はやっぱりまだわからない。けれどもいわゆる一戸建てというよりは、アパートやマンションなんだと思う。時々壁向こうから、赤ちゃんの鳴き声や物音が聞こえる。
 それから第二に、私は藤沢 蛍の体に間借りをした居候状態だって事。実際、蛍が起きている間、私は何一つできやしない。蛍が寝ている間だけは私が自由にすることができたけど、そもそも新生児の体じゃ喋ることも動くこともままならない。
 ああ、それからもう一つ付け加えると。蛍の両親はどちらも本当に優しい。蛍は寂しかったりお腹が空いただけで泣き喚くけど、両親共にそれに良く応えていた。私だったら多分一週間もすれば、嫌になりそうな手間の掛かり具合だったけど、二人ともそれがどうやら嬉しいようだった。お互いに無関心だった、私の両親と比べると正直羨ましかった。
 お葬式ぐらいには来てくれたんだろうか。私は明俊のことを思い出してほんの少しだけ泣いた。勘違いした蛍の母親が深夜だっていうのにあやしてくれる。泣きたい時に泣けるって実は凄く恵まれているのかもしれない。私は、それから大泣きに泣いた。久遠 和美の哀しみを、蛍の体を使って。
 誰かの体に間借りしているなんて、酷く曖昧な状態だというのは自分でもわかっていた。だけど、この体から出るということは、私の死を意味していた。一度死んでしまった今だからわかる、死ぬのは怖い。だから生きている間誰もが体にしがみついて必死に生きているんだ。
 私は、多分そうじゃない。そんな風には生きれなかったと思う。だけど今は――かってな理屈だけど、私はまだ生きているつもりだった。蛍には悪いと思う、もし蛍がそう言うのならば、従っても良い。だから、蛍が成長して意識がはっきりと浮き上がるまでは――このままで。

 それから数ヵ月後、すっかり首も丈夫になって、蛍は無意識のうちにかなり寝転がれるようになっていた。全く、寝ている間は私の時間のつもりなんだけど、こうもごろごろされると困るよ実際、おおっと、またか。
 この頃になると私にも、今置かれている状況がなんとなく掴めてきた。ここは田舎の安アパートで、私が生前住んでいた町と同じだって事。それからアパート自体、明俊の住んでいるそれとどうやら同じだった。
 こうも近いのならば、明俊と会ってみたいという思いはどんどん強くなっていった。まだほんの数ヶ月だけど、毎夜ごとに練習してきた蛍の声帯は信じられないほどの速さで成長している。多分、数語を使った会話程度なら、もうできるんじゃないだろうか。
 是非はともかくとして、私はもう一度明俊と話してみたかった。そりゃもちろん、明俊がもう私を忘れているならそれはそれで良いんだけど。これまでありがとう、それから――私は何を言いたいんだろう。
 あの時明俊に言い残せなかったのは、もう私を忘れて、だった。だけど私はまだここに居る。まだ忘れてなんて欲しくない。考えれば考えるほどぐちゃぐちゃになる私の心は、何の結論も出せなかった。
 それから、チャンスは思いのほか早く回ってきた。蛍が昼寝をしている間、私は蛍の体を使っていつもの発音練習をこっそりとやっていた。不意に蛍の母親が現れ、あやしながら蛍を抱きかかえると散歩に連れ出した。どうやら発声練習はばれなかったようだ。
 ドアの外に出ると、そのおんぼろ外壁に私は見覚えがあった。まだ少しだけ元気だった頃、私を散歩に連れ出した明俊が見せてくれた彼の住むアパート。懐かしくて涙が出そうだった。例え、間借りしているだけだとしても私はまだ、生きている。
 階段を降りてエントランスから出たところで、私は明俊とすれ違った。あんまり懐かしくて、私はつい呼びかけてしまっていた。明俊、って――藤沢 蛍の体で久遠 和美が。
 それは多分生後数ヶ月の赤ちゃんが出せるような声じゃなかったと思う、蛍は未だに単語にもならないわめき声と鳴き声しか出せない。すれ違った明俊は立ち止まり、周囲を見てそして振り返った。
 私を見つめる蛍の母親の、戸惑った瞳を私は忘れないと思う。その視線は、蛍とは違う何かを明確に見抜いているようだった。私は改めて、今の状態の不自然さと――それから罪を自覚した。多分、自覚してしまうのが怖くて、気が付かない振りをしていたんだと思う。
 「あの、今――呼ばれた、気がしたんですが」
 明俊はそう言って、蛍の母親に話しかけた。改めて顔を見るとずいぶんとやつれた印象を受けた。
 蛍の母親は、それを否定せずに私のほうを見た。明俊も見つめる。私は、自分の軽率さを呪いながら次の句を口にした。もう、蛍の母親には隠し切れそうも無かった。
 「――久遠 和美です」
 少しだけ語尾が上手く発音できなかったけど、明俊も蛍の母親も――それでようやく蛍の中にいる私のことを、確信した。
 明俊と、蛍の母親を伴って公園のベンチで私は話をした。さすがに母は強いということだろうか、突拍子も無い私の話に二人は辛抱強く付き合ってくれた。幸いまだ蛍は眠ったままだ。ひとしきり私が説明し終わると、明俊はまずあえて嬉しいこと、それからあの時は悲しかったことを伝えた。私の死後の経緯については、主に明俊が蛍の母親に伝えてくれた。
 小さな田舎の町だったから、診療所の私のことは蛍の母親も知っていたようだった。やがて、蛍が目覚めて私は何もできなくなった。お腹が空いたと泣き喚く蛍を前に、その日はそこで話が終わった。明俊は、何かを言い淀んで――結局言えなくて。だから手だけ小さく振っていた。
 深夜、蛍が眠りについて私が今日のことを思い起こしていると、蛍の母親が私に語りかけてきた。
 蛍は、私が居るのを認めているのか。久遠 和美の経た人生には同情もするけど、これは蛍の人生なのだとも。私は最初、寝たふりをしていた。けれどもやがて泣き崩れた、蛍の母親に私はこう告げた。明日、もう一度だけ、明俊と会わせて、と。
 私が今こうして生きているのは、蛍と蛍の両親にとって不幸なことだ。だから、仕方のないことだと思う。でもまた死ぬのは、死ぬのだけは――怖い。

 その日の午後、蛍が寝静まるのを待って、私は蛍の母親に抱かれて公園に向かった。昨日と同じベンチに、明俊は座ってもう待っていた。
 「明俊」
 私はそれだけ彼に語りかけた。次の言葉は浮かんでこなかった。ただやつれた明俊が私を見るのがたまらなく哀しかった。
 「――和美」
 それからいくらかして、明俊は搾り出すようにしてそう返した。私はまるで蛍のように泣きじゃくりながら、色んな事を告げた。あの時死ぬのが怖かった事。次に目を開いたら、もうそうなっていた事。そして、今日までのこと。蛍の体から抜けるのは、もう一度死ぬことで、今はそれが怖くて仕方がないことも。
 いつの間にか、明俊も蛍の母親も一緒になって泣いていた。まるで馬鹿みたいだったけど、私は――どこかそれに充足感を感じていた。なんだか、泣くだけ泣いてしまえばそこで諦めもつけてしまえそうだった。
 それから――もう話すことも尽きてしまって、辺りはもうすっかり赤く染まっていた頃。私は、明俊にもう行くねって一言伝えた。それから蛍の母親にごめんなさい、と謝った。どうやって体から離れたら良いのかさっきまで見当も付かなかったけど、今はなんとなくわかっていた。
 目を閉じると、体が浮かんでいく感覚を自然とイメージできた。きっと私の無念や恐怖が、――私を蛍の体に沈めていた錘が氷解したんだろう。特に苦労もなく、私の命は蛍の体から剥離していく。痛みも、哀しみも――恐怖も無かった。
 しがみついたその手を離せば、苦しみは無い。だけど、それを知らないから誰もがその時が来ない事を信じてしがみつき続ける。私が死んだ時、あんなに苦しかったのは、怖かったのは――私も生きることに必死にしがみつこうとしていたからだった。
 今も、生きたい。だけど私は私の人生を生き抜いたんだから、これ以上蛍の人生でそれを汚したくは無かった。明俊もきっと、わかってくれてると思う。
 剥離する寸前、蛍がお姉ちゃんばいばいって、手を振ってくれた気がした。私はありがとう、ごめんねと振り返って、泣き顔のままほんの少しはにかんだ。
 蛍に間借りして以来、死ぬことを考えるのは、ただただ怖かった。だけど今、死ぬのはとても暖かだった。涙は止め処なく溢れてくる、でも哀しみからじゃない。
 明俊の声はもう聞こえない。だけど口の形から、また・・・・・・と言っているのはわかった。それがまた会おうなのか、それともまたねなのか、私には確認するすべも無かった。私は、涙でぐちゃぐちゃの顔を明俊の方を向けてまたね、と笑った。
 私の意識はそこで絶えた、だけど暖かさだけは何時までも何時までも残り香のように包んでいてくれるだろう。漠然とそれだけは――わかっていた。
 
 
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