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クリエイター名  柳 柚月
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「帰っていいかしら」
呟く声を風が掬い上げ流していった。遮るものの一つとてない、銀の砂原が延々と続くこの景色から、いっそ城まで届いてしまえと自棄気味に願う。
謹慎でも懲罰でも追放でもいい、何かしらの応答が返らないものか暫く待ってみたが、いつまで経っても鳥の囀りさえ聞こえてこない。
それも当然か。この最果ての地から愛すべき我が家の間は、いくつもの次元窓が隔てている。
銀砂は高い魔力適性を含むと習ったから音声を運ぶくらいのことはと思ったのだが、いくら高いといっても限度はあるということだろう。
「帰っていいかしら」
ぽつりと落としたのはまったく同じ言葉だが、今度は明確に対象がある。しかしまたも反応はない。
頬杖の姿勢を崩さずに視線だけ横へ滑らせると、隣の砂地に丸くなった相棒は、くうくうと小さな寝息を立てていた。
こいつ、人の気も知らないで。
いや違う、知っているはずだ。こちらの思考回路も行動原理もわかりつくして、その上でこの対応なのだ。つまり狸寝入り。
「ねえ、エリーってば」
横着をして足だけ伸ばし、柔らかい体をつま先で突付いてやった。しつこく小突き回すうち、しっかり閉じられていた瞼が煩そうに開く。
耳、頭、背腹、手足―――艶やかな体毛に覆われたすべてが墨色。邪魔そうに内へ畳まれた尾の先だけ、誤ってミルクを零したように白い。
碧玉の瞳を胡乱げに細めると、その猫はのそりと起き上がって背を伸ばした。
「あなたは修行の旅に出る。命を下されたのは偉大なるあなたの御父上だ。それを理解しての発言であるならば、お好きになさるがよろしい」
「……出来ないってわかっててそういうこと言うわけね、可愛いエリー」
「先に持ち出したのはあなたです、あまり可愛くない我が主」
いじけた嘆息を挟む間もなくぴしゃりと叩き返されて、唇を噛みながらも反論という名の屁理屈を喉の奥に押し戻した。
気遣いの欠片も持ち合わせないこの使い魔相手の口論は、重ねれば重ねるほど消化不良のストレスが溜まるのだ。
この程度の悔しさなら、いくらかの努力で堪えておけば後に残さなくて済む。それでも小さな愚痴は隙間から滑った。
「それにしたって、心の準備とか、覚悟とかさ。させてくれたって罰は当たらないじゃないの」
「……今更私が言うまでもなくご存知とは思いますが」
返答まで少し間があった。呆れて物も言えない、を体現した分らしい。
「正位魔女の実習は、7歳から18歳までの間で任意の6ヶ月間行われるのがしきたり。平均12歳、遅くとも15歳で修了するのが一般的です」
「…そうね」
「主、御年は」
「……じゅう…なな」
「大きくなられました。ではいつまでも幼子のように駄々を捏ねるのはお止めください」
優しさの片鱗も覗かせない声音で言い終わるなり、黒猫はまた身を丸め瞳を閉じてしまう。
愛らしい小動物の姿だけに、外見を裏切る言動が小憎らしいことこの上ない。
現実を再認識させられるだけの実り無い会話を諦めて、こちらも元の通り頬杖をつく形に戻った。


魔女になる。それ自体が嫌なわけではない、と思う。
例えば自分が花の精、或いはエルフ、人間の少女―――そういう風に生まれていたとしたら。
考えたところで結果の変わらない、不毛な想像が広がってしまうのを抑えられないだけ。
魔王の娘だから魔女になれなんて、生れ落ちた瞬間からスタートしていたレール人生に少々疑問を抱いてしまうというだけ。
けれど葛藤も煩悶も、強制的に今日でおしまいだ。
6ヶ月後の明日、18歳の誕生日。その日までに魔女として立てなければ、成人の意志なしとされて国外追放処分が下ることになっている。
次代の魔王候補といえど恩情はない。
認めてしまうのは業腹だが、結局はエリーの言うことが正しいのだ。17にもなって、今の自分はただの我侭駄々っ子。
最終的には逆らえないことがわかっていて、それでもささやかな抵抗とばかり、未来が決まる時を先延ばしにしている。


視点の高さは動かさないまま、瞳だけをちろりと上げてみた。
今まで敢えて目を逸らしていたものが、丁度沈みかけの西日を遮る位置に変わらずどんと立っている。
四隅に施された金の細工が辛うじて特殊性を覗かせる他は、何の変哲も無いただの木戸。空間を捻って繋ぐ、各地に点在する次元窓とは違う。
異なる世界同士を結ぶ役割を持つ『界の狭間』は、ここにある一つきり。
開く者の運命を知り、正しくさだめられた場所へ導くと―――言われている。
「アイリ」
寝かせた耳を微かに動かして、幼馴染としての声でエリーが呼んだ。
待ってみても後に台詞は続かないけれど、言葉には表し難いものがあるのは不思議とわかる。
叱るのではない、急くのでもない。何ら強制力はないのだけれど、決断の淵に立つ背中を押す響き。
長く息を吸って、ゆっくり時間をかけて吐いて。天を仰ぎ背を伸ばしてから、勢いをつけて立ち上がった。
毛に絡む砂を身震いで払い、相棒も黙って隣へ並ぶ。
「…行こうか、エリー」
「はい」
頷いた猫の尾が一振りされるのを合図にして、粗末な姿の扉へ一歩を踏み出した。
ノブを掴もうと手を伸ばすが、それがあると思われた位置には代わりに申し訳程度の窪みが見られるだけ―――意外にも引き戸だ。
浅い穴に指をかけると、向こう側から微かな圧力。
実に10年もの間、逃げ続けていた理由はこれなのかもしれない。
己が手で未来を開き、己が足で歩み出すということ。
責任の重さに怯え温かな庇護に甘える、本当にただのこどもだったのかもしれない。
けれど続けるも止めるも、始めてみないことには始まらないのだったら。
きつく息を詰め瞳を閉じて、運命の扉を、一息に開いた。

その一瞬に何が起こったのかは、わからない。

圧倒的な質量が襲ってきた、と認識した時には、既に凄まじい勢いによって地面に転がされていた。
呼吸しようとすると空気の代わりに別のものが気管を塞ぐ。喉と鼻と目と頭が痛い。
全身の自由を半ば奪われながら、まだ辛うじて働いている意識で腕を伸ばした。
狙いは、簡素な作りの木扉。眼前にあったはずだが、視界が利かないので距離感も掴めない。
必死で泳がせる指が固い何かに触れた瞬間、人生始まって以来の力でそれを引いた。
軋む感触を伝えつつも、根負けしたようにがたんと扉が閉まる。体を地面に押し込まんばかりの圧力が、嘘のようになくなった。
立ち上がろうと両腕を突っ張ったが、そのままうつ伏せにへたり込んでしまう。肺を荒らす痛みが喉まで駆け上がってひどくむせた。
「なっ…に、いまの…っ!?」
肘を使って何とか顔だけ上向け、痛みを堪えて瞳を瞬かせる。
妙な重さを感じて引っ張った前髪から、ぽたぽたと水滴が落ちた。それに触れるまでもなく、指先は濡れ切っている。
いや指先どころか手の平、手の甲、手首も腕も。
「……え」
半身を起こして自分の姿を見直した。
時代遅れで大嫌いな黒マント、密かに一部改造を施した尖り靴、おろしたてのニットとスカート。すべて隙間無く濡れ鼠。
父親譲りのくすんだ金髪も、苦労して巻いてきたのがさっぱり取れて沈んでしまっている。
しかも先ほどから強烈に鼻をつくこの臭気、どこから来るのだろうと腕を上げてみたら、どうやら己こそが発生源であったらしい。
「……え、っと…?」
「…主、非常に申し上げ難い事実なのですが」
回らない頭を無理やり働かせながら、のろのろと視線を動かす。砂地を歩いて近づいてきた使い魔が、言葉を裏切る明瞭な発声で後を続けた。
「どうやらこの扉、人間世界の下水道に繋がっていたようです」
「………は?」
「どうやらこの扉、人間世界の」
「いや、ちゃんと聞こえたけどね」
律儀に繰り返そうとするのを制し、改めて扉を見上げる。開く者のさだめへ通じるという、扉。
「…エリー」
「何です、主」
「つまり私の運命って」
「始まりの地は下水道ということです、主」
躊躇なくあっさり答える黒猫を、思わず横目で睨みつけた。隣に立っていたにも関わらず、そのしなやかな全身のどこにも水分の痕跡はない。
理由はひとつ、逃げたからだ。主に仕え尽くし従う、そう誓った使い魔のくせに、こともあろうに主を見捨てて自分だけちゃっかり逃れたのだ。
こちらの刺す視線の意味に気づかない振りをしているのか、凄まじい臭いに顔を顰めてさりげなく距離を空けたりなどする。
「エリー、あんたねぇ…っ」
急速に膨らんだ怒りの風船は、しかし同じくらいの速度で萎んでしまった。
鼻腔を苛める腐臭、全身に重く吸った水。感情を動かすことさえ、何だかとても疲れる。
立ち上がり、自分の姿を見直してみた。
頭からつま先まで面白いくらい濡れそぼっている上に銀砂が所々付着した所為で、安っぽいステージ衣装のようになってしまっている、自分の姿を。

「…エリー」
「何です、主」
「帰って、いいかしら」
「………」
小さく息をついて、黒猫も今度ばかりは、よろしいでしょうと頷いた。
 
 
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