|
クリエイター名 |
ロコ |
沈黙の白、悖徳の黒
冷え切った褥に、体を横たえて。 音を失った深い闇から、その身を逃れるように。 柔らかな白の夜具を、頭からバサリと被る。
ふるり。
全身を包む、痛みにも似た冷たさに小さく身震いをして。
奪われる体温。 冷気に侵蝕される体。 暗闇の中で唯一感じる「リアル」。 それを感じる度に、自分が今ここにいるのだという客観的事実を知る。
嗚呼。 何故、私は生きているのだろう。
《沈黙の白、悖徳の黒》
ふわり、ふわり。
赤と黒で構成された窓格子の外。 昼過ぎから降り出した牡丹雪は、飽きもせず降り続く。
褥に身を隠してから、どれくらいの時間が経ったのか。 半刻…いや、もしかしたら四半刻くらいかもしれない。 夜の闇の中では、たった一間ほどの時間さえ、気の遠くなるようなものに感じられる。
ぐっと固く閉じたままだった瞼を、そっと開けてみた。 剥ぎ取った白の夜具。 昼間の戦で疲れきった体をゆっくりと上半身だけ起こし、褥のすぐ傍にある窓を見遣る。 格子の隙間にそっと指を伸ばし、うっすら結露を纏った硝子を、指先で軽く拭うと。 キュ、キュッ。 一筋の水滴を零した硝子の外に、一面の白雪が見えた。
「…雪」
微かに呟いたその声は、自分でも信じられないほど弱々しく。 一国の武将ともあろう者がこんなか弱い声を発するなど、余りにも情けなく滑稽で、思わず苦笑した。
ふわり、ふわり。 白く淡い色が、次から次へと舞い降りる。
ふと視線を落とせば、白の夜具が視界に飛び込んだ。 戦に身を投じる自分のために、少しでも休息をと慮ってくれたのか。 城の使用人によって手入れを施されたであろうその夜具は、どこまでも白く、柔らかい。 「…」 その優しさを払い除けるかのように、夜具をバサリと捲ると。 無造作に現れた、白の長襦袢と青白い足。 もう24にもなる戦人にしてはあまりにも貧相な体つきに、自分でも嫌気がする。 昔はこの体格で苛められたりもしたが、それなりの戦績を上げている今、誰もこの体を責める者はいない。 男所帯のこの城で、時折、邪な目で見られる以外は。 「…白、ね」 思わず口にした嫌悪さえ感じるその色の名に、眉を顰めてしまう。
この、足。 この、腕。 自分なりに懸命に鍛錬し、こうして武将としてそれなりに名誉や地位を与えられた今、何が不満なのかと咎められれば返答に窮してしまうが。 それでも、やはり。 男、ましてや一軍を率いる将としてはあまりにも中性的なこの容姿が、嫌いだった。
白。 白。 白。
体も、襦袢も、夜具も、雪も。 あまりにも神聖なその色合いに、嫌悪を通り越して虫唾が走りそうになる。
死人にでも、なったつもりか。 多くの命を危めたこの手は、赤と黒で彩られた、汚れたもの以外の何者でもないと言うのに。 それでも私は、救われたいというのか。 死して尚、自分が善であったと。 この手は「正義」のための「代償」であったと。 そう、信じていたいのか。
「…1…3、7」 口にしたその数を、そっと硝子に指でなぞる。 キュ、キュッ…数字を描く指が、微かに震えているのが分かった。 曇り硝子に刻まれたその『137』という数字を見て、思わず自嘲の笑みを浮かべてしまう。
数字にすれば、たった3つ。 その数自体には、何の意味もないというのに。
刹那。
「零芳」
部屋の入り口から聞こえた、自分の名。 弾かれたように顔を上げると。 視線の先に、黒の襦袢を身に纏った男が、「よぉ」と愛想良く手を上げて立っていた。
「…何ですか、こんな時間に」 「そんなあからさまに嫌そうな顔しなくてもいいだろーが。仲間だろ、な・か・ま」 自分の褥にどっかと腰を下ろし。 いつもと同じ(憎たらしいほどの)笑顔でそう強調されて。 渋々ながら茶を注いでいた来客用の湯呑を、正面から投げ付けてやろうかと、一瞬本気で思った。
「…どうぞ」 刺々しい物言いのまま、熱い茶の入った湯呑を手渡す。 「お、悪いなー、気ぃ使わせちゃってよ」 さほど悪びれもない口調で湯飲みを受け取った男は、ヘラヘラと笑ったまま、淹れたての茶を一口、口に含む。 「…っわ、にっがー!何お前、こんな苦いモン飲んでるわけ?」 あからさまに苦そうな表情を浮かべて、ペッペッと舌を出される。 「苦いお茶は体に良いのです。『良薬口に苦し』…故人の格言くらいご存知でしょう、閑洪殿」 サラリと言ってのけて、男の隣に腰を下ろした零芳は。 ズズズ、と何の苦もなく美味しそうに茶を啜る。 その姿を見て、男−閑洪−は再度湯呑に口を寄せ、少々苦そうな表情のまま、ゴクリと二口目の茶を喉に流し込んだ。 「武技のみならず、こういった日々の生活も私の鍛錬の一環なのです」 まるで師が弟子に諭すかのような物言いでそう言われ。 「…お前、24のくせに、結構ジジ臭いのな」 思わず口に出た閑洪の素直な感情は。 「27にもなって子供じみている貴方に言われたくありません」 零芳の遠慮のない発言によって、苦笑を迎えるに至った。
ふわり、ふわり。 雪はまだ、降り止まない。
「それで、閑洪殿。今晩は何の用でこちらへ?」 茶を何口か口に含み、一息ついた所で、零芳は左に居る男を見遣った。
自分より頭一つ半ほど大柄な閑洪は、見るからに貧弱そうな自分とは対照的な男で。 程よく焼けた肌の色も、屈強そうな腕っ節も、相手を射抜くような鋭い目付きも。 誰もが一目で「将」と認めざるを得ない容姿、そのもので。 その外見とは裏腹な、誰にでも屈託なく接する子供らしさに、毎度の事ながら多少の暑苦しさを感じてはいるものの。 それでもやはり、こうして隣に体を並べると。 貧相な自分の体を改めて感じてしまい、思わず視線を落としそうになってしまう。
「いんや、特に用があった訳じゃないんだけどさー」 「…でしょうね」 「寝ようと思って窓の外見たら、すっげー雪積もってたからさ。だから何となく、お前んとこ来てみただけ」 ニシシ、と悪戯っこのような笑みを浮かべて、この人は言う。 「…は?」 訳が、分からない。 雪と私と、何の関係もないというのに。 「閑洪殿、もう少し普通の人に分かる言葉で話して下さい」 思わず真顔で答えると。 「だーかーらー」 当の閑洪は、そのダークブラウンの瞳をこちらに向けて。 「その、まぁ、んー、何つーの…つまりだなー」 グシャグシャッ。 困ったような考えるような表情のまま、黒髪を手で掻いて。 「…まぁいいや、お前に言ってもきっと分かんねーだろうし」 ハァ、とまるで呆れたかのような溜息をつかれたから。 「何ですかそれ。納得いきません」 未だ真顔のまま、ズズイと体半個分、閑洪の方に詰め寄ると。 「いーのいーの!気にすんな、忘れろ忘れろ」 いつもの笑顔で、ごつい指先で薄茶の髪をワシャワシャと掻かれ。 「ちょっ、痛いですってば!」 何だか腑に落ちないままだったが、このまま追求しても素直に言ってくれそうな気はしなかったので(何となく、だけども)。 とりあえずこの話は保留にしておこうと、勝手に決め込んだ。
ふわり、ふわり。 窓の外は、白で埋め尽くされる。
「それにしても、いつ来てもお前の部屋、真っ白だよなー」
唐突、に。 何の前触れもなく発せられた、その言葉に。
まるで自分の考えていることを見透かされているかのような、何とも言えぬ不快感と。 禁忌とされている領域に足を踏み込んだ幼子のような、背徳感にも似た感情を覚え。
ドクン…と。 一瞬、全身を大量の血液が駆け巡った。
「…それは、どういう意味で、しょうか」 努めて平静を装った自分の声が、微かに震えているような気がした。 「いや、別に…意味なんてないけど、さ」 閑洪はそう呟くと、俯いたまま動く素振りをみせない零芳をチラリと横目で見て。 一瞬だけ、眉を顰めた後。 その気配を気取られぬよう、何食わぬ顔で残りの茶をゴクリと一気に流し込んだ。 「白は…お嫌い、ですか」 将にしてはあまりにも小さく細い肩が、閑洪の右隣20cmで震えているような、そんな気がした。 「いや、別に嫌いじゃないさ」 「…じゃあ、何故」 「俺の部屋はさ、お前んとこと違って、真っ黒なもんばーっか置いてあるからさ。だからその、何つーか…うん、不思議な気分になる」 そう言って閑洪は、自分の右頬をポリポリと指先で掻いた。 言葉通り、確かに閑洪に与えられている部屋には白いものなど何一つなく。 褥も、夜具も、窓格子も、箪笥も、身に着けている襦袢でさえも。 どこを見渡しても黒以外の何色も置いていないことを、零芳は思い出した。 「1回お前、俺の部屋来たとき、『死神色ですね』ってズバッと言い切っただろ」 「そうでしたか?」 随分前に一度訪れたことがある彼の部屋での会話を、記憶の片隅から引っ張り出してこようとするが。 果たして自分がそんな発言をしたかどうかまでは、全く覚えていなかった。 「言った!確かに言ったぞ!しかも無表情で、だ!」 耳を劈くような図太い大声でそう断言され。 そうだっけ…などと、目をしばしばさせながらもう一度考えてみたが、無駄な行動に終わった。 「…ったくお前、自分の都合の悪いことだけはすぐ忘れるかんなー」 ポリポリ、と。 再び頬を指先で掻きながら、閑洪はどこか遠い目をしたまま、視線を宙に泳がせた。 「…ま、あながち間違っちゃいねーけど、な」 「?」 今日二回目の、訳の分からない発言。 もしかしてこの人は、一人会話でもしているんじゃないだろうか。 「死神。さっきそう言っただろ」 全く理解できていない自分の気持ちを汲み取ったのか、閑洪は零芳の頭をペチンと叩いた。 「はぁ…それが、何か」 普段なら怒鳴って倍返しにしているところだが、今日はそれよりも、彼の不可解な言動の方が気になった。
「零芳」
改めて、自分の名を呼ばれ。 その射竦めるような眼差しに、体が瞬時に硬直する。 ライオンと目が合ったシマウマはきっとこんな感じなのだと、意味も無い考えが頭をよぎった。
「俺はさ、死神になりたいんだよ。…多分」
閑洪の発したその言葉に。 零芳は、一瞬、息を呑んだ。
「毎日毎日、戦って剣ふるって、そればっかの生活」 「何百、何千って人間を斬り殺して、それが当たり前の生活」 「初めて人を殺した時の恐怖とか嫌悪とか…戦場に赴くたびに、それさえも忘れてく」
「俺は今まで、国のためだけに戦ってきたし、そうすることが当たり前だと思っていた」 「向かってくる者は全て敵だと教わってきたし、その考えを疑ったことさえなかった」 「どれだけ多くの人間を斬り殺せるか、それだけが自分を他人に認めさせる唯一の方法だと、知っていたからだ」
ゴクリ。 零芳の喉が、僅かに音を立てた。
まるで本当に自分とだけ対話しているかのような閑洪の話し方は、常に自己完結で。 普段バカばかりやっている彼が、こんなにも真摯な表情をするのかと。 その事実に、声さえも出なかった。
「でも…最近、毎晩床につく時に、考えるんだ」 「俺が斬っているのは、俺と同じ『人』で」 「何故戦わなければいけないのか」 「何故殺しあわなければいけないのか」 「正義とは、何なのか」 「今まで信じて疑わなかったことを、そうして時折ふと、疑問に思うことがある」
「…」 キュッ、と白の長襦袢の袖元を握り締めて。 零芳は閑洪と目線を逸らすことなく、小さく頷いた。
肯定や、否定じゃなく。 ただ今は、彼の話を、体の全ての感覚器官で受け取りたかった。
「…それでもこの腕は、戦いを求め続ける」 「戦うことで、命を奪うことで、自己の存在を証明する俺の生き方は、そう易々と変わってくれない」
「俺と同じ『人』を殺すために、俺は生きている」
「もし…この腕が、体が、『人』の命を奪うために存在しているというのなら」 「俺は喜んでその運命を受け入れる」 「生きて死神となった『人』のように、漆黒の闇み身を落とす」 「そうして、身も心も『黒』になれたなら」
「俺はその時、初めて」 「自分の存在を、自分で認められる」
「生きていることを、肯定できる」
「なぁ…零芳、そうだろ?」 酷く優しく、それでいて痛々しい表情で、そう問われ。 そっと伸ばされた男らしい腕に、白の襦袢の上から、か細い左腕を掴まれた。
ドクン、ドクン…。 心音が、恐怖と期待に打ち震えていた。
きっと。 きっとこの男は、私と同じなのだ。
正義なんて薄っぺらい言葉ではなく、自分が人を殺すことの意味を、どこかに見出したいだけなのだ。 鮮血の赤にまみれ、酷く汚れたこの白い掌の存在意義を、何かに縋りたいだけなのだ。
ある者は、黒の死神になりきることで。 ある者は、白の死人になりきることで。 そうして、自分が『生』であることを、認めたいだけなのだ。
「…137」 「!」 今日一番聞きたくない数字を口にされ。 零芳はビクッと体を大きく震わせた。 「これ、今日殺した人数…だろ?」 窓硝子に描いたその数字を指され。 俯いたまま、零芳は小さく二度目の頷きを返した。 「そっか…じゃあ、俺も」 そう言うと、閑洪は『137』の数字の上に、自分の指先で新たに三桁の数を書き加えた。 「今日は、俺の勝ち、な」 今にも泣き出しそうなその表情の、すぐ横。
『179』と書かれた、その数。 指先で描いたその筆跡は、零芳の『137』と同じく、微かに震えていた。
「…閑洪、殿」 掠れる声で、名を呼んだ。 グッ。 掴まれた左腕に、一瞬だけ力が込められた。
「私も…きっと、貴方と同じです」
ようやく搾り出した『肯定』の言葉は。 先程の掠れた声よりは、随分と芯がある気がした。
ふわり、ふわり。 真っ暗な夜の闇に、白の涙が降り注ぐ。
脳裏をよぎる、鮮血の赤。 何度も襲う、明日への恐怖。
けれど、今だけは。 辺りを包む黒と、降りしきる白に。 全てが溶けていくような、そんな気がした。
|
|
|
|