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クリエイター名 |
八雲 志信 |
サンプル
<それはまるで嵐のように>
たとえば運命というものは、いつも僕らの傍にいるのだ。 無い訳ではないのに、必要なときだけ不幸な役回りを命ぜられる哀れなものなのかもしれない。 だがたまに、幸せな巡り合いを人は運命と呼ぶ。 僕の場合もそうなのだろう。 たとえば、子供の頃に生涯の友と呼べる奴に出会えたのも運命だ。今生きている道を選択したのも必然という名の運命なのかもしれない。 そして彼女−マレーネに出会ったのもまた、運命だったのだろう。
僕はその日いつもの帰り道とは違う道を歩いていた。何のことはない、寄り道をするだけだった。この辺りは時間帯によって通行人の数が違う。たとえば朝や夕方から夜にかけての時間帯などは人ごみでごった返していて自分の意思では中々前にも進めないのだが、この午後の中途半端な時間は人通りが本当に少ない。今も僕だけだ。周りは植樹された木々が茂っている。少しずつ紅くなり始めたそれは実に見栄えがいい。 そんな木を眺めながら、帰り道に買ってきた大学の参考書を片手に僕は歩いていた。僕はたまにこの静かな道を択んで帰る時がある。大抵変わらない雰囲気と人通りだ。変わるものといえば、通行人の人数くらいで、それも極端に多くなったりということがない。どちらかというと静けさを好む僕にはありがたい道なのだ。 しかし、この日だけはあからさまに違った。 同世代の女性が、橋から川を見下ろしている。肩ほどまでのクリーム色の髪が顔を覆ってしまっているから、どんな表情なのかは判らない。 −身投げ? 咄嗟に思ったのはそれだった。 引き止めればいいものなのだろうか。 だけど身投げであるという確証はない。もしかしたら、途方にくれてただ川面を見つめているだけなのかもしれないし、何も考えなどなく川を見ているのかもしれない。そんな所に「身投げは止めた方がいい」と声をかけるのはいささかー不恰好じゃないだろうか。 しかし、いやだけど、と逡巡していた所−
「ねえ、そこの貴方」 当の本人からお声がかかってしまった。勿論無視するわけにはいかないだろう。 「な、何か......」 「何か、じゃなくて、貴方、こーんなに若くてきれいな女が身投げしようかもしれないのよ?世の損失だとは思わないの?」 「はぁ?!」 「嫌ぁね、一番初めに通りかがった人にしようかと思ったんだけど、こんな鈍そうなので大丈夫かしら」 やっぱり身投げじゃなかったとか、そんな常識的な言葉が出てくるまでにはしばらくの時間がかかった。いったい彼女は何を言っているんだろう?自分で自分のことをきれいなんていう厚顔なところがあるのは確かだ。いや、僕の観点から照らし合わせれば、彼女は間違いなく若くてきれいなのはあっていると思うが、というかそれでは論点がずれるような気がする。 「飲み込みは悪いけど、見た目はまあ悪くないわね。そこそこ整っているし、何より背が高いのが魅力的だわ」 クリーム色の髪をしたの彼女はにっこりと悪気のない晴れ晴れとした笑顔で満足げに頷いている。 僕はといえば、彼女の存在差のものに圧倒されてしまって、言葉が中々出てこない。というよりも、何を言えばよいのかがいまいち判らないのが現実だ。 「わたしはマレーネ.グレーチェン・フォン・キッペンベルク。長いからマレーネでいいわよ。貴方は?」 「バ、バールゼフォン・コーゼル......」 「コーゼル?もしかして、コーゼル財団の?」 「あんたこそ、キッペンベルクって、四大公爵家のひとつじゃあ......」 お互い、親がずいぶんと立派なものらしい。 ただし僕は親父の家業を継ぐつもりはさらさらない。今も大学進学を控えているとはいえ、それは仕官大学だ。親父に決め付けられた道よりも、この国で一番出世しやすく安定している職業−軍人になるつもりだ。僕の成績ならば十二分に受かるレベルだ。 「そう。そのキッペンベルクよ。だから問題があるの。当家はね、幸い跡目には恵まれているの。ご存知?」 「聞いた話じゃ、6人兄弟に一番下に妹......」 「うん、判っているわね。つまり一番下ってわたしなの。父や兄に可愛がられているのは嬉しいんだけど、結婚相手まで面倒見てもらわなくちゃいけないって言うのは、ちょっと違うと思わない?」 「......はぁ......」 「第一わたしには看護師になるっていう夢があるの。どこぞの腐れた貴族なんて押し当てられたら家庭に入れだの社交界に随行しなくちゃだの鬱陶しいったらないわ」 は、早口だ......。 一息で話されてはこちらの認識も追いつかない。 「だからね、この橋で出会った最初の人と結婚しようかと思ったの」 「......や、ちょっと待った」 「その相手が貴方ってわけ。ここまでは判って頂けるかしら」 「だから」 「取り敢えずわたしと言い交わした仲だって事を父達に伝えてくれればいいの。その位の嘘、つけるでしょ?」 「そうじゃなくて」 「結婚するって言っても、お互い束縛しないようにしましょ。本当に結婚したい相手が出来れば、離婚にだって応じるわ。わたしもその頃は看護師として独り立ちしている頃でしょうし」 「......人の話し、聞けよ......」 ぼくは脱力してしまった。 なんて身勝手なんだろう。 なんて自由気侭なんだろう。 呆れるより他無い。 「じゃあ、そういう事よ。また今度お宅に伺うから宜しくね!」 くるりと身体を反転させて、あっという間に、それこそ引き止める間を与えてくれずにマレーネは去っていってしまった。ひらひらと少しの風にスカートをなびかせて、帝都中心街の方へと走り去った。 ぼくはといえば− あまりの突然の出来事になす術もなく立ちすくむ事しか出来なかった。
「橋の上でプロポーズされた?それは凄いな、私も一度経験してみたい!」 翌日、マレーネの話をしたら羨ましそうに答えたのが、友人というよりも腐れ縁の悪友という方がしっくりくる、アフリード・シャーロック・パーンだった。彼もマレーネ同様、帝国屈指の名門貴族の跡取りだ。しかし尊大な雰囲気は少しもなく、言葉遣いが多少古めかしいだけだ。整った顔立ち、柔らかい物腰、理知的な態度、紳士的な優しさ、貴族特有の上品さ、表面的な部分だけとればはっきり言ってアフリードは完璧な男だった。問題な箇所といえば、これが極めて深刻で、無類のフェミニスト。そういえば聞こえはいいが、口さがなく言えば、物凄い(それはもうそうとしか例え様もない位の)女好き、という事だ。しかも守備範囲は広く、乳児から老婆に至るまでという範囲。ぼくみたいに女性に縁はないが、それほど欲しがっているわけでもない立場から言わせて貰えば、ここまでくれば立派だと思う。なんとなく苦笑交じりにではあるが。 「ただし残念ながら、キッペンベルク家と我が家では縁続きなんだ。私のポリシーとして身内の女性にはあくまでソフトに、だから、お相手は願えない」 「親戚なのか?」 「遠縁だけどね、ずいぶん前から親交はあるんだ。何でも曽祖父の祖父同士が親友だったとかで......。二度ほど婚姻関係もあるよ」 それはまた随分と古い話だ。しかしそれこそ両家の伝統を語っているのだろう。 ......そんな伝統的な、しかも貴族のお姫様と、ぼくみたいな商家の息子が結婚なんて、似合わなすぎる。いくらこの国の結婚制度に身分は問われていないとはいえ、ちょっと世界が違いすぎる。家も社交界には出入りしているが、門閥貴族の一家とでは格があまりに違いすぎる。 「いいじゃないか、出会いなんて突然なものじゃないかな。しかもマレーネだ、彼女は意志の強い素敵な人だよ。断るなんて勿体無い」 「あのな、自分を軸に世界を語るなよ。相手の事なんて全然知らないのに、結婚なんて出来るないだろうが。しかも貴族だぞ、貴族!」 「ゼファーは貴族が嫌いだったのか?」 ゼファーというのはぼくの愛称だ。名前が長いので、家族も友人も知り合いは全員ぼくをそう呼ぶ。 「いや、そういうわけじゃないけどさ」 「なら問題はないじゃないか。全然知らない相手といったけど、相手の名前も性別も知ってる。恋に落ちるには十分だと思うけどね」 「そういう問題か!?」 「他にどういう問題があるんだい?」 きょとんとした表情でアフリードは問う。 彼は悪いやつじゃない。善人か悪人かで分類したら、間違いなく善人だ。ただ、ただぼくとは観点が色々と異なっている所があるのだ。だから時々ぼくにとって突拍子もなかったり論外だったり論点がずれている事を言ったりする。 「結婚なんてその二つを知っていれば問題ないと思うけどね。私の一番上の姉も結婚式当日まで相手の顔すら知らなかったんだから」 「だから、実際に結婚するんならともかく、嘘なんだぞ、嘘。第一俺はまだ十八だし」 「マレーネも同い年だよ。誕生日は六月生まれの君よりもあとだ」 「十八にもなってこんな子供染みた事考えているのか!?どう考えたってすぐにバレるじゃないかよ!」 外見を思い出せば確かに年の頃は同い年位だったように思う。しかし嘘をついて結婚を前提に付き合ってその挙句に本当に結婚しようだなんて、今時小学生でも成功すると思いはしないだろう。 「ばれないようにするのに本当に結婚するんじゃないか。君の言っている事は悪足掻きにしか聞こえないぞ」 「わ、悪足掻き......」 「マレーネにしたって押し付けられる結婚が嫌だから、自分で相手をきちんと選んだんだ。そして君は彼女に選ばれた。それだけの事だろう?二人がその内に恋の落ちる確立は出来たわけだ。そうすればごく一般的な夫婦になると思うが......順番が違うだけで、後は同じだろ?」 恋恋恋と恥ずかしいセリフを連発するやつだ。こんな事を相談出来るやつは他にいなかったとはいえ、誰かに相談するのではなくきちんと断るという意思を固めておけば良かったのかもしれない。 「ゼファーだって断ったら後味が悪いからこうして私に打ち明けてくれたんだろう」 そうなのだ。 もしかしたら、キッペンベルク嬢も平然とした顔を装っていたけれど、決死の覚悟だったらどうしようと、昨夜ベッドの中で考えてしまったのだ。そうすると無碍に断ると申し訳ないような気持ちになってきて、結局ろくろく眠れずに朝を迎えてアフリードに相談してみたのだ。 しかしぼくとてまだ十八で、結婚なんて少しも考えたことがない。しかも初対面の相手とだなんて、想像の海の水平線を遥かに越えている出来事だ。そしてどうすればいいのかわからないのだ。 「いいじゃないか、結婚してからゆっくりと知り合っていけば」 「......でもなぁ......」 「それに」 「なんだよ」 アフリードは珍しく、少し人の悪そうな笑みを浮かべてぼくに言い放った。 「実際事が起きたら、君は断れない様な気がする」 ......自分でもそんな気がするから、いつどうすればいいのか悩んでいるんじゃないか。
学校が終わり、昨日と同じ道を昨日とは違う気持ちで歩く。景色は勿論変わっていないが、気持ちの持ち方一つで紅葉が鬱陶しく見えるのは不思議なものだ。 自分の気持ちはどうなんだろう?と授業中もずっと考えていたのだが、やはり嘘をついて結婚するなんて事は土台無理な話であって、絶対にばれるに決まっている。相手は名誉と伝統の門閥貴族だ。家名に傷を付けることになる。そうなったら叱責を受けるのはマレーネで、そう思うと可哀相になる。でも無理に決まっているんだから、出来る筈もないが、無碍に断ると−という堂々巡りだ。 ああ、昨日この道を通るんじゃなかった。そうすれば少なくともこんな大問題はぼくの前には提示されなかった筈だ。 「なに深刻な顔をしているの?」 「ぅわぁぁ!!」 「やだ、ごめんなさい。そんなに驚かせてしまった?」 −渦中の人。マレーネ・グレーチェン。 「でもよかった、昨日この道にいたから、今日も通るのではないかと思って待っていたのよ」 昨日と同じように晴れ晴れとした笑顔で、こっちの悩みなど気付きもしないでマレーネは言う。 「考えてみれば、わたし貴方のお宅を知らなかったの。でも結婚相手の家を知らないのも不自然かしらと思って待ってたのよ」 「待ってたって、俺がここを通る確証なんてないだろ?」 「それはそうだけど......」 「......アフリードと俺が知り合いだって事は、知らなかったのか......」 「え?あ、ああ、貴方、アフリードのお友達なの?なんだ、そうならアフリードに聞けばよかったのね。昨日もう少しお話すれば良かったわ」 笑う。 笑うマレーネはとても自然に見えた。 偉そうな物言いはするが、笑っている顔がとても似合うと思った。
......! いけない、なんとなくぼくは今情にほだされかけているのかも知れない。 「ねえバールゼフォン、わたしと一緒に当家にいらして頂けないかしら?両親に紹介しなくてはいけないの。もう昨夜話をしてあるから」 「なんだってぇ!?」 「だってわたし達結婚するのよ。お互いの両親に紹介しあうのは当然でしょう?結婚している兄達もそうだったもの」 「いやだってそんな俺はまだ結婚するって決めた訳じゃないぞ!?」 「だから、とりあえず、でいいの。貴方に好きな人が出来たら......別にいいから」 そんな風に俯き加減に言われると、こっちとしても薄情に断るわけにはいかないじゃないか。マレーネは計算してこんな表情をしているのではないというのは何となく判る。判るけれども......。 「......あ」 「え?」 「会うだけなら。俺、嘘をつくと顔に出るから、ばれてもいいっていう覚悟が出来たんなら......」 「本当!?」 「ばれると思うぞ、十中八九ばれると思う!俺嘘苦手だし愛想は悪いって子供の頃から言われてるし!」 「ありがとう、バールゼフォン!わたしねすごく嬉しい!」 そう言うと、マレーネはぼくの頬にキスをした。 「!!!」 「さあ、行きましょう!父も母も今屋敷にいるわ!」 あまりの事に頬を押さえて声を出せないでいるぼくのことなんて気にせず、マレーネはぼくの左手を強く握り締め、帝都の中心街へとぼくを導いていった。 その手は少しだけ汗ばんでいて、やはり彼女も決死の覚悟だったのかと気付いて、少し胸が痛くなった。
帝都中心街には貴族の屋敷が数区画に亘って立ち並んでいる。 キッペンベルク公爵邸は、以前何度か行った事のあるアフリードのパーン侯爵邸とは違う区画に存在した。 その邸の規模といえば、もう迎賓館クラスのものだ。何度か迎賓館で行われる式典に父の付き添いとして行った事があるが、もしかしたら、迎賓館よりも大きいかも知れない。巨大な門扉の脇には軍人らしき警備兵が並んでいる。現在の公爵は軍務尚書なので、軍人が屋敷の警備についているのは当然なのかもしれない。 そしていざ屋敷の門扉をくぐれば、屋敷まで一キロ近くは距離があり、中央のちょっとした広場には豪華な噴水があった。 屋敷そのものは瀟洒な白亜の豪邸。左右に広がり、Eの字に似た形に展開されている。庭もよく整備されていて、花壇にはバラや......色とりどりの花が咲いている。ぼくが花に詳しければ、どれだけ沢山の種類の花が咲いているか、すぐに判ったと思うが、生憎ぼくは花にもとんと疎い。 マレーネや屋敷の人達に促されるまま流されるまま、成り行きでとうとう客間に通されてしまった。 メイドがぼくとマレーネにいい香りのする紅茶を淹れてくれた。ぼくは実は珈琲派なのだが、淹れてもらった紅茶は香りも味も素晴らしいものだと素人にも判った。 客間は落ち着いた色合いで構成されており、チェストの上には白い陶器で出来た花瓶と、先ほど庭で見た花が活けてあった。壁には風景画が飾られている。帝都から程近いセレブレッソ自然公園が描かれている。 ......以前美術の教科書で見た事がある、構図だ。レンネーウッドという四百年くらい前の高名な画家の絵だ。確かタイトルは“愛するもの”。本物なら数千万はすると教師が言っていたのを覚えている。ま、まさかと思うが、本物なのだろうか?家格や邸宅の規模を考えると本物でないほうがおかしい気もするが、しかし本物かどうか聞くのは失礼だ。 それにしても、執事らしき初老の男性に、「公爵閣下は間も無くいらっしゃいます」と告げられてから、まだ2分。室内の大時計はそれしか時を刻んでいないのだが、一時間も二時間も待った気がする。膝の上に乗せて握り締めている拳がじんわりと汗ばんでいるのが心地悪い。 ばれたらどれだけ怒られるんだろう。 どれだけマレーネを傷つけるんだろう。 さっきから......マレーネに連れられてあの橋から歩いている最中、ずっとその事ばかりを考えている。 「......あの、バールゼフォン?」 「......え。あ、ああ、悪い、なに?」 「何だか顔色が悪いわ、もしかして、大分無理させてしまった?」 「いや......ちょっと緊張しているだけだから」 どんな理由にせよ、国のトップと会うわけだ。理由は幾重にも重なり、ぼくの胃袋と精神を圧迫させているのは必然なのかもしれない。 「父は、それほど気難しいタイプではないわ、その点は安心して、ね?」 「ああ」 返事も虚ろ。目線はまっすぐしか見られない。というか、まっすぐのまま固まってしまって中々身体が動かないというのが現状なのだが......。 「ごめんなさい」 「え?」 「いきなりこんな事にしてしまって、ごめんなさい」 「な、何だよ急に」 「怒っているのでしょう?」 「怒ってなんかないよ、どうしてそんな事思うんだよ」 「だって......」 かろうじて目線だけをマレーネに向けると、彼女はすっかり項垂れてしまっていた。 その時に、マレーネには項垂れている姿は似合わないと直感した。 昂然なまでにまっすぐと生き生きと前だけを見つめて堂々としている姿こそが似つかわしい、そう思った。 「だってずっと口を利いてくれないもの。目を合わせてはくれないし、いきなり連れてきて、怒っているんでしょう......?」 しょぼんとしたまま、マレーネは呟いた。 ......そうか。彼女も先ほどから何だか元気が無かったのは、ぼくの所為だったんだ。 「ごめん、怒ってないよ、本当に。すごい緊張しているだけなんだ、心臓が破けそうなくらい」 「......本当に?」 「うん、だから、まあ、気にするなよ。こうなったら、なるようになれ、だ」 「......良かった。ありがとう、バールゼフォン」 ようやくマレーネは安心した笑顔を見せてくれた。 そうだ。 マレーネに言った通り、もうここまで来たらなるようにしかならないのだ。だとしたら、ぼくのやれる事、やるべきことは唯一つ。 確実に、ばれないように嘘をつくこと。 いつだって目の前の出来事には全力で当たってきた。だから今回の件も、手を抜いて対処するなんてぼくの矜持が許さない。 「頑張ろう、な」 「ええ!」 隣に座るマレーネの白くて柔らかいを握り、一息つく。そうすると何だか落ち着いてきて様な気がして、ちょっとだけ、正体の判らない勇気が出てきた。 こんこん。 マホガニー製だろう、雄大に聳える(というのが正しい気がする)扉から音が出た。反射的にぼくは席を立つ。マレーネも連られたのか、同様に席を立った。 「失礼致します。公爵閣下が参りました」 先ほどの初老の執事が丁寧に頭を下げながらぼくらにそう伝えた。自然と手に力が入る。心臓は、肋骨や胸襟をぶち抜いて飛び出して来そうな程早鐘を打っている。 執事が室内に入り、ぼくらにしたものよりも深く恭しいお辞儀をする。 ゆったりと、しかしゆっくりとはしていない足取りで、がっしりとした、軍服と勲章に身を包まれた銀髪の紳士が入ってきた。 ーキッペンベルク公爵。 銀髪というよりは白髪であり、口ひげも同色だ。ひげも貫禄を表すのに十分すぎるほどの演出だった。目はぼくから見てもまるで猛禽のように鋭い。ただ敵意は向けられていないのは判る。ぼくの身長は百九十二センチある。そのぼくより頭一つ分低いくらいの背なので、この国の男性の平均身長はあるみたいだ。深緑色の軍服の上着とマントを裾を自然発生している風に任せて、まさしく悠然と、ぼくの目の前に立った、キッペンベルク公爵。息を呑む。その迫力にはただ圧倒されるしかない。 「ヘル・コーゼル」 「は、はい」 低いバリトンの声で、ぼくをわざわざ敬称付けで呼んだ。 「......どんな人物かと思えば......随分娘とは親しくして下さっているご様子だ」 「あ、は、はい、あの、えー......マレーネさん、いや、お嬢さんとは、その......」 「落ち着いてくれていい、取り敢えず掛けなさい、そして、もう一つ」 「な、何でしょう」 「手はつないだままではないといられないのかな?」 「え」 ......あ。さっき手を握ったまま、ずっといたのか!? 恥ずかしさのあまり顔が赤くなるのが自分でも判る。室内がちょうど良い温度に設定されていた先ほどとは違い、今はただもう熱くて仕方がない。 唯一つ安心したことは、公爵は笑うととてもさきほどの猛禽のような目とは違い、随分と優しい目になるのが判った事だった。 公爵は気品に溢れた動作で沈む程柔らかく触感の良いソファに身を預けた。ぼくらも手を離してそれに倣う。 「お父様、こちらがバールゼフォンさん。アフリードのご学友でいらっしゃるのよ」 「ほぅ、アフリードの。そうだったのか」 「コーゼル家のことは、お父様もご存知でしょう?」 「勿論、知っているよ。外貨獲得の功績が極めて高いのに、未だ爵位を得られないとは解せない話だからね。ヘル.コーゼル、お父上のご功績、耳にさせて頂いているよ」 「あ、ありがとうございます、そう言って頂けると、父も喜びます」 「バールゼフォンさんは、軍大学の進学を控えてらっしゃるの。お父様の後輩になるのよ」 「なるほど、軍人に。どうしてまた?今は他国の侵攻があり落ち着いた情勢とはいえないのに?」 ようやくまともに答えられる質問が来た。 「だから、です。確かに父のように公益によってもたらされる利を国や国民に還元していくということはとても大事なんだと、ぼくにも判ります。でもぼくは、他国の攻勢から、国家と国民を守りたいと思ったんです。子供の頃、出兵していく叔父の姿を見てから、ずっとそれを考えてきました。そして、軍人になることを決めたんです」 「お父上はなんと?」 「初めは反対されました。家を継げ、と。でもぼくもどうしても譲りたくなかった。だから、十年近く掛けてずっと説得し続けて、士官学校には行けなかったけど、軍大学には受験することを許してもらえました」 「そうか......ふふ」 公爵は運ばれてきた珈琲を一口つけてから、優しく笑った。 「娘と似ているね、君は。私の娘も看護師になると言い張ってもう十年だ。私の方もそこまで言われては折れざるを得ない」 「あ......」 そうだったのか。ちらりとマレーネを見ると、少し恥ずかしそうに顔を背けた。 「だが、君のような人物が交際相手で安心したよ。似た者同志、仲良くやりなさい。マレーネ、この間の話はなかったことにする。それでいいな?」 「本当に、お父様!」 「何も好き合っている者を無理やり引き裂くほど私の趣味は悪くはないぞ、マレーネ。ただ式の手配は済んでいるから、予定日までには式を挙げること。私からの要望はもうそれだけだ」 「お父様、ありがとうございます!なんと申し上げれば良いか......本当にありがとう、お父様、大好きよ!」 言ってマレーネは公爵に抱きついた。公爵は慌てていた。そんな光景がとても自然で、何だかかわいらしくて、ぼくは自然と笑みがこぼれた。 ......ってことは。ばれてないって事なのか? 「私も今職務の合間を縫ってきている。もう行かなくてはならない。ヘル・コーゼル」 「は、はい!」 「近いうちに、ご両親にご挨拶に伺わせて頂くよ。その時にまたお会いしよう」 「はい、ありがとうございます」 頭を下げつつ、やっぱりばれてないんだな、と思ったが、もしかしたら......という思いも、少しあった。でも、マレーネが咎められなかったのだから、ぼくとしては、正直それだけで大成功だった。 ぱたん、と大きなわりに静かな音を立てて扉は閉まった。その音に合わせてぼくはあの学校の近くにあるカフェのチーズケーキみたいに柔らかいソファに座り込んだ......というか、脱力して座った様な状態になった。というのが正しい。 「......はぁ......生きた心地がしなかった......。公爵閣下と会うと、いつもこんなに緊張するのか?」 「あら、父は随分と機嫌が良かったみたいよ。御機嫌斜めの時は雷鳴が聞こえるような雰囲気だもの」 「そうなのかよ......」 一息つこうと紅茶に手を伸ばす。ぬるくなってもまだ味は落ちていない。貴族っていつもこんなにいいものを口にしているんだろうか。 「......あ、うちの両親にも紹介しないとな。閣下はうちにいらっしゃるみたいだし」 「ね、バールゼフォン」 「ん?」 「......あのね、私、貴方に言っていなかった事があるの」 「な、なんだよ」 「......本当はね、わたしね......」 「うん」 「......あ、あの......貴方のこと、ずっと前から知っていたの」 「え!?」 「以前、スヴォーニ伯爵のパーティにいらした事があるでしょう?」 「......2、年くらい前、かな」 「覚えてないかしら、貴方その時に、わたしと出会っているの」 「......そ、そうなのか?」 「ええ、酔いの回った貴族の一人に絡まれていて、誰も助けてくれなかったのに、貴方だけが助けに入ってくれたの」 「そんな事あったかな......別人じゃなくて?」 だったとしたら、大変なことになってしまう。 「ええ、間違いなくバールゼフォン、貴方よ。あの後、迎賓館のパーティで、貴方とアフリードが一緒にいるのを見たから。だから、あのね......」 マレーネは俯きながら呟くように先を続けた。ぼくはといえば、あまりの驚きに言葉が出なかった。 「誰でも良かっただなんて、嘘なの。アフリードに教えてもらって、あの日貴方が多分あの場所を通るだろうって予測して、待ち伏せてたの」 アフリードの奴......知っていたのに知らない振りを決め込んでいたのか!! 「二年前から、ずっと貴方が好きだったの。でも会える機会はないし、こんな手段しか思いつかなくて......ごめんさないっ」 呆気にとられた。 これで二度目だ。 「あ、あの、バールゼフォン、本当に突然でごめんなさい、でも、結婚の時の条件は守るわ、貴方に好きな人が出来たら、その......」 離婚にだって応じる、か。 「......大丈夫だと、思うよ」 「え?」 悠然としているマレーネ。 笑顔が似合うマレーネ。 自信に溢れたマレーネ。 未来を夢見るマレーネ。 「離婚には、ならないよ」 だって、ぼくは。
こんなマレーネと。 アフリードか言うように。
恋に落ちたいと、今、本気で思ったから。
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