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クリエイター名  斑鳩准
深緋

 531の番号を冠する大教室はただ今、二百人近くの生徒が収容されている。勿論、講義の為であるのだが、本来の目的が円滑に遂行されているとはお世辞にもいい難い。拡声器を通過して朗々と響く教諭の声を真面目に聞いているのは生徒はほとんどいない。ご多分に漏れず、私もついさっきまで教諭のお言葉など無視してノートの端に渦巻きを描いては消したりしていた。 
 理由は知らないが、手が熱かったのだ。品行方正が定められて監視されているわけでもないし、我慢する必要もなかったので欲求の赴くまま、金属製の机の引き出しに手を突っ込んだ。けれど、ひんやりと滲むお決まりの感触はそこにはなかった。つるりとした感触、と表現してしまうと金属と同じようになってしまうがいくらか温度が高く、肌に引っ掛かりがあって、どうやら紙製のようなのだ。
 誰かの忘れ物かもしれないと、紙製の物体を取り出して私の時は止まった。
 手の内にあるのは、学校の売店で売られている大学ノート。A4のノートの外装で一番目立つのは、上から七センチメートル程の所の中心に下線付きでnote bookとゴシック体で綴られている表題である。残りは勝手にメモでもしろといわんばかりに、上の表題から八センチメートル程間を空けて罫線が始まっている。遊び心一つない、書ければいいだろうと暗にいっているようなノートのはずだった。
 名前も書いていないノートのロゴと罫線の隙間、大きな四角の中の小さな線なき四角形。人の意識が生み出す中抜き長方形の左端、つまりnの左斜め下の空間だった所。そこに黒い固まりがあった。黒のインクのみで構成されているのは薔薇と茨。迷いのない線で引かれて咲き誇る花と刺には滲みの一つもなく、私はインクの上に指を走らせる。
 食いつく紙と、繊細に凹むインクの部分が細かく指紋の隙間を伝う。人差し指を残して握った利き手がじっとりと汗ばみ、紙との摩擦が増える。ふんだんに関節を使って人差し指を掌まで持ってくると、人差し指だけいやに冷えているのが分かった。
 熱を奪った刻印がまた冷えていく様は、美しいと形容する他なかった。


 いつの間にか授業は終わっていたようだった。教授は既に大教室を後にしたようで、早々と教室を出る質の人々もいなかった。気が付けたのは騒がしいグループの一人が派手に筆箱を落としたせいで、私は痺れた頭でちりじりになったボールペンを拾った。ありがとうとか言われたような雰囲気だったので、気にしないでとだけ言った。
 喧しい人達も出て行って、大教室はついに私一人になってしまった。大教室は次の時間は使われないようで、大教室の前を通り過ぎる気配さえない。時計を見れば、いい加減大教室を出なければ次の授業に遅れてしまうのは明らかだった。
 もう一度だけ、と言い聞かせて引き出しの中に鎮座するノートに触れる。黒いインクはやはり優雅だった。我知らず漏れる溜息がノートの表紙に分子レベルで染みたかも知れない。己の思考が一種のフェティシズムだと気づくが、正すことが愚だと思ってしまう。ノートの端を指紋に引っ掻けて適当なページを捲ると、見たこともない数式が並んでいた。
「役法」
 単語が喉を震わせる。恐らくでしかないが、数式の中に見知る単語が混在しているところをみると、私の知識では役法しか思い当たらなかった。
 このノートの持ち主は高校生ではないのだ。最低でも大学生にならないと役法は学べなく、独学ならば大教室などにどうすれば置いていけるだろう。
 悶々と思考を巡らせていると、チャイムが校内に響き渡った。肩が震えると同時に重々しい現実が見えてくる。遅刻、一歩手前。
「フォーマ教諭!」
 ノートは大教室に置いてきた。昼休み、ないし放課後は大教室を張ろうという魂胆からきた行為。所謂撒餌とかいう奴だ。
「……いいからさっさと座りなさい」
 飛び込んだ教室は出席を取っている真っ最中だったようで、教授は出席簿を片手にしていた。
「ありがとうございます」
 口早に言って、自分の席に座る。言葉には社交辞令の意味しか含まれず、教授も薄っぺらな感謝に鼻孔から嘆息を漏らした。
 荒れた呼吸を整え直してから、失策に気付いてしまった。誤算だ、と胸中で呻く。高等学校のカリキュラムは空時間など存在せず、極稀に休講がある程度で学び舎にいる間はほとんどの時間拘束されている。しかしながら、大学カリキュラムは単位制度で比較的自由に授業が取れてしまうのだ。一年目はほぼモデルコース通りなのだろうが、二年、三年となるとまず空時間ができてくる。
 もし、今日という日の四時間目が空時間がなら、今が暇で忘れ物に気付いていたら。私が昼休みに覗きをする前にノートはなくなっているかも知れない。自主休講にすればよかったか、と臍を噛んだ。
 四時間目が終わった後、弁当箱と水筒を片手に大教室に向かった。わざわざ大教室にまで来て、弁当を広げようという酔狂さんは自分以外にはいないようだった。教室内を見渡して隠れやすそうな場所を探すついでに、ノートがまだあることも確認する。ノートの角を目に納めると触れたい欲求に駆られるが、いつ持ち主が取りに来るか分かったものでないので劣情を無理矢理押さえ付けた。
 一通り迷ってから、私は隠れ場所に教師達の花園を選んだ。暗喩をしたところ間抜けになってしまったので一人で教卓だ、と訂正する。
 今日の昼食がお弁当でよかった、と安堵の息を漏らす。学食か売店に行かなければならなかったら、大変なタイムロスを犯すところだった。
 教卓に潜り込むと、弁当箱を空ける。ピーナッツバターのサンドウィッチに手を伸ばしながら、香しい芳香に舌打ちした。さっさと匂いの元を断つべく、五つあるサンドウィッチを紅茶で喉の奥に押し込んでいく。全てを飲み込んだ後、パンが引掛った感のある喉にゆっくりと紅茶を湿らせた。
 すっかり落ち着いて手についたパン屑を払おうとしたとき、隠そうともしない靴音が響いた。物音が聞こえ易いようにと開け放っておいた引き戸から流れてくるのは、革靴が床を叩くヒールのように硬くはない破裂音。
 僅かに歪んでがたつく教卓には勝手よく、用途不明の穴が空いていた。だからこそ、教卓を選んだといってもいい。穴から戸口を覗くと足音の主人やってきたらしく、廊下に人影が落ちていた。
 え、と。
 思わず声を漏らしたかも知れない。頭に浮かんだのは野暮、の二文字。
 あんなに美しい絵を描くのだから、センスの良い女性だと思っていたのだ。ゴシック調を思わせる絵だったのもあって、ビジュアル系の可能性も考えなくはなかったが、なんというか、予想を遥かに裏切られた。
 教室に入って来たのは男性で、黒い飾り気のないズボンに真っ白なカッターシャツを着ていた。髪は寝起きに軽く梳いただけです、という風体で、前髪が少し邪魔そうに思える。コーカソイドでは稀だろう程の漆黒の髪質と瞳孔は、白いシャツによく映えた。いつか読んだ東方の国が舞台の漫画で、こんな服装をした学生がいたっけか、と心中で呟く。
 私が青年の容貌を呆然と見ている間に、彼は既にノートのある机の元へと歩み寄っていた。ノートを取ると、手に提げていたプラスチックのアタッシェケースに入れる。
 そうして彼は私に気付かずに廊下に消えてしまったのだ。
 再び静まり返った大教室の教卓の下で私は一人頭を抱える。大誤算だった。まさかあのゴシック調と分類されるだろう絵を描いた人物があんな人だったとは思わなかったし、見ただけで消えるだろうと思っていた予想していた好奇心も反旗を翻した。
 一体全体どういう理由で絵を描き出したのか。どうして絵と本人の服装が一致しないのか。絵自体は青年が描いたものなのだから共通点があるはずなのに、全く外見からは見取れなかった。では、あの絵は彼の精神そのものなのか。それとも、他の誰かが描いたのか。
 脳が精神の歯車を回し、好奇心が興味へと音を立てて移行する。教室の隅に設置してある忘れ物入れに向かいながら、混乱する意志を片付ける為に唇を踊らせた。
「ノートを拝見した者です」
 穴だらけの段ボールに手を突っ込んで、ちびた鉛筆を取る。感想文は苦手で締め切りぎりぎりまで手を付けなくて、いつも後悔していた。
「あなたがどんな方かも分かりませんが、とても素敵だと思いました」
 鉛筆を片手に先程零した科白をそのまま書き出して、気のきいた言葉が見つからずに歯噛みした。


 だからなのか、次の授業の三日後の三時間目までに私の心はかき消えていた。黒鉛一粒残らない机を見た瞬間、期待が捻り潰される感触に目が閉じられなかった。誰が消したのかは皆目検討がつかないが、彼に言葉が届いていないのは明らか。最悪読まれていた上で本人が消していたのなら、私の言葉は必要とされてしないものなのだ。
 分かっていて私は綴り続けた。称賛を、陳腐な言葉を、本来の色に戻る机に何度も書き殴った。書く度に消える文字を最早私は覚えていなくて、同じフレーズを使ったかも知れない。けれど、何も問題ない。彼の瞳と精神に届かない限り、言葉の意味は消失してしまうのだから。
 意地とかそういう感情は焦燥へと変わり、いつしか欲望がじりじりと蒸発する池から首をもたげ出した。一方的な感情に安定を見出す程自分は大人でもなく、得られないものを理不尽な怒りを持って焼き尽くせる程幼くもなかった。自らがいかに半端なのか知っているつもりだったのに、思い知らされた。
 そんな不安定な感情を腹に抱え、焦がし続ける少女が取る行動は青年を探すことだった。年上の大学生を目で追い回し、何度か彼の姿を視界に納めた。彼は五、六人のグループの隅にいて、いつも誰かの話を聞いているようだった。社交的というわけでもないらしいが、下らない冗談に笑っていたりもしていたようだ。服装は日によってまちまちで、時には眼鏡までしていたりしているところをみると、どうやら拘りがあまりない人らしい。
 実際、私が青年の姿を追うのはどういった欲求からなのか分からなくなってきている。友人を見ていると、愛とか恋とかいう感情ではないとは思うのだ。少女や少年達が愛しいという人を見るときのきらきらとした輝きを私は知っている。私に煌めく輝きが、私の中にあるとは思えない。
 思うに、恋愛とは錯覚なのだ。思い違いといってもいい。吊り橋論とかいう物もあって、恐怖からの動悸を恋愛感情と間違える。正に錯覚の究極だといえるだろう。
 総合すると、だ。私はうっかり煌めきの元である思い違いをしそこなったのではないかと、波に乗り遅れたのではないかと思うのだ。私は青年のノートを見つけ、彼を見つけ、恋に落ちる錯覚をしなければならなかったのではないか。そうすれば、なりそこないの感情を持て余す必要などなかったろうに。
「……畜生」
 夜は嫌になる程緩やかに流れるのに、この声のどす黒さは何なのだ。


「あの、済みませんが」
 あの青年が与するグループの一人を廊下で捕まえた。動悸を感じるのは彼に青年を感じるからなのか、はたまた全く違った理由なのか。
「……高校生?」
 厚ぼったい格好をした青年が物珍しそうに私見て言った。同じ学び舎で生活しているとはいえ、学年以上の分類で区別されている生徒との関わりは皆無。明らかに珍妙な物を見る好奇の目に晒されているのが分かった。
「はい」
 対面して、決定するのだ。自らの中のもやもやした感情が何か、決定するのだ。そんな決意を返事に込めた。
「何の御用?」
「お伺いしたいことがあるんです。服装に一貫性がない感じのぼんやりというか、無個性というか、そういう雰囲気の人なのですが」
 無個性、というところで、青年が表情を明るくした。
「ノーマのこと?」
「聞き上手そうな人です」
「うん。じゃあノーマだ」
 あいつはぼんやりさんだから、着せ替え人形にされてるんだよ、と彼は笑った。
「その、ノーマさんの今日最後の授業がどこであるのか教えて欲しいんです」
 ふうん、と青年が意味あり気に鼻から息を漏らす。好奇の視線を観察するそれに変えて、私を爪先から髪の僅かな跳ねまで見た。
「ま、いいや。あいつ、俺と同じ授業の筈だから、第二実習室だよ」
「ありがとうございます」
 深々と頭を提げて形式でしかないが、礼を言う。
「頑張って!」
 下世話な笑みを浮かべ、青年が親指を立てる。何を想像しているかは分からなくもなかったが、同じく笑みを返しておいた。
 昼休みの廊下は慌ただしくも鈍感で、私達の会話があったことを気も留めている様子はない。テニスの軟球が転がっているのを目の端に留めながら、教室へと戻る内に精神の変化に気付いた。時々変った奴だとかなんだとか言われるが、こういうときは痛感する他ない。一体全体、どうしてこんなにも心が平静なのか。赤点必死のテストがある前夜ぐらいに慌てたり、心拍数を上げたりするべきではないのか。真っ正面に対面して、こんがらがった精神世界を整頓するつもりならば緊張の一つぐらいしてもよいのではないか、と。
 半ば逃避のような困惑を持て余している内に、時間は刻一刻と過ぎていった。高校のホームルームが終わる時間と、大学の授業が終わる時間とが一緒なのは学校側の陰謀だと誰かが言っていた気がする。学生達の帰宅ラッシュに巻き込まれると、何者かによって仕組まれていると思わなくはないが。とにかく、私の教室と第二実習室はさほど離れてはいない。すぐさま教室を出られなくては顔合わせぐらいはできるはずのなのだ。


 授業の内容も、ホームルームの連絡も頭に入っていない。一応自分も高校生なのだ、と隅で思った。
 階段の一段一段が大きく見えたり、足に鉛があるように感じる。理性と本能が相反しているからなのだろう、と理性で階段を踏み締め続ける。本能が不穏を感じ取って何やら騒いでいるのだが、階段をよじ登る足が止まる気配はなかった。
 現世から隔絶された感のある実習室からは珍妙な刺激臭がしている。アンモニアではないとは思うのだが、とどうでもいいことを思いながら引き戸の入り口から人影を探す。目標を発見する前に昼休みに呼び止めた人物が私に気付いたようで、申し訳なさそうに寄ってくる。
 嫌な予感がするから、何も言わないでくれ。
「当てにしてたのに」
 彼が物語る前に、私達は協力関係にあったのではないかと非難する。はっきりと依頼したわけではないが、言外の約束が取り交わされていたように思っていた。あの、下世話な笑みはそういう意味ではなかったのか。
「ホントごめん。今日と……明々後日はあいつさっさと帰っちゃうんだよ。バイトか何かだと思うから呼び止めるのも悪いし」
 今日と、明々後日。
「月曜と木曜日」
 脳内で変換して、言い直す。
 今、とんでもなく酷い顔をしているのだと思う。証拠といっては何だが、前に立つ青年が表情を崩しているし、耳に届いた声は惚けていた。
「私、教室を出てすぐの階段を使ったんです」
 片手で口元を押さえて、自問するように口早に囁いた。
 バイトならば、少なくとも急がねばならない用事があるのなら、玄関へと続く廊下に出るあの階段を通るのが自然だ。けれど彼は、ノーマはそうはしなかった。
 居ても立ってもいられなくなり、私は踵を返した。首筋に眠気に似た痺れを感じながらも、どうにか冷静な部分で名も知らぬ青年に心中で謝罪する。勝手に期待したり、詰ったりしてごめんなさい。
 鳴り響く足音も気にせずに、建築に継ぐ建築が原因で複雑怪奇な構造の校舎を疾走した。大教室に続く廊下の手前で失速して、息を整えて足音を消す。一歩一歩優しい思考で溢れかえる心を押さえて歩みを進め、いまだ色あせた右手で引き戸を引いた。

 ――黒が。

 私の言葉が机を離れて、文字通り宙を舞っていた。一通り酸素に触れると文字達は落ち着いたのか、机に置かれたノートへと滑り込む。貧弱な蛇が礼儀正しくノートへ収まっていく光景に私は見惚れていた。
 役法の中に現在眼前で起こっているような式があるのだろうとは予想できる。けれど今、この場所でこの現象が起こっているのは奇跡なのではないかと思った。
 ノートに手をかけて、目を伏せていた青年が顔を上げる。
「君が書いてくれていたの?」
 眩しいものを見る目で微笑んで、彼は私に問いかけた。頭を下げて答えた視線の先には、服の隙間から零れる煌めきがあった。友人が、人々が愛しい人を思うあの煌めき。
「認められなくても構わないと思っていたのにね」
 字の次に煌めきから目が離せなくなって、彼の表情を見ることは叶わなかった。けれど、どんな顔をしていたか分からなくても、読み取れることは山のようにあった。
 床の上を弾む音を聞いて、どうにか顔を上げる。
 彼に私の言葉は届いていた。
 彼に私は響いていた。
 私に彼は、時間と技術を割いてくれた。


 伝え続けた言の葉は、彼の目にもにも煌めいてくれていただろうか。
 
 
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