|
クリエイター名 |
霞月 瞬 |
サンプル
『待って、お願い! お願いだから、まだ待って!』 あの人が帰ってくるまで、せめてあの人の姿を見るまでは。 「あいつがいない今が良い機会だな。剣術の稽古で邪魔だし、本来の役目すらまともに果たせない。お前は役立たずなんだよ」 「そうそう、あいつ以外お前に関心もつ奴なんかいなかったしな」 だからお前は、もう用済みなんだよ―― 斧が何度も、体に突き刺さる。 『これから戦に行くけど、無事に帰って来れたらまずお前に会いに来るよ』 会いたかった。最期に、こんな私の姿を褒めてくれた、唯一の人に。
漆黒の夜空に、櫻吹雪が舞い上がる。盛り上がる宴の席から一人の男が席を外し、杯を片手に歩き出した。その真っ赤な杯には溢れんばかりに酒が揺らめいている。 周りの宴会仲間から何処に行くのだと呼び止められるが、彼は曖昧に笑みを浮かべるだけで歩みを止めようとはしなかった。 むしろ宴の歓声から遠のくかのように、足早にその場を離れる。黒染めの衣が翻ろうが気にしないようだ。杯の水面には、欠けた月が不安そうに震え映し出されていた。
そんな彼の足も、館の角を曲がると速度を弱める。酒を零さないように注意しながら、密かに立たずむ一本の櫻の木に背をもたれかけた。 館の中庭に咲き乱れる数々の威厳に満ちた櫻よりも、少し頼りなく、満足に花を咲かせきれていないこの櫻の方が彼は好きだったのだ。 戦に行く前から、彼はよくこの櫻のもとで佇んだものである。 「はぁ……やはり酒は一人で飲むに限るな」 「お兄さん、溜め息なんかついてたら、折角の男前が台無しよ?」 そんな物思いにふけっている彼の背に、突如女の声がかかった。誰もいないと思い込んでいた彼は驚きを隠せず、杯から酒が滴り落ちる。 「誰だ?」 瞬時に腰の刀に手が伸びる。 しかし、すぐには返事が返ってこない。かわりに楽しそうな、鈴を転がしたような笑い声が木霊する。男は不審げに眉を上げると、注意深く辺りを見回した。 「やっぱりお兄さんは来てくれたわ」 とんっ、と身軽な音と共に、一陣の優しい風が吹き抜ける。それに誘われるように彼は後ろを振り仰いだ。気配が、全くしなかった。気配を探ることを得意としていた男は同様を隠せない。 (この女、何者だ? こんな夜も更けた中、何をしている?) 「やっぱり? 俺が此処にくるのを予測していたとでも?」 刀から手を離して、怖いわ。と女は笑う。口元に手をあて、くすくすと。 櫻に溶け込んでしまいそうな淡い色の着物を身に纏い、艶やかな黒髪を夜風にさらしている。黒曜石の如く漆黒の瞳は、驚愕を隠しきれない彼の姿をはっきりと映し出していた。ゆっくり、一歩ずつ彼に近づく。 「美味しそう」 女は男の承諾もないまま杯を奪うと、唇を寄せた。彼は状況を飲み込めないのか、彼女の持つ独特な振る舞いに流されていた。自分の居合に入った瞬間、抜刀する覚悟はできていたはずなのに、体が動かなかったのだ。 彼女は美味、と呟いて艶やかに唇を舐める。 「ご馳走様」 大分残りの少なくなった杯に不安げな自分の顔が映し出されたことによって、彼はようやく我に返ったようだ。慌てて彼女の手から杯を奪い返すと、残り少ない酒をみて溜め息をつく。 「だから、溜め息つくと」 「誰のせいでついてると思ってるんだ、誰のせいで」 さぁ、誰かしら? 女は悪びれた様子もなくにんまりと笑う。 櫻が音もなく、彼女の回りをくるりくるり、と舞い落ちる。 「お兄さん、仲間の内で飲まなくていいの? わざわざこんな人気のない錆びれた場所に来なくても」 「酒は一人で飲むのが一番美味いからな」 「ふふ、女性陣はお兄さんがいた方がお酒も美味しく飲めるというのに」 そう零しながら、彼の長めの前髪に手をかけた。 「折角の綺麗な闇色の瞳、隠してしまうのはもったいないわ」 「綺麗? そんな風にいう奴は今まで一人も居なかったな」 他の人よりも濃い黒目だとは自覚していた。戦に赴く回数が増えるにつれ、体に血の匂いが染み付き、更に濃くなった気がする。日の光を浴びても、自分の瞳だけは暗いままだった。 「でも、俺はこの櫻がこの世で一番綺麗だと思うけどな」 彼は闇色の瞳を細めながら、頼りない太さの幹に手を這わせた。 「ありがとう。そんな風にいう人は今まで一人も居なかったわ」 先ほどの彼の言葉をそのまま返すかのように、女は微笑を浮かべる。男は不審そうに眉を寄せたが、思い直したかのように酒を飲み干した。 (どうやら柄にもなく、俺は酔っているようだ) 数年ぶりに故郷に帰ってきたものだから、うかれてしまっているのかもしれない。 酒だけでもなく、目の前に咲くこの桜も酷く自分を惑わし、酔わす材料の一つだ。 どうせ此処にも長くは留まっていられない。参加した戦がたまたま故郷の近くで、何年も帰っていないものだから、と仲間同士で帰郷しただけの事。 また何処かで隣国との反乱の戦があれば、すぐに狩り出される。 それなら、今だけは珍しく酔った自分の前にいるこの女が何者であっても、構いやしない。今後戦で、敵であると気付いても、今だけは――。 「なぁ、こんな時間に何やってるんだ?」 男は大分落ち着いた声で、欠けた月を背に立つ女に問いながら、幹に寄りかかった。 「普通の女ならとうに寝ているだろう? それに、見張りもなく一人で出かけるのは随分無防備だと思うが?」 数年前故郷をでた時、この館で働いていた女達の一人ではない。初めて見る顔だったから、自分と同じように偶然この地を訪ねたものだと男は思っていた。 それとも、気配を消すうまさから考えて、敵の密偵という選択肢もあったが、それは違うような気がしていた。 「私は、貴方を」 女は瞳を伏せ、言葉を選んでいるようだ。 「っと、やっぱいい。お前が何者であろうと、気にしない。この櫻を見ているのだから、悪い奴ではないだろうし」 「可笑しな人。悪い人かもしれないわ? 貴方の命を狙っていたりして」 茶目気を含み、女は楽しそうに笑う。 男は目を見張った。初対面のはずの女が、旧知の顔に見えたのだ。いや、毎日顔を見合わせていたといってもいいぐらいに。 (いつもと同じ酒なのに、ここまで酔うとは) 後程小川で顔でも洗う必要があるな、と男は苦笑した。 「どうしてこの櫻を見ていると、悪い人じゃないの?」 「そんなの、決まっているだろう。俺が見ているからだ」 何を今更、と男は口角を上げる。 「中庭の威厳に満ちた櫻よりも、赴きがあるとは思わないか? 旅人さん」 「そうね。貴方――誠人さんは他の人にもそう言い続けていたわ」 「嗚呼、でも誰も賛同してくれなくって――今、俺の名を? どうして知っている?」 鼓動が、早まる。一陣の風が音もなく駆け抜ける。 その風は、酷く生暖かく、髪を、頬を撫でる。 「何を今更、よ。毎日会いに来てくれていたのに」 「毎日? 初対面なはずだろう?」
『――! 誠人! 何処に行ったんだ?』 『お酒の席にはあの人がいないと、つまらないわ!』 自分を探す声が耳に入る。長い間席を外したので、どうしたのかと探しに来てくれたらしい。 「ほら、仲間が探しにきてくれたみたいね。もう、お別れ」 「それより、お前は何者だ! 場合によっては」 「斬る? そうね、どうせなら貴方に斬られたかったわ。それに、私の正体は何でもいいはずでしょう?」 先ほどまでくっきりとみえていたはずの女の姿は今は酷く頼りない。 触れると壊れて消えてしまいそうな、儚さをこれでもかという位に身に纏っている。 「誰なんだっ……俺と毎日会っていただと? 俺の名前も知っているし、斬られたい?」 生憎男には特に親しくしている女も居ないし、毎日欠かさず会っていた友人もいない。 人付き合いを好まなかった自分からわざわざ会いに行ったような人間なんて、一人もいない。 『誠人? 何処まで行ったんだ?』 まさか裏庭の錆びれた場所に来ているとは思わないらしく、声はすれどもなかなか足音は近づいてこない。 「誠人さんは良いわね、いつも探してもらえて……私はいつも独りだったわ」 「独り?」 「そう、でも貴方が来てくれたから、寂しくなかった」 あっちで人の声がしないか、という声が聞こえる。ここまで、もうすぐ辿り着くだろう。 もしこの現場を見られたら、目の前の女を庇うべきが、敵とみなすべきか。 「最期に貴方に会えて、よかったわ」 「黙ってれば、何独りでわけのわからないことを!」 仲間の足音がはっきりと聞こえる。その瞬間、彼の体は自ずと動いていた。 この女を庇うために、手を伸ばし―― 「こんな私を、必要としてくれてありがとう」 触れる直前に、そう、指先がたどり着くその前に、彼女の姿は。 消えてしまった。 酷く優しそうな笑みが、酷く男の心に突き刺さる。 からん。
杯が手から落ち、緩やかな円を描いて回る。 それを視界に確認した瞬間、男は我に返った。今、自分が何をしようとしていたのかわからない。 何を見ていたのか、誰かと一緒にいたような、気もする。 「あっ、誠人。お前こんな所で何やってんだよ」 「探したよ、早く戻ろう!」 仲間の手に導かれながら、よろめくように彼は歩き出す。 「あれ、お前何櫻まみれになってんだ?」 櫻? 「わぁ、本当。あの辺鄙な荒地、櫻一本もなかったのに」 男の黒染めの衣には溢れんばかりの、桜の花びら。 漆黒の髪にも、無数の花びら。 櫻のない、場所で? 男は何かに弾かれたかのように、仲間の手を振るほどくと先程の場所へと駆け出す。そんな突拍子のない彼の行動に仲間は唖然とした。 彼は走った。裏庭へ、あの櫻の木の元へ。
頼りないながらも、必死に花を咲かせていたはずのあの桜の木は。 何処にもなかった。 鼓動が聞こえる程、男は動揺していた。先程、自分は確かに櫻の木の下で酒を飲み、ある女と言葉を交わしていたではないか。 自由奔放に生える雑草に足をとられながらも、木のあった場所へと進む。 そこで彼の視界が捕らえたものは、欠けた月に満足に照らしてもらえていない、切り株。その切り口は乱雑で、痛々しい。 『そうね、どうせなら貴方に斬られたかったわ』 「そうか、そうだったのか」 (俺は確かに、毎日お前に会いに来ていた。お前が必死に咲くその姿がとても好きで) 指を、幹に這わす。硬くて冷たい、懐かしい感触。 (まだお前は死んだわけじゃない。樹木は人間よりも、強いから。今度は、俺が待つ番だろう?) 毎日毎日会いに来るから、また花を咲かせてくれよ。 男は楽しそうに口角を上げると、その切り口に唇を寄せた。
「ただいま」
|
|
|
|