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クリエイター名  高橋秦哉
サンプル

目の前に広がる事象の何処までが現実で何処からが仮想なのか。
否、そんなものは存在しないのかもしれない。足元に広がり、地を染め上げるこの赤すら、自分の脳が作り上げた幻想なのか。
触ればぬめり、鼻をつく鉄の匂いすら。






夢は、現実と融合する。






それが最初に始まったのは一年前の事だった。当時高校を中退しようかどうか迷い、結局自分で決断する事も出来ないままずるずると現状を維持し続けていた日々。同じ中学を出た友人は各々の生活をそれなりに楽しんでいた。時々集まっては馬鹿騒ぎをして気を紛らわす。それをする回数も段々減っていき、最近は連絡していない友人が増えた。

「おはよう、暁君」

名前を呼ばれて振り返れば、同じクラスになって日が浅い――――確か、瀬谷さんだったか――――が立っていた。

「おはよ、瀬谷さん」
――――まだ知り合いでもないのに名前呼びか。

言外に思った事は口に出さず、ただ心の中で思う。塵と思っていたその感情は積もり、莫大な量となっていく。塵を吐き出す術は自分で既に考えていた。

さきほどの瀬谷有子にしても、他の女子も、4月の時点から彼のことを名前で呼ぶことが多い。
彼の名前は砂原
暁。アカツキ、と書いてアキと呼ぶ読み方は、今は亡き彼の母親が付けた名前だった。
今現在、都内にある公立高校に通っている暁は一人暮らしをしている。
彼の両親は彼が五歳の時に二人とも死んでしまった。
死因は刺し傷による出血多量であったが、本来の理由はそこにはない。
『本当の』理由を知っているのはその現場を目の前で見ていた彼だけだった。




硝子のように感情の無い目で見ていたのはいつもと同じような家族の団欒風景。
それはいつもと同じようでいて、明らかに異色な雰囲気を含んでいた。

何故なら家庭崩壊も間近なほど、彼の家は壊れていたのだから。

そしてそれは突然始まった。先ほど食後のお茶を飲んでいた父親がいきなり倒れた。湯飲み茶碗の横には空になった薬瓶がある。最近の薬局では過度に飲んだからと言って死に至るような薬は販売される事は少なくなったが、薬などは薬局でなくても買えるのだ。勿論正しい使い道自体が危険な薬が大半を占めるのだが。
苦しそうに喉を掻き毟り、椅子から転げ落ちた後何度か体を逸らせて床を這いずり回った。テーブルは倒れ、その上に飾られていた家族団欒の為の小道具は無残に散った。
あたり一面に先ほどまで温度を持っていた料理が散らばる。床に落ちた瞬間にそれらは『料理』ではなく『芥』となり、ただその場を飾るオブジェの一つとなる。
母親は先ほどまで父親だった『モノ』に一瞥をくれ、ゆっくりと彼に歩み寄ってきた。
その顔に湛えた表情は異様なほど優しく、恐らく今まで見た中で一番美しい彼女の表情だったのではないか。
今までに見た、というほど顔をあわせていたわけでは無いが。
数えられるほどしか触れていなかったその白く細い指が彼の首を包み、静かに呼吸を苦しくさせる。もがく事も抵抗する事もせず、ただ暁は彼女の目だけを見ていた。虚ろな目は何を映していたのか。
角膜に写っているのは暁であっても、本当に見ていたのは暁の中にいる父親の姿かもしれないし、彼の瞳に映る自分であったのかもしれない。あるいはそのどれでもなく、もっと他の遠いものを見ていたかもしれない。兎に角彼女はそれを見ながら、見ていない表情でゆっくりと指で出来た輪を狭めていった。気道が塞がれ、喉が酸素を求めて勝手に喘ぐ。
視界が端から順に赤に染まり、視覚出来る物を減らしていく。鉄の味を感じた時、不意に呼吸が楽になった。
生に未練など無かったが、本能はそれに逆らった。目の前にある母の腹を思い切り蹴り、後ろに突き飛ばす。瞬間、一気に酸素が気道を通り全身に送られる。
母親はと言うと、先ほど蹴った瞬間に後ろにあった角に頭を打って気絶している。
それを見て、暁はゆっくりと包丁を手に取った。

人間は傷をつけられると血が流れるが、生きている間につけられた傷と死んでからつけられた傷ではその切り口が違う。それは生活反応と呼ばれ、切り口の違いから生存時の物か死後の物か判別できると言う。だから“それ”を実行する為には、父親に『まだ生きてもらっていなければ』ならなかった。
父親の頚動脈に指を添え、まだ微かな呼吸があることを確認する。段々と脈の速さが速くなり死期を知らせている。――――間に合わせるには、今しかない。

ゆっくりと、父親の心臓に包丁をつきたてる。
それは音も無く彼の体に入り込み、薄い膜を突き破った。今の今まで体全体に血液を送っていた“装置”が機能しなくなり、段々と呼吸は浅く、脈は弱くなっていく。刺した時と同じように静かに包丁を引き抜くと、紅い血に染まった刃が見えた。刺したところから溢れる血に目もくれず、暁は父親の服で彼自身の血を拭き取った。このままでは血液中と皮膚に含まれる油分が邪魔して上手く刺す事が出来ない。さっきと同じ銀の刃が見えるようになると彼は手を止め、父親の頚動脈に触れた。ほんの数分前まで動いていた脈は動かなくなり、肌の温度も下がっている。皮膚はゴムのように無機質な感触を手に伝えてくる。
少年は無言で父親から離れ、ゆっくりと自分の母親に歩み寄った。

依然意識を失ったままの母親の傍に、彼は膝をついて座った。
今まで母親らしい事を何もしてくれなかった彼女。その彼女が自分にしてくれた最後の事は殺す事だった。

――――自分はいつか、このことを後悔するんだろうか?

まだ5歳の少年が考えることにしては残酷極まりないのかもしれない。
例え愛情を貰っていなくても少しの愛情はあったであろうに、今この瞬間さえ自分の両目は涸れたまま、潤す液体は出てこない。
無表情のまま、母親の心臓に包丁をつき立てる。静かに、ゆっくりと刃は見えなくなっていく。銀の刃が全て埋まってから彼女の顔を見ると、彼女は弱々しい目で彼を見ていた。最早抵抗する気力すらないのであろう、指は力なく地面に伏せ、唇の端から血の筋を流している。
何の感情もこめないままで刃を抜くと、見る見るうちに白い洋服に出来た縦長の裂け目を中心として赤の面積が広がった。それをそのままの表情で観察し、彼らが“モノ”になった事を確認してから彼は警察に電話をかけた。勿論、警察が到着するまでの時間に自分の指紋を拭き取り、死後硬直が始まる前に母親の手に包丁を握らせ、自分も殺されかけたと言うことを見せるようにその辺にあった破片で自分の腕に傷をつけた。
それから数分して到着した警察も、よもや5歳の子供が自分の両親を殺害するなど考えられる事もせず、事件は両親の無理心中という話に落ち着いた。





気がつけば、いつもの帰り道にいた。
一日どのように授業を受けていたか記憶が曖昧であった。熱でも出ているかのように頭が重く、足元も覚束無い。高架の途中の壁に寄りかかり、息を吐く。目を閉じると目の前に赤色が広がった。久々に過去のことを思い出したからであろうか、妙に血の匂いを感じる。
視線を感じて薄く目を開けると、眼前に誰かがいた。
人間、と書かないのはその人に宿る雰囲気のそれが、人間らしさを感じさせなかったからである。闇色のショールを羽織り、その影に自分の顔を忍ばせ、人間の皮を被った“何か”がその中にいた。
それは静かに暁を指差し、昏い影の内側から話し掛けた。指の指す先は、心の臓。

「お前のそこは何を告げている? あぁ言わずともよい、解している」

不可解な言葉を紡ぐ間も、顔は闇に紛れて見えない。だがしかし見えなくても暁には闇が嗤っているような気がした。
胸の中で警鐘が鳴り響く。――――逃げろ、逃げなくては。
それなのに足は自身の意思に反したように、地面に縫い付けられて動かない。

「哀れなお前にこれをやろう。つけるつけないはお前の自由だがな」

震える手が吸い寄せられるようにあがっていく。汗ばんだ手の平に一つ、硬質な物が落とされた。問いかけようと顔を上げた刹那、闇は跡形もなく消えうせ、思い出したかのように自動車が行き交う喧騒が響いていた。

渡されたのは銀で出来た小さなピアスだった。暁は元々ピアスをしていないので、付けるとなれば穴をあけなくてはならない。
しかし素性もわからない者から渡されたものなど、つける義理が何処にあるのだろうか。
それでも、つけずにはいられなかった。抗いがたい衝動が自身にこうさせるのだと言い訳をして、暁の手は裁縫箱を持っていた。――――これでは少し小さすぎるかもしれない。
その辺の戸棚を漁って、手頃な安全ピンを見つけた。
両親が死んでから暫くは親戚の家に預けられたが、中学入学と同時に以前住んでいたこの家へと戻ってきた。元々この家は父方の祖父母の家であった為ローン等はなかったが、代わりに固定資産税などの税金の義務が課せられていた。それでも幾分かの生活補助は受けていた上に、両親の保険もあったのでそれらは比較的楽に支払い続けている。やはり親戚の心配事は金の問題であったが、その旨を伝えると安心したかのように彼の一人暮らしを支援した。彼らとていつまでもお荷物を抱えている訳にもいかなかったのだろう。
それでなくとも彼らの家には他に数人の子供がいた。意識的にやっていることではないのだろうが、やはりその中にいると自分が異物であると感じる。引き取られた当時は5歳だったのだから自分より年下である親戚の家の子供には事件の事は知らされていないはずだ。だが、大人の微妙な対応の変化から、子供たちは何かを感じ取っていた。それが何であるのか定かではないにしろ、少なくとも子供は大人が思う以上に聡いのである。
子供の頃から、自分の周りには一枚の膜があって、それが自分と社会を断絶しているような気がしていた。その膜は自分の周りをぴったりと覆い、まるで今この地球上には自分一人しかいないのではないかと錯覚を起こす事さえある。
そんな態度を取っていたからだろう、中学校のときからその傾向は始まった。いや、本当はもっと前からあったのかもしれない。ただ、それが発露し始めたのが中学の頃から、ということだ。
最初は些細な事だった。私物が引き裂かれていたり、鞄がなくなっていたり。それでも何の反応も返さずにいると、それは段々とエスカレートしていった。毎日の給食はゴミ箱に捨てられ、時には数日間体育館倉庫に閉じ込められた事もあった。勿論、お約束のようにトイレの便器に顔を突っ込まれた事もある。
確かに最初の内は不快感が勝って抵抗しようかとも思っていた。だがいつの日からだろう、そうする事に何の意味も感じないようになってしまった。
くだらない感傷だ。こんなものを感じれば負けるのだ。自分は相手より上であり、相手は自分より下であるから愚かな僻みで自分を虐げるのだと。そこから先、彼の眼には他人は愚者としか映らなくなった。しかし・・・。
ここまで考えて、先ほどの影を思いだす。今まで見てきたどんな人間とも、どんなものとも異質な存在。手に落とされた銀の塊がやけに重く感じられる。澄んだ光を放っているのに質感は鉛のように、水銀のように重量をたたえて存在をアピールする。
左手の氷で耳を冷やし、右手に握った安全ピンを握りなおす。少し汗ばんだ自分の手に自嘲の笑みを浮かべながら、感覚のなくなった耳朶に針を付きたてた。

 
 
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