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クリエイター名 |
紡木 |
早春
早春が、冬を払って、輝きはじめた。 そう、東條は思った。 未だ風はやや冷たいものの、やわらかくなごみつつある光や、ほころび始めた桜のつぼみが、うるわしい季節の到来を予告している。 通い慣れた道、塀の漆喰がほんのりと輝いているようだ。 先に見える小柄な門が、彼の目的地である。 玄関を掃いていた女中が、こちらに気づいて頭を下げた。 「いらせられませ、東條様。只今、奥様をお呼びいたしますので、どうぞお上がりください。」 「急に邪魔をして済まないね」 「とんでもございません。奥様も、お嬢様も、お喜びになりますよ。本日は旦那様がお付き合いでお出かけになられてしまって」 「あいかわらず、お忙しいことだね」 徒然と話を交わしながら、いつもの応接間に通される。 「少々お待ちくださいませ」 襖を閉められると、部屋にしん、とした静寂が落ちた。 床の間に飾られた梅花が、ほんのりと香る。 やがて、人の気配とともに、カラリと襖が開かれた。 「ようこそいらっしゃいました、章隆さん。」 きりりと締めた帯にほつれなく纏められた黒髪。 人当たりのよい笑みが、硬い空気を和ませている。 「丁度良かったこと。苑子に会ってやってくださいまし。今朝、新しい着物をおろしたところです」 濡れ縁に面した部屋に通される。 今年、数えで十四になったばかりの少女が、ちょこん、と座っている。 「いらっしゃいませ、章隆さま」 はにかみながらも、にこ、と微笑む様子が愛らしい。 「こんにちは、婚約者どの」 今朝おろしたという着物は、淡いくれない。 裾と袂に桜の花弁が散っている。 「こちらには、一足早く春が来たようだ」 やわらかな曲線を描く頬もまた、桜色に染まる。 「ねえやがね、着せてくれたの。満開の桜は、花が開く前に着るものなのですって」 「ええ。本物の桜の前では、どうしても着物は負けてしまうからね。花開く前に、その風情を楽しむのですよ。」 「桜が咲いたら、私もかすんでしまうかしら?」 少し、不安そうに尋ねる様子に、笑みがこぼれた。 「大丈夫。苑子さんは、桜の下では、きっと、一層愛らしく見えるに違いないから。」 東條は、懐から小さな紙包を取り出し、差し出した。 「他愛のない露店で求めたものだけどね。私も、一足先に春の風情を届けようと思って」 包を開くと、桜が香った。 薄紅の縮緬袋に、綿と香を詰めただけのもの。 銅貨数枚程度で求められるそれが、ほんのりと、ちいさな春を運び込んだ。
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