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クリエイター名  奈々橋木和
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【短き夢路】

「猫から豚へ変わるところを見たことはある?」
「そんなことはあるはずがないわ、絶対に、あり得ない」
「……傷付くなぁ。だけど、世の中絶対にあり得ないということは絶対にあり得ない。なぜなら絶対にあり得ないと思われていた汽車は地面の上を走っているわけだし、絶対にあり得ないとされていた卵が立つことだって起こったわけだからね。遠い将来には鉄の塊が空を飛ぶかもしれないし、海の底に沈んでいた化石が息を吹き返して浮き上がってくるかもしれない」
 だったら、と少女は青年の言葉を引き取った。頭の後ろで絡まってしまった髪の毛をどうにか解けないものかと櫛で梳かしながら青年を見る。
 青年は黒い髪に黒い目をしていた。少女の住む国ではとても珍しい色だ。乾いた土の色とも違うし、井戸の底の石の色とも似ていない。似ているとするなら焦がしてしまったパンの色だが、そうなると青年の髪と目は焦げてしまったのかしら、と少女は思った。
「だったら、絶対にあり得ないと言うことも絶対にあり得ないことになるわ。『むじゅん』しているのよ」
 とんま、と続けて言うと、青年は「そうだね」と言って林檎を皮ごと齧った。そんなことをしたら林檎はきっと怒ってしまう。だから林檎はいつも赤くなるのかしらと考えながら少女は青年に「どうして『はんろん』しないの?」と尋ねた。怒ると思ったのに彼が怒らなかったのが不思議だった。
「単純にそう思ったからね、反論するだけの理由がない」青年は林檎の芯を鏡台横のくずかごに投げ入れた。芯はくずかごの縁に当たったが運良くその内側へと落ちていく。「そしてそんなことも絶対にあり得ない。ところで、猫が豚になる様子を聞きたいかい?」
 絶対にあり得ないけれどもしもそうだったら面白いかもしれないと思って、少女は頷いた。その拍子に櫛が髪に絡まって取れなくなる。
 青年は悪戦苦闘している少女の肩を掴むとくるりと振り向かせ、自分はしゃがんで少女の絡まった髪を解きにかかった。やがて櫛は頑固な髪から開放され、部屋中の床を隠している赤い絨毯の上にそっと置かれた。
「猫が豚になるには、まず第一に猫豚委員会にその存在を認められなければならないんだ。だけどこれはとっても簡単なことでね、ディリーにもできることだよ。『自分は猫豚であって海豚でも河豚でも豚豚でもない』と猫語と豚語で叫べばいいんだ。委員会はどこにでもいるから。簡単だろう?」
「ええ、ちっとも!」そう言いながら、難しいけれど猫語と豚語を喋れたらどんなに楽しいのだろうと思って少女は振り向いた。喋れる言葉は三ヶ国語ではなく三種族語だと自己紹介したらきっと誰もが驚き、素敵ねと羨ましがるはずだ。「どうやれば猫語と豚語を覚えられるの? 三つも言葉を覚えていたら、それはとっても素敵だわ。きっと毎日が万華鏡のようにキラキラしてるのよ。薔薇色よりもきっともっと素晴らしいんだわ」
 少女の期待に満ちた表情に青年は困った顔をした。振り向かれていたのでは髪を梳かしてやることができなくなる。櫛は取れたがまだその髪はぼさぼさなのだ。
「だめ、前を向いてて、髪がもつれるから。――猫語と豚語を覚えるためには、まず猫豚にならないとね」
「だけど、今あなたは『猫豚になるためには猫語と豚語が必要』だと言ったばかりじゃない! むじゅんしてるわ!」
「そういうこともあるけれど、そういうこともないかもしれない。とにかく、猫が豚になるためにはそんなことをして、その後、誰も見ていないところで――もちろん人間がだよ――まずしっぽを短くする。ペット猫ならドアの隙間に少しばかりしっぽを挟ませてからバタンとドアを閉めれば一発だ。きっととても痛いだろうけれど、これから先の日々のことを考えたらそのくらいどうということはないだろうね。そうしてめでたくしっぽが短くなったら、次に手で鼻を上向かせてVの発音を豚になるまで繰り返す。ただそれだけのことですっかり猫の毛と髭は抜け落ち、鼻は上を向いて、しっぽは短く豚そっくりになる」
「足は長いまま?」
「もちろんそこは心配ないよ。体の下に足を隠してしまえば足が長い豚かなんて誰にもわからない。たまにいるだろう? ちっとも動こうとしないものぐさな豚が。あれが猫豚なんだ」
 絨毯の上に置いておいた櫛を手に取り、青年はすっかりもつれのなくなった少女の髪を梳かし始めた。前を向いていた少女がふわりとスカートを広げてまた振り返る。
「ねえ! 今から豚小屋に行ってみましょうよ! きっといるわ、その猫豚が! でも、でも……どうすれば猫の姿に戻れるの? 長いしっぽはちょん切れてしまったし、髭もなくなってしまったんでしょう?」
「そんなことは簡単だよ。しっぽは引っ張ればまた伸びる。ちょうどセーターを引っ張れば伸びてしまうようにね。そうして鼻を下へ下へと押さえつけて、その時にまだ猫語を覚えてさえいれば猫に戻れるんだよ。猫語を忘れてしまっていたら、猫語をもう一度覚えるまでは豚のままで生活するしかないだろうね。さあ、ではおやすみ、ディリー。子供はもう世界に冒険に行く時間だよ」
「もっといっぱいお話を聞きたかったのに。猫豚だってまだ見てないわ。……でもわかった、ミスター・ウェルレド。また明日、お話聞かせてね。一日が終わったらまた来るわ!」
「うん。明日までに一つ、何か新しい『話』を手に入れておくよ、リトル・レディ」
 少女が部屋の外に駆け出し、見えなくなる。
 さて行くかと呟いて、青年はその場からふっと掻き消えた。
 一人は現実の世界へ、もう一人は夢のさらに奥の夢の世界へ。
 暖炉のあるこの部屋だけが現実の人間と夢の住人との会合を黙認していた。
 
 
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