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クリエイター名 |
川澄秀郷 |
サンプル
月光
硬質な音を立てて窓硝子が飛散する。空を舞う硝子の粉が、月光を受けて、ダイアモンドダストのように煌く。刹那、夜の校舎に、輝きわたる、星霜。だがそれも一瞬。矢継ぎ早に、窓から飛び出した影が、もう一方の影に踊りかかった。その手には白刃。月光を受けて閃いた。 「消えろぉッ!」 翻ったのは、濃紺のスカートだった。白刃を操るその身は、濃紺のボレロに包まれている。そして、切りつける相手もまた、同じ姿。 「はぁツ!」 その顔が月光に皓く浮き上がる。切れ長の目、秀でた額、細長い鼻梁。厳しい表情をして、相手を袈裟懸けに切りつけた。相手の顔が苦痛に歪む。その相貌は、切りつけた少女と、同じだった。
稜線は鈍びた淡黄色にそまり、吹き抜ける金風は冬の寒さを孕みつつある。しかし硝子窓隔てた教室の中は喧騒に包まれている。午後の授業はもう終わり、生徒たちは帰り支度をしながら談笑していたが、ただ一人窓際の少女だけは、その怜悧な瞳を、窓の外、丘陵の向こう、その果ていずれとも知れず見入っていた。 「ねぇ桜、冷泉さん、転校してきてからずっとああよね。お嬢様は私たちとは付き合いませんってとこかしら?」 声をかけられたのは、柔らかな髪の毛が自然にカールしている、やはり柔らかな印象の少女であった。桜と呼ばれた彼女、吉野桜子は、驚いて身体をびくつかせた。 「なによ、そんなに驚かなくてもいいじゃない」 「ごめんなさい、プリントをちょっと見ていて、」 「別に謝らなくてもいいわよ。それより、知っている? ……」 桜子は取り繕ったが、彼女の大きな瞳は、プリントなどではなく、京香のほうに向いていた。彼女は気になっていた。転校してこの方、クラスメートなどには目もくれない彼女。ただ、その瞳は、窓の外に向いている。いったい彼女は何を見つめているのだろうか。 「、いつも彼女がいるときらしいわよ、って桜、聴いていないでしょ」 「あ、ごめん。で、何の話を?」 「もう。冷泉さんよ」 「え、」 桜子はどきりとした。彼女のことばかり考えていたのが露わになったのかと。 「夜中に学校の窓硝子が割られている晩、いつも、和室の仕様申請が出ている時だって」 「和室。冷泉さん、茶道部よね」 「正確には辞めたけどね。今でも勝手に和室を使っているとか。協調性ゼロって、」 そこまで言ったところで、教師が扉を開け入ってきた。教室のざわめきは、漣のようにひいていった。
学校の中央は、巨大な吹き抜けを各階層の回廊が囲む、ガレリアになっている。桜子は図書館に行くため、最上階へのステップを踏む。最終段の先、回廊に、京香が手すりにもたれかかりながら、ガレリアの階下を見下ろしている。 「冷泉さん」 京香は、声の主が桜子であるのを認めると、顔をもたげ、ゆったりと身体ごと桜子のほうに向き直った。 「なにかしら?」 桜子が京香と正面から向き合ったのはこれがはじめてであった。毅然と伸ばされた姿勢は、彼女の長い背筋や手足をいやがおうにも惹きたる。その高貴な態度は、真っ直ぐ向けられた強い視線と相まって、桜子の中に、彼女の持つ気品への、尊崇の念を呼び起こさずにはいられなかった。 「どうしたの? 桜子さん?」 ファーストネームで呼ばれたことに、桜子の心臓は小禽のように小躍りする。 「あ、いえ、その。お邪魔してごめんなさい」 「構わなくってよ」 「あ、いえ……」 桜子はそれ以上言葉を紡ぎだせない。二人の間に、沈黙が流れる。不甲斐ない自分に、桜子は沈鬱となって、俯いてしまう。これではいけない、何でもいいから言葉を、そう思って口を開きかけた。その時。 「知っていたわ。いつも私を見ているのを」 「あああ、ごめんなさい!」 「いいのよ、謝らなくて」 桜子はまた赤面して、目が潤んだ。ふと、京香は穏やかな目をする。それで、桜子の緊張はいくらか解けた。 「冷泉さん――いつもこんなところで一人で、クラスのみんなは冷泉さんがここで皆を見下しているだなんて、でも、」 「そうね、見下しているのね」 口にしたことを本人に否定され、桜子は言葉を失った。 「畢竟、人間嫌いなのね、私。醜いわ、人間なんて。それでいて自分だけは違うだなんて思っている。傲慢。私はここで、一人、一人、一人、」 京香の瞳から光が消える。威厳をもって聳えていた長身が揺らぐ。翳った顔を手で覆った。桜子は今までに見たことのない京香の様子に、戸惑う。京香は桜子の存在に気が付き、踵を返そうとする。 「待ってください、冷泉さん、いえ、京香さん」 翻ったその腕を、桜子は必死に抱き掴んだ。京香は力なくその手を振り払う。先ほどと同じように手すりにもたれかかるが、その表情には明らかに消耗が見て取れた。 「醜態を見せたわね。ごめんなさい」 「醜態なんかじゃありません。普通ならそうなっちゃいます。無理しないでくださいよ。京香さんだって、本当は寂しいんでしょ?」 「私は。そんな、」 「無理しないで。私を見てください。私はいつも貴方のことを、」 「……ありがとう、桜子さん」 そう、京香は知っている。いつも見てくれた瞳を。桜子の瞳を。 「ありがとう」 夕日が二人の顔を照らし、朱色に染める。閑散としたガレリアに、カリヨンの音が鳴り響く。 「ああ、そうだ、京香さんに聞きたいことがあったの」 「なにかしら?」 京香は首を傾げる。桜子には、その仕草が妙に子供っぽく見えた。 「あの、いつも教室の窓から、何を見ているんですか?」 「窓から? ああ、そうね、」 少し考え込んで、答えた。 「星を見ているの」 桜子はわからなかった。移ろい行く自然であるとか、空の雲であるとか、そういったものを見ているのだと思っていた。星という答えは、桜子の中になかった。 「星、ですか」 桜子がつぶやくと、京香は少し笑った。 「京香さん、一緒に帰りませんか?」 京香は頬に手を当てた。 「ごめんなさい、これからちょっと職員室によらなくてはいけないの」 京香の瞳が泳いだ。桜子は、京香の嘘を感じた。いつも瞳がまっすぐである京香の目が泳ぐ。だから、すぐわかってしまう。純粋な人なんだな、と思った。そこで頭をよぎった。、友人が話していた、学校の窓硝子が夜中に割られている一件が。京香に問い詰めても意味はないだろう。そうだ、私も学校に残ってみよう。 「そう、残念、また今度、一緒に帰りたいな」 「そうね、また今度ね」 桜子は、京香と別れて階下に戻ると、帰宅を急ぐ部活を終えた生徒たちに紛れて、文化部室に向かった。文藝部副部長の彼女は、部室の合鍵を持っている。いけないことだが、今日はここに潜んで、巡回の教師をやり過ごそう。 文化部の部室は、半分部員の私物置き場である。文藝部でも「活動」と称してお茶会を開いたりするので、部室には菓子が置いてあった。教師の巡回をやり過ごすと、桜子は菓子に手を伸ばす。そんなことをしているとなにやら密やかなスパイごっこでもしているようで、桜子はすっかり楽しくなっていた。 廊下の明かりが落とされる。窓からは月光が降り注ぎ、いつも見慣れているはずのオブジェたちは青白く染め上げられ、現実の地平を遊離する。日常から切り離されていく桜子。学校での自分でもなく、家での自分でもない。ここにいる自分は何者なのだろう。 「星、星を見る、」 桜子は京香の言葉を反芻した。四角く切り取られた夜空を見上げる。寂しい秋の星空。その中で、秋の孤独な一等星フォーマルハウトが静かに輝いていた。あの星は京香さんだろうか。星を見る。広大な闇の中、ただ一人光を放ちつづける存在。そこに手を伸ばす。届くのであろうか。人間の最初の原罪。 埒もない想像を巡らせていると、廊下で物音がした。何か動きがあったのだろう、桜子は立ち上がり、部屋を後にした。
月の光を浴びたオブジェは、イデアを失い、ものそれ自体に還元され、京香の目の前に残酷に晒される。 「末人の抜け殻、ね」 無人の教室を見渡す。 「ここにはいない、か」 京香は苛立った。あのようなことがあった日だ、あの女はガレリアにいるに決まっている。あの場所で、倣岸な瞳で見下ろしているのだろう。わかっていて、京香はすぐに向かわなかった。自分の弱さだ。いったい、この物質化された弁証法に、答えを出せるのだろうか。京香は足をガレリアに向けた。
ここで最初に顕れたのは、彼女が茶道部を放逐同然に辞めたあと。一人で和室を借りて、茶を点てていたときだった。台子の点前など終えて、ゆっくりと和三盆と薄茶を楽しむ。一人で茶をするのも愚かしいが、心の中でつぶやきながら。 松風囁く釜から湯を汲み、茶碗に注ぐ。湯をたぎる釜へと戻し、柄杓を切って観念する。茶筅を振ると、全意識、全宇宙が茶碗に収まる。茶碗を回し、貴人畳の上に置くと、客がいた。主客心つながった、京香が歓喜する。見ると、客は京香自身だった。京香の意識は碗から舞い戻った。 「お点前頂戴いたします」 目の前に自分がいるという事実に、京香はひどく冷静だった。 「お服加減はいかがでしょう?」 もう一人の京香が答える。 「一人で茶をするのも愚かしいが」 「貴様!」 咄嗟に茶杓を投げつけると、畳の上には誰もおらず、空の茶碗が転がっていた。
それ以来、彼女はたびたび京香の前に現れた。ある時、自分の言葉に苛立った京香は、カッターナイフで自分を切りつけた。頬に切りつけた瞬間、自分の頬に痛みを感じた。触ると、生暖かい感触とともに、手が緋色に染まった。 驚いて顔をあげると、彼女は口元を歪めて消えた。残ったのは、痛みと、確かな開放感――快感。それ以来、京香は毎晩自分を待っている。彼女を殺すために。
天窓から吹き抜けに月光が降り注ぐ。回廊の柱も、据え付けられた青銅の少女像も、壁面の十二使徒を描いたフレスコ画も、青く染まる。光の柱に囲まれて、桜子は恍惚となっていた。 見上げると、最上階の回廊に誰かがいる。階下からではわかりにくいが、確かに視線を感じる。きっと京香に違いない。桜子は階段へと向かう。階下で、寄木細工の床を軽快に叩く音が聞こえた。振り返ると、一階から、白刃露わにした京香が踊り出たところだった。 「刀?!」 瞬間、京香が床を蹴り上げると、最上層の回廊に向けて一直線に跳躍した。その軌跡には月光を受け輝く鱗粉を散らし、桜子には天使の飛翔に思えた。恍惚としてその光景に見入られていると、会場から剣戟の音が聞こえる。急がなくては、桜子は走った。
桜子が最上階で見たのは、京香が一方的に刀を振るう姿と、傷つき夥しい出血の二人であった。桜子は息を飲んだ。 「やめて、京香さん、」 訳もわからず叫んだ。だが京香は腕を振り下ろすのをやめようとしない。桜子は駆け寄って、京香に抱きつく。全身が濡れた感触で、桜子のボレロにたくさんの、緋色の染みができる。 「どけッ! もう一息で、もう一息で殺せるッ!」 斬りつけられている京香は、もう息も絶え絶えであったが、顔を歪めて笑っていた。 「何がおかしい、殺してやる!」 桜子は必死で京香にしがみついた。抱きしめる力を強くする。 「やめて、殺すなんて、駄目! きっと死んじゃう! こんなに傷ついているのに」 桜子の体温を感じて、京香の力が抜けていく。 「私は。殺さないと。自分を」 桜子は泣きながら叫んだ。 「駄目ぇ! 生きて、私といてよ!」 「なんで。生きていても、私なんか、」 「やだ、京香さんは私といるのぉ!」 京香は膝を落とす。手から、ゆっくりと刀が滑り落ちる。鈍い音がした。 「ふふ。貴方の勝ち、ね」 もう一人の京香がつまらなさそうにつぶやく。京香と桜子が彼女のほうを向いたときには、彼女の姿は掻き消えていた。
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