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クリエイター名  未枝田 合御
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【倦怠におけるソヴァージュの効能】

「ところでねえ、男爵、ここであたしが見事に死んでみせたなら、貴方は一体どう思ってくださるかしら?」

 そんな、彼女の唐突な質問はいつものことだったので、私はリキュールを一口、口の中で転がしてから悠々と言い放ったものだ。
「もちろんその話を元に、話を一本書かせて頂くよ」
「あらまあ、なんて人非人! でもどうしてかしら、それがとてもらしく思うのは、きっと貴方になれちまったせいね」
 にべもなく言い放った私の前で、ロレーヌ=クーダンノヴ=カレルジというやけに豪奢な名を持つ娼婦は厚めの唇を小さくすぼめ、それからぐにゃりと破願した。
「でもね、貴方お願いよ。どうせならせいぜい派手に書いて頂戴な。誰もがうらやむくらいにごてごてしくね」
「愛しいロレーヌ、それくらいは無論承知の上さ。君とは長年の付き合いだ。それくらいはさせてもらうよ」
「そうね、長いわよね。これぞまさに腐れ縁というやつかしら?」
「いいや、ウェヌスのお導き、運命の歯車の一つだよ」
「随分お口が達者ですこと。でもあたしは入れ歯になんかなりたくないの。これ以上歯を浮かせないで頂ける?」
「作る金なら出してあげよう。……いや、それには及ばんね。君にあげた指輪を溶かせば、十人前の銀歯くらいは朝飯前だろうに」
 そう言われたって作る手段がありゃしないわ、と仰け反り笑うロレーヌの喉は、眩しいほどに白かった。酒量が増えていく度に、彼女の肌は白みを帯びていくのである。

波がかった金髪と、はだけた白い素肌を机の上にだらりと広げ、木の面で頬をこするその姿は、まるでどこぞの飼い猫だ。
「ああ、良い夜ねぇ。美味しいお酒に与太話、こんなに愉快なことはありゃしない」
「ずいぶん機嫌がいいようで、私も結構な思いだよ」
「ねえ、お話して頂戴。いつものように、むつかしいお話を聞かせてくださいな」
 媚びるような声音に私は気分を良くし、もったいぶって口を開いた。
 サロンで聞いた神父の悲恋譚、神とは何かという哲学、夫婦の修羅場を目撃した不幸な主婦の話、国政のあり方についての批評と希望、飼い犬に追いかけられた猟師の一日――

ただの思い付きから真面目な学問まで、私はただただ浮かび上がる感情そのままにしゃべり続ける。彼女が話を理解しているかなどそれこそどうでもいいことで、彼女もそれは先刻承知だ。
「と、まあ、こんなところだろうね。ところでロレーヌ、君の話もどうか聞かせてくれないか」
 私は一旦言葉を切り、そう彼女に華を持たせた。互いが思ったことをつらづらとしゃべりあう、これが彼女と私の関係であり、全てであった。
だが、彼女は顔を上げ、しばらくしてから目を逸らすと、
「……お話しすることなんて、もうないわ、男爵」
「おや、一体どう言う風邪の吹き回しだい! おしゃべりすずめが口ごもるなんて、こいつはいよいよ何かありそうだ」
「いいえ、無いのよ。もう無いの。あたしは虚ろになったのよ」
 彼女は笑った。微かに笑んだ。妙に歪んだ笑顔だった。

その微笑みはなぜか昔の彼女を連想させ、だからだろうか、出会ったときの状況なぞを回想してしまったのは。

数年前か、それとももう、数十年になるか。気の遠くなるような惰性の時を過ごしてきた私にとって、日々の流れなどないに等しい。ともかくも私の長い人生に、ぽっと現れたのがロレーヌだった。

犬の遠吠え大きいボワージュ通りの薄暗がり、そこに立ちんぼしていた彼女に話しかけたのは、彼女を買うためでも容姿に惹かれたからでもない。ただの気まぐれだ。あわよくば、次回執筆する小説の作品の手がかりとなる話が、つかめればいいと。そんな風にも考えていたように思う。

ともかくもほんの些細な悪戯心、適当なさじ加減で彼女に声をかけ――そして二人の関係(といえるほどのものでもないだろうが)は始まった。
週明けに一度だけ、こうして酒を飲み交わす約束に、いつの間にかなっていた。

サロンにも酒場にも行かず、雑誌に載せてもらう小説の〆切に終われる日が続いても、私は決して、彼女との約束の日は破らなかったものだ。

多分に考えて、私も彼女も、日々というのに倦んでいたのだろう。結局は傷の舐めあい、愚痴の言い合いなのだろうが、それでも互いが感じる倦怠を吐き出し、笑い、あざけることで、己を保っていられたのだろうと。
少なくとも私は、そう思っていたのに。
 凝視する私から、彼女は気だるげに視線を逸らした。
「本当に良い夜ね。あたしすっかり蕩けちまいそう」
「……おい君、出来上がるにはまだ早いだろうさ」
「もう全部流れ出していく感じ。ああ、空っぽになってく。いいえ、きっと昔からなんにもありゃしないんだわ、あたしには!」
 恍惚と上ずったその声。だが、ゆるんだ表情とは裏腹に青い双眸だけは妙にきわどい。それだからこそ感じる妙な艶に、私の身はぶるりと震えた。
「何故そんなことを言い出すんだね、君は?」
「だってね、男爵。この二十数年間、貴方に話した通りのつまらない人生を送ってきたわ。おんなじことの繰り返し。食べて、して、寝る。虚無に憑かれた毎日は、もううんざりしちまったの」
「ロレーヌ、落ち着きたまえ。君はきっと疲れているんだよ」
「いいえ男爵。あたしは飽きたのよ」
 あっさりとした彼女の言葉に、それでも私は動揺した。

私は彼女と話すことで活力を取り戻していた。甘くない関係で、それでも確かに彼女に支えられていたのである。彼女も以前にそう言っていたはずだ、そう思っていたはずだ。
――なのに何故だろう、彼女は飽きたと私に言う。

悲しみの針がちくりと心に触れ、人並み以上と自負する感性を刺激する。だが、そんな様はおくびにも出さず、苦笑して、
「まさか、そんなことを言われるとはね。悲しいよロレーヌ、君は私といても退屈だと?」
 彼女はなにも答えなかった。
ああ……その瞳のなんと澄んでいることだろう。

私は思わず深い青に見とれ、口を噤んだ。辺りに訪れる重苦しい沈黙。ピンと張り詰めた空気の幕を切ったのは、彼女の方だった。
「男爵、飲みましょう。いいお酒をもらったの」
 私はロレーヌを止めた、が、彼女は私の制止を無視し、それこそまさに身軽な猫のごとき動作で部屋から出て行く。

残された私がどのくらい、疑問に頭を悩ませ心を病ませつつ、時計の針の音を聞いていただろう。
「お待たせしたわね、男爵。さあどうぞお飲みになって! 今夜を締めくくるのに最高の酒よ」

先程の様子はどこへやら、嬉々とした様子で戻ってきた彼女の手には、無色の液体に満たされた新たなグラスが二つ。不意に鼻腔をくすぐる芳香に、私はハッとした。
「フランボワーズ・ソヴァージュか! これは随分と高い酒を出すものだ」
 彼女は私に答えず、そのグラスを黙って差し出してきた。

いささか困惑しながらも、私は素直にグラスを取る。ふわりと広がる芳香は確かに私の気をそそりはするが、何故かすぐに手をつける気にはならなかった。
「……あたしはね、男爵、貴方とずっと話してきて思ったの」
 再度椅子に座った彼女は、言う。
「貴方みたいに哀しみを皮肉ったり笑い話にしたり、そりゃあ出来れば楽でしょう。でもね男爵、高貴なお方。あたしには無理なのよ。貴方みたいに学問があるわけでも、精神的に強靭なわけでもありゃしない。同じことを悩んで思って、またまた同じことを繰り返す、そんな毎日にゃもう、あたしはうんざりしちまったのよ」
「……それは君、血筋やお家柄の問題ではないよ。そういうものにかこつけた、ただの逃避さ」
「ええ、ええ、そうでしょうとも。でも、貴方みたいに適当に生きていける人が全てではないのよ、男爵」
 いつになくきつい物言いに、さしもの私も気分を害した。
「随分な物言いだね、今日の君はどうにかしている。それを承知で私も言うが、君はただ、自分の弱さを認めたくないだけではないのかい? 己の弱さを棚に上げ、肩書きに全てを背負わせようとはしていないかい? 君の言い分は、無印だからこそいえる驕慢さからきているのではないのだろうか?」
「驕慢」
 彼女は計らずしも衝撃を覚えたようで、一瞬呆気にとられた顔をした。

彼女は少しうつむき、まるで言葉を吟味するかのように繰り返し、舌の上で私の台詞を繰り返していたが、やおらに顔を上げるときっぱりと首肯してみせた。
「そうね。男爵、全く貴方の言う通りよ」
「……ああ、そうさ。君の突拍子のなさ、我侭はお偉方にも通用するよ! 私が保証してあげよう、自信を持ちたまえ」
 などと冗談を飛ばしてみせたものの、やけに真摯な彼女の言動、表情に心がざわついたのは否めない。
彼女はもう一度、感心したように頷いた。
「貴方の言うとおり、あたしは驕慢なんだわね。だから『こんなこと』だって人前で惜しげもなく、出来てしまうんだわ……」
 自嘲を顔に、彼女は長いまつげを伏せた。

唇に、グラスの液体が注がれていく。味わうことも、香りを堪能することもなく、ただただ勢いにまかせるように。
あっという間に全てを飲み干した彼女は、ほう、と色っぽいためいきをついて――
目を開ける。
「あたしは死ぬわ、男爵」
 それはとてもとても穏やかな声だった。
「……ロレーヌ?」
 呆気に取られた私は見る。彼女の唇から、つっ、と一筋、赤い線が走ったのを。
――毒だ。彼女は毒を飲んだのだ。

あまりに赤いその筋は、私の心にしかと陰影を刻んでゆく。男の背につけられる愛の証のように。地震で深くえぐられた大地の亀裂のように。
……私の心に、跡をつけていく。
「ごめんなさいね、最後まで貴方に付き合ってあげられなくて」
 ロレーヌ、と名を呼ぶ私に、彼女は小さく頭を振った。
「貴方はあたしがいなくても、きっと平然と生きていくでしょう。いいえ、それだけじゃあない。あたしの死をも踏み台にするはずよ。でも、それでいいの。だってそれが私の知ってる貴方なんだもの!」
 スタンスは崩さないでいてね、男爵、と彼女は椅子に深く座り、その背凭れに身を預けた。
「これで少しは、貴方の退屈がまぎれたかしら……」
 私は何も言わず、言えず、ただ黙って彼女が冥土に向かっていくのを見ているしか出来なかった。しかも、それがどうしてなのかはわからない。
「ああ……」
 感嘆か、それとも安堵かのためいきを漏らし、一息。
「さすがにヘレボルスは、利くわねぇ」
 笑って、彼女は二十数年の虚無とやらをあっさり終えた。


一人、部屋にぽつねんと置かれた私は、それでもグラスを手放さない。一度に半分以上を口にして、酒精の混じった息を吐く。
主のいない部屋の中、それでも暖炉は燃え盛り、時計は時間を刻んでいく。
「結局君は、何一つ理解してはいなかったのだよ」
 自身のことも、世のことも、そしてこの私のことも。

何故だろう、銘酒だからこその貴い香りが鼻につき、私は顔を露骨にしかめた。しかめたところで何が変わるわけでもないが、それでも私は私のスタンスを崩してはならないのだ。
平静を保とうとする己の心に、彼女との記憶が滑りこむ。
「君を失った哀しみに、私が耐え切れると思っているのかい」
 それは君の誤算だろう、と無理やり笑みを作ってみた。
 一個の死体に話しかけても帰ってくるのは空虚な響きで、私はただただ拒絶するように顔を背ける。
何一つ理解していない彼女に、それでも何故か腹は立たない。
 ……それとも彼女は、理解したくなかったのだろうか。
自身のことも、世のことも、そしてこの私のことも――
「ロレーヌ」

彼女を見た。一個の死体を見た。その蝋のように白い彼女の顔を、私はただ見続けた。
「ロレーヌ」
答えはない。永遠に帰ってこない。そして私はきっと、それで安堵している。

彼女が私を理解しがたい者と考えていたのか、愚かな者だと考えていたのか、それともかけがえのない者と考えていてくれたのか、私には分からないままだ。

明確に答えを出さない宙ぶらりんな生き方をしている私にとって、真実ほど怖いものはない。
最期の最期まで、彼女は優しかった。
こんな私を気遣ってくれたのだから――

だから、私は応えねばならない。彼女が望んだように、私のスタンスを崩さぬままに別れを述べねばならないのだ。
私はグラスを持ち上げ、空中で軽くぶつけるまねをする。
「……ロレーヌ、愛しの君へ。君の心遣いに感謝する。ありがとう、愛しているよ、――さようなら!」
 グラス越しに見た彼女の死に顔がどこか満足げに見えたのは、きっと私のエゴだろう。


……私は身支度を整えると、一度も振り返らずに部屋を出た。コートはない。彼女の体にかけてきたから。

空に輝く月は燦然と輝き、時折吹く夜風は氷のように冷たい。白い息を吐いて天を仰ぎ、酔いを醒ますために軽く、頭を振る。
相変わらず大きい犬の泣き声を背に、私は歩き出した。

彼女の死後の処置や身のあり方よりも、今までやり取りしてきた彼女との言葉遊びの数々、思想の断片、そして今、しかと目にした自殺というものに対する考証の方が気になった。
結局私はそういう人間なのだ。
 人様を踏み台にして、食い物にして、生きていくのだ。

これからも私は変わらず、下らない思想ごっこに現を抜かし、ときたま世間に怒りをぶつけ、怠惰に時の流れを泳いでいくのだろう。
時に、彼女の死を酒のつまみにして。
 ああ、愛しかった君、我が心の恋人。

そのときはせめて、果汁ではなく銘酒――そう、ソヴァージュを楽しもう。君の最後を思い出せるように。味わえるように。忘れぬように。

そうでもしなければ、きっと私の惰性の日々に、彼女の亡骸は埋もれてしまうのだから――

……闇夜を歩く私の目の前には、いつもと同じ町並みが広がっていた。
 
 
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