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クリエイター名  ヒゲもっこふ
サンプル

「貴顕なる紳士淑女の皆様方。今宵お聞かせ致しますは、虚妄のようで真実の物語。『今ではない刻』の中『ここではない何処か』にて、流転により移ろい去られた狭間ので出来事。何々? 毎度毎度前置きが長い? ごもっともで。されど、これも今宵の清宴を盛装せんがため、しがなき一語り部が無き知恵を絞りて紡いだ趣向。他意は微塵も御座いませぬ故、もうしばらくこの戯言にご甘受いただき、お付き合い願えたら幸いかと存じます」


「ある日その気紛れ故か、全能なる神は地を這いし人間に対して一つの贈り物をすることに決めました。それは神が手ずから創造した代物。女神を模した麗しの金型。贈り者の名をパンドラと言いました。神はパンドラを地上に贈り出す際、一つの小箱を持参させました。『決してこの箱を開けてはならない』という戒めの御詞と共に。それは下界に住まう卑しき人間のみに対しての言葉であったはずでした。ですが、神は一番肝心なことを失念していたのです。パンドラもまたその『人』であることを――。パンドラはしかと小箱を両の手で抱くと、下々に続く螺旋回廊を降りて行きました。無窓の回廊は悠久の閉塞感をパンドラに植え付けます。一つ又一つ、閑散とした廊下に靴音が響く度にパンドラの皮裏に言い知れぬ不安が押し寄せました。詰まるかのように呼吸は次第に荒さを増し、意識は朦朧としていきます。生まれて初めて親から仰せつかった大役による重圧。パンドラは如何に自分が脆弱にして微弱であるかを悟りました。なぜ神は自分をもっと堅強に創らなかったのだろう。パンドラが初めて愚痴の言をこぼした相手は、皮肉にも自らの親だったのです。それでもパンドラは前へ前へと歩んで行きます。戻っても自分の居場所などないことを無意識にわかっていたのでしょうか。やがて現在と永久の幕間の一時、パンドラは下界に繋がる大門に至りました。安堵に打ち震えるパンドラ。『この道は本当にどこかに通じているのだろうか』という猜疑が音を立てて壊れ行く瞬間でもありました。けれど、人間が真に注意せねばならぬは『緊張が解ける一瞬』である、それに気付くにはまだパンドラは幼すぎたのです。それはまさに《魔が差した》としか言いようがありませんでした。滾る欲求を抑え切れなかったと言うには、あまりに短い時間が過ぎ去った頃。パンドラは恍惚と法悦の入り混じった笑みを浮かべ、禁断の箱にその手を掛けていました。そして軋むような音と共に蓋が開かれた刹那、箱の中に息づくありとあらゆる厄災が一斉に地上に降り注いだと言います」

 ああ、だからこそ神が戒禁をその口にしたというのに……!

「箱が世界に吐き出した厄災、その数、数多幾億万とも称されます。もしそれらに色彩があったならば、まるで夕刻の宵闇を謳歌する蝙蝠の群れの如く、大空を漆黒に染めたことだったでしょう。――酷悪の嵐から数刻。辺りは嘘のように静まり返っていましたが、それでもその爪痕が消えることはありません。だらりとだらしなく口を開けた箱は、夜闇に浮かぶ弦月を一人見つめていました。そこで不意に。厄災たちがいなくなった矩形の部屋の片隅、終ぞ外に出ず、膝を抱え蹲る一つの陰があることを知ったのです。残されたその陰は軽風吹き荒べば消え入ってしまいそうな、そんな微かな光を放っていました。小箱は慈しむように、ゆっくりと上蓋でその光を包みました。彼がそれを理解してそうしたのかどうかは定かではありませんが、最後に残った淡い光は人の世において『希望』と呼ばれるものだったのです」



 
 
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