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クリエイター名  ヒゲもっこふ
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「時間分解能」

さて、皆々様。
このような聞きなれない言葉を、皆様はご存知でしょうか?
意味は調べたんですが、詳しすぎる所は何を語っているのかチプンカンプン(学がなくてすみません…)でしたし、簡単に触れているところはその言葉を使っているだけで説明はないようなとこばかりでした。


それでも、調べられたこと・理解できたことはあるので、そんな拙い情報でも構わない方のために、これからボクの解釈がメインになってしまいますがちょっと説明していきたいと思います。

ぶっちゃけた話、「時間分解能」というのはそのままの意味のようです。
どういうことかというと、我々は日々「時の流れを」およそ時間、分、秒という概念で捉えています。その中でも最も細分化された時間というのが秒です。
1。はい、もう秒は過ぎました。今、これを読んでいるあなたは意識して時間を感じたわけです。ですが、はっきり言って今感じた時間というのを表現しろ、と言われると曖昧すぎて困ってしまいますよね。絶対に正確な一秒ではなかったでしょうし。でもまあ、我々が意識して時間を感じられるのは細分化してもその程度だと理解するには十分だったかと思います。
では、何を言いたいのか、と言えば。なにも我々は常に時間の流れを意識し、感ずるべくして感じているわけでは決してないということなのです。むしろ日常、生理的・無意識的に時間を感じている方が大半を占めるのが当然でしょう。
で、本題に戻るわけですが、「では我々は、無意識的に一体どれくらい細分化された時間まで感じ取っているのだろうか? もしくは、感じ取れているのだろうか?」と先の文章から思い始めた方も多いのでは? とご都合主義に走ってみたいと思います(笑)
まさにそれなのです。つまり『我々がどの段階まで無意識下で時間を分解して感じられるか』ということを表現した言葉が「時間分解能」なのです。で、結論から言えばはっきりとしたことはわかりません(爆)なぜなら、人間の精神というのは波が激しく、一定の状態を保つのが非常に困難だからです。特に大量の情報を処理しようとして消耗すると、急激に分解能は下がってしまうので、どうしても一番欲しいデータの部分が曖昧になってしまうのです。それでも、そうした曖昧なデータを取りつづけることである種の規定値を割り出した人もいるそうです。

それを参考のためにこれから書きます。ですが、気をつけて下さい。これから言う数値は飽くまで推測の域を出ない情報です。公の場での公開においての責任は一切取れませんので、それをご了承頂いた上でお願いします。

どうも人の「時間分解能」というのは1/20〜1/50秒ほどの数値を示すようです。わかりにくい人は映画とかのフィルムを思い浮かべて下さい。そしてそれが、人間の意識の中でも同じように構成されていると思ってください。
それが出来たら次に、一本の映画が「1秒」で出来ていると考えてください。そうすると、例えば「1/50秒」という上記数値を取っていた場合、映画は50カットで成立することになりますよね。単純に「1秒」という1つの物質を50という数で分割するわけですから。
で、そこまできたらもう理解できたかと思います。そうなんです。あなたが今想定した「1秒間50カットの映画」、その『1カット1カットをきちんとした区分(場面)として認識することができる』ということが「時間分解能1/50秒」なのです。つまり、一瞬だと思っている1秒でも、頭の中では無意識の内にさらに細分化して認識しているわけですね。


では、この「時間分解能」これにて説明終わり。
といきたいところですが、まだそういうわけにもいきません。
実はこの「時間分解能」さらに五感ごとにも微妙に違うそうなのです。
先程まではそれらをまとめて「無意識下」という表現で表しましたが、
視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚にも「時間分解能」が存在するらしいのです。
ここからは更によくわからなくなるのですが、聴覚は他の何百倍という細分化ができるということです。逆に視覚・触覚は「無意識下」となんら変わりない数値をはじき出すといいます。ですが、この数値もその時の感覚の鋭敏さや、精神状態、脳内の情報処理状況、外界の変相などなどによってそれこそいくらでも変化する数値であり、「無意識下の時間分解能」と同様やはり数値の裏づけが果てしなく難しいようです。いえ、難しいと断言できるでしょう。
ですから、こうしたもの全ての値の統計を隈なく取れなければ正確な「人間の時間分解能」は計れないということもあるが故に、上記の1/20〜1/50という数値もほんとうに曖昧な数値と言わざるを得ないわけです。むろん、この数値に辿り着くにもかなりの実験が繰り返されたことと思いますが。精神波長に波の起こらない人間でもいれば話も少しは簡単になるんでしょうけどね。いませんしね、そんな人。といいますか「それは人間なのか?」という疑問が浮かんできてしまいそうですよね。


あと余談ですが「固視微動」という言葉があります。
「目の黒目は一点を注視している時その動きは止まっているように見えるが、実際には小さな動きを絶えず行っている」という目の状態のことを指す言葉なのです。勘違いしやすいのですが(ボクも最初勘違いしました)これは病気ではなく、みなさんの目も絶えず「固視微動」を続けています。もししていなかったら目に見えているビジョンの更新がなされなくなり、その内その目に映っているビジョンはぼやけ何も見えなくなってしまうでしょう。つまり、「固視微動」とはれっきとした目の正常な動作なのです。
詳しいこの動作の機能としては「絶えず動いて、動く毎に新しい映像を脳内に更新する」ということが挙げられます。つまりこの目の機能から考えるに、我々の見ている映像は一つの半永続的な代物ではなく、断続的な画像の連鎖の結果だと言えるでしょう。
とここまでで、勘の良い方は気が付いたかもしれません。「先程のフィルムの話に似てるんじゃないか?」と。そうなんです。すごく似てますよね。だから、ボクは仮説を立ててみました。「固視微動」の更新する画像の間隔と、視覚の「時間分解能」の間隔は、実は一緒なんじゃないかという。正直な話、そんな証拠はどこにもありません。ボク自身そうした人体の謎などに関わって勉強してきたわけではないもので(苦笑)ですが「固視微動」自体コンマ何秒という世界で起こっている連続動作らしいですし、また五感という区分ごとに「時間分解能」に違いが生じているという辺りから、今までの全てのことを統合すると「目という存在は、自身が分解しても認識できる時間分解の限界ギリギリ毎に、脳内へと画像を更新し続けてるのではないか」と思わずにはいられないのです。
映画を作るとき、より鮮明に映像を映し出すために、映画のフィルムはより秒間の細かいものを使うそうです。その分処理などが難しくなるわけですが、その背景には「それでもより良い映像を世に出したい」という製作側のこだわりがあり、だから限界までカット(コマ)数を増やしたかどうかを見ればその映画にかける製作者側の思い入れが垣間見れるということです。
話が少し外れましたが、それを人間の目に置き換えてみるとどうでしょう。もし人間の構造内の目もそう考えるように作られてるとしたら。すると、先ほどのボクの漠然とした仮説もあながち無くは無いな、と思えてはこないでしょうか。
「目は我々を代表する脳に少しでも緻密で鮮やかな映像を送りたいがために、目がギリギリ認識できるラインの間隔でシャッターを切り続け画像をつなぎ合せている」というと、目が擬人化されていておかしなようにも思えますが、元々身体の各部位は人間という一個体をより快適に動かせるよう働く役割を担っているわけですから、目がそのような目標を持って動いていたとしてもなんら不思議はないかなと思ってしまう小生でした。


さて、長々と書き連ねましたが、これは全て色々な情報から知識を得て私が勝手に解釈した駄文です。「時間分解能」という言葉の簡単な概念だけでも理解してもらえたら、というコンセプトで書くに及びました。むろんその折、出来るだけウソのないように語弊のありそうな表現は極力避けましたが、専門家から見たら「なんだこれ…、ウソも甚だしい」と思われる部分が多いかもしれません。ですから、それに対しコメントで「ここはこうだから、これは違うよ」などのご指摘を下さるのは、むしろこちらとしても勉強になりますし、喜ばしい限りだと思うので遠慮なさらずドシドシお願いしたいと思っております。ですが「もっときちんとした研究をして情報を集めなおせ」などのご叱咤だけは現状そうした学問にのみ専念できる状況ではありませんので、ご勘弁願えますようよろしくお願い致します。

では、少しでもこの駄文を楽しんで頂けたならば光栄至極の極みにございます。

PS:「時間分解能」「固視微動」という言葉は実際に存在します。
 
 
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