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クリエイター名 |
大樹 |
サンプル
少女は駆けていた。 ぜいぜいと呼吸が荒く、汗が目に入って痛い。だが体はどこか機械のようにただ繰り返している。足を出来る限り速く動かして速やかにこの場を離れなければならない。走る走る走る。 そこに感情は介在しない。それは義務だった。走らねばならない。走り続けねばゆるされない。 辺りは茫洋として暗かった。光とは何であっただろうか。 高い靴音がひっきりなしに響いている。少女は追い立てる靴音を振り払うように右へ左へと何度も曲がった。 人工的なセンサーライトだけが鈍く明滅している。 「――だ!」 不意に男の声が空間を貫いて反響した。少女は足を止めない、ただ走り続けている。毛細血管のように壁に、床に、幾重にも重なって何かのコードが這っている。それらは全て一に集約している―― 少女は不意に立ち止まった。目の前には扉が一つ、そのすぐ横にパスワード入力のための端末が備えられていた。入力出来るものは数字だけという旧式タイプだった。他に道はない。 少女は端末には目もくれず、扉まで駆けると床に這いつくばった。必死に指を滑らせ神経を尖らせる。リノリウム張りの床には傷一つなかったが、薄暗い中で懸命に目をこらす。 靴音はどんどん高くなってくる。間隔を開けず増えていく。 やがてその華奢な指が、不意に止まった。少女は鋭く呼気を吐き床に爪を立てる――赤と緑、何のためか分からないランプだけが不気味に明滅している。 爪を立てたところには、ほんの僅かな隙間があった。爪だけではうまくいかず、仕方なく腰に装備したウェストバッグから大振りのコンバットナイフを取り出す。刀身まで真っ黒で、ブレード部分には何かの文字が入っていた。 少女は躊躇いもせずにナイフを突き刺し、隙間からねじ込む。めり、と不快な音を立てて床の一部分が剥がれた。 その下にはやはり端末があった。ただし数字を入力するタイプではない。高性能の生体認証システム――バイオメトリクスの粋を極めたそれは、隆起線の分岐点お呼び途切れている点などの特徴点を利用して識別するものだった。従来の指紋認証システムよりも遥かに微細な特徴まで捉えることが出来るタイプで、指から血流の流れまで感知することが出来る。死んだ人間の指や型を取ったフェイクでは、この端末を騙しとおすことは出来ない。少女は躊躇わずに左上の電源を入れると、右手の中指を装置に差し込んだ。 ほどなくして、小さな電子音。 靴音は近づいている。 少女は立ち上がると、扉の脇にあった端末に指を滑らせ、慣れた動作で四桁の数字を入力した。 ピピッ、と電子体温計にも似た電子音が響く。プシュッと空気が抜ける音と共に扉はスライドした。少女は駆け込むと、中の開閉ボタンを叩くように拳を押し付けた。 「いたぞ!!」 数名の兵装の男が扉の向こうにようやく姿を現し銃を構える――その弾を再びスライドした扉が遮り、弾痕が足跡のように扉を滑った。 「クソっ、中に――!」 「どういうことだ!?あそこは特級区域のはずだぞ!どうやって――!?」 男達の怒号は最早中には届かなかった。少女は小さく息を吐くと、踵を返す。 その空間は全てより秘されていた。
いくつものコンソールが林立し、明滅する光に眩暈がした。画面は中央に一つ。そこから数え切れないコードの束が蠢くように床を這っている。 中央処理装置――この都市でほとんどのシステム制御演算を担っている10台のCPUを一括し制御することの出来る唯一のマザーシステム、“セフィロト”がそこにある。 数あるシステム――ケテル、コクマー、ビナー、ケセド、ゲブラー、ティフェレト、ネツァフ、ホド、イェソド、マルクト。 幾人もの名のある科学者やプログラマがどんなに力を尽くしても、次々と活動を停止するコンピュータを再起動させることは出来なかった。今現在動いているのはシステムイェソドとシステムケセドの二つだけである。その二つさえあれば確かに生きるのに支障はないが、最近ではケセドが徐々に活動停止準備に入っていることが明らかになっている。 その事実は一般の人間には一切知らされていない。 少女は顔を上げた。依然沈黙を保つマザー“セフィロト”。今まで数え切れない科学者達が挑んできたが起動出来る人間は皆無だった。 そもそも“セフィロト”を設計した男はもうこの世にはいない。内部構造を詳細に把握していたのはその男だけだった。 少女は真っ直ぐに中央へ向かうと、コンソールに指を滑らせた。 ――“セフィロト”は沈黙を保っている。考えられる限りのあらゆる手段を講じてみたものの、やはり起動する気配はない。 見た限りではどこが電源なのかも判然としなかった。 「…………駄目か」 溜息のように言葉を溢す―― 「いつまで黙ってみてるの」 少女は振り返らずに憮然と言った。途端、それまで片隅で沈黙していた影が揺らめくように非常灯の下へと移動する。 「何だ、気付いてたのか」 「……当たり前」 「結構早かったな。――で、何で一人なんだ?」 「…………」 少女は応えない。男はやれやれとぼやくと、壁に再び背を預けた。少女が懸命にコンソールをいじっているのを助けるでもなく、ただ鑑賞している。 「おーい」 「………………何」 「ここまで来れたってことは、間違いないんだろうけど。なあ、ほんとにお前が《左目》なのか?」 少女は半身で応じた。手にはいつのまにか、先程のコンバットナイフが握られている。華奢な肢体にそれはいかにも不釣合いだった。 「おーこわ、随分前時代的だな」 「貴方達が頼りすぎ」 「そうかい?」 「そう。……」 《左目》と呼ばれた少女は鋭く男を睨み据えている。男は口角を吊り上げると肩を竦めた。 「そう睨むなよ。ちょっと驚いただけだ。……で、最初の質問にまだ答えてもらっていないんだがな」 「…………」 「《右手》はどうしたんだ?」 「来ない」 「…………はぁ?」 即答され、男は少しの間を置いて頓狂な声を出した。少女はナイフを握る手に力を込めて男に向き直った。 「右手は、来ない」 「――どういう意味だ?」 「……自分で考えたら」 少女は白衣の男を油断なく見据えて短く答える。男はふむ、とわざとらしく腕を組んで見せた。 「そりゃ、困ったなあ。《左目》だけで“セフィロト”は起動出来ないんじゃないか」 「出来ない」 「……おいおい。じゃ、さっきから何やってんだよ」 男は特別怒り出すわけでもなく、のんびりと頭をかいた。《左目》は目を眇める。目前の白衣の男の目的が判然としない。 《左目》は《右手》に言われてここまで来た。あとのことは知ったことではない。《右手》に顎で使われるのは癪だが、だからといって投げ出してしまうほど子供でもなかった。 「《大天使》とリンクする」 「……“ガブリエル”のことか?」 「そう。……邪魔、しないで」 「しないけど。俺としても殺されたくないし、あんたが死んだりしても困るし」 「じゃあ、何で潜入なんてさせたの」 「んー?いや、俺にも立場があるし。、まさかこんなかわいい女の子が一人で来ると思ってなかったし。てっきり《右手》が一緒なのかと」 「…………」 少女はゆっくりとナイフを脇に置くと、そのまま作業を開始した。やがて幾度目かに指を滑らせた辺りで、不意に重々しい駆動音が空間を震わせる。 「おー、動いた」 まるで他人事のように言う男には取り合わず、《左目》は光を取り戻した画面に顔を上げた。 「来たよ、“ガブリエル”」 誰ともなく声をかけるが返事は返るはずもない。《左目》はキーボードに指を走らせた。 男は《左目》の作業している様子をただ観察している。 システム・イェソドのメインフレームである“ガブリエル”へと連結、強制侵入。今《左目》が動かしているのは“セフィロト”を補助する装置の一つに過ぎないが、“セフィロト”を起こすことは出来なくてもネットワークを通じてこれぐらいのことは出来る。最も“セフィロト”に気付かれて強制終了されるまでに仕事を終わらせなければならない。時間的猶予はあまりなかった。 “ガブリエル”へ強制侵入、プログラムの書き換え、連結解除。 それらの作業を少女はとても簡単にこなす。男はそれをただ見ている。 数多の人間が出来ないと苦悩していることを簡単に行ってしまったのは“ガブリエル”へのハッキングなんて強引な手段を取ったからで、 そしてそんなことが出来る人間はそうそういない。それは少女が《左目》と呼ばれる所以の一つだった。 「……終わった」 「おお。終わったか」 「うん。……帰る」 「待て待て。表から帰る気か?きっと今頃兵士がうろうろしてるぞ。あ、もしかして実はプロの暗殺者とか?これぐらいの修羅場余裕?」 「馬鹿にしてるの?そんなわけない」 「なんだ……」 ちょっと肩を落としている男を少女は目を細めて見据えた。明らかな軽蔑の眼差しにも気付かず、男は大きく溜息を吐く。 「ねー。“セフィロト”は?」 「出来ない。……あ、」 少女が小さく声を上げたと同時に、唐突に駆動音が収束していった。それまで鈍い輝きを放っていたコンソールが沈黙していく。 「時間切れ」 「おお」 「………………帰る。《右手》が待ってる」 「わかったわかった、じゃあちょっと待ってろ。表の奴ら追い払ってくるから。30分したら出てくるんだぞ」 「貴方は?」 「お前が逃げられるような環境を整えとくさ。一時間以内にはここを出ろよ。見付かっても助けない」 「期待してない。早く行って」 「……はいはい」 疲れたように男は苦笑いして、真っ直ぐ扉へ向かう。《左目》は時間を潰すために、ひとまず扉から死角になる位置に移動して腰を下ろした。 皮製の手袋は今や貴重だ。そういえば表の指紋認証装置から指紋の跡を拭ってなかったが、あとはあの男がどうにかするだろう。 光は弱く明滅している。まるでその様が鳴いているようで、それは歌に似ていた。
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